念仏宗 芸能人。 念仏宗について。初めてまして。今僕は父親から念仏宗の勧誘を...

念佛宗三寶山無量壽寺

念仏宗 芸能人

京都にいくまでに2回程度面接。 参加する意志を確認される。 その時、家族の仕事などを表に書かされた紙を提出させられる。 冥加料38万円。 当日、朝早く京都別院に向かう。 ホテルから車で順に出発して別院に到着。 参加する人は「お正客」と呼ばれ、特別扱い。 勧誘者は「お同伴」という。 男性は略礼服、女性も黒い礼服。 健康状態を確認される。 大広間には金色の阿弥陀如来と左右に日光菩薩・月光菩薩がある。 阿弥陀仏の前は畳が一段高い。 阿弥陀仏に向かって左に教壇、そこを向いてお正客が座る。 善知識の迎え方として、五体投地の作法をならう。 入信していないにもかかわらず、従うしかない状況。 説法の内容は別記しますので省略します。 白装束に着替え、儀式での作法を覚えさせられる。 「南無阿弥陀仏」と10回唱え、独自の拝み方を覚える。 信貴山朝護孫子寺の張り子の虎のように、首を振って頭を打ち付け眉間(白毫)の第三の目を開く儀式の練習。 儀式は仏間で行われる。 手を消毒薬で洗い、口を塩水でゆすぎ 再び手に塩をつけて流す。 一人ずつ順番に並び、仏間に入る。 目をつむり、胸元で死人の様に両手を組み、襟をつかむ。 合図で前にある打敷きに頭を打ち付ける(オツムてんてん)。 スポンジの様な感触で痛くはない。 「よし」と言われ、信心決定となる。 お礼で、五体投地と「南無阿弥陀仏」を唱える。 仏間は暗い布で囲われ、祭壇と阿弥陀如来の掛け軸がかかっている。 日光菩薩、月光菩薩と一体になる儀式。 善知識と対面して座り、片手を合わせる。 善知識の「南無阿弥陀仏」を復唱した後、強く息を吹きかけられる。 口をつけた盃の水も飲まなければならない。 日光菩薩は10回、月光菩薩は5回行う。 このことは絶対に他言してはいけないと宣誓させれれる。 順番に、鈴を鳴らし、「絶対に他言致しません」と誓約。 次の日は、朝早くから白装束で仏間に入る。 その後、菩薩となった証を見せるとのことで、黒法衣で外に出る。 太陽を直視することができるようになったとのことで、太陽の輪郭がはっきりと見える。 太陽を見た後でも足元の暗いところがはっきり明るく見える(日想観という)。 儀式を受けたので、死して六道輪廻に入らず、阿弥陀のもとに行ける身となったと説明。 そして、これから誓約を守らないと六道輪廻に逆戻りになる。 もうひとつの証は、化仏化菩薩を見ることができる。 また外に出て、黄法衣の方に見方を教えてもらう。 方法は、青空を見上げ、眉間の20cm程前に焦点を合わせていくと、空中に白い小さな光が飛び回るのが見える。 眼鏡をかけても見える。 、背景を白い壁に移しても見られる。 このほかに月を見ること(水想観)もある。 日想観・水想観・化仏化菩薩、この三つが重要である。 最後に「南無阿弥陀仏」と写経した紙を仏間に供え、線香をあげて経を唱える。 そして、写経した「南無阿弥陀仏」の紙は、家に帰り、夜中12時前にへその上に貼って眠った後、早朝、近くの川に流しに行く(御六字)。 「七五三」 人間の顔には7つの穴(口)がある、体の中に5つの臓腑がある、下半身には3つの穴がある、だから七五三。 また、穴 口 の数は上下で10コあるが、第3の眼を開けば11の穴になる。 11の穴と、七+五+三=15で、11月15日が七五三の日。 神社のおみくじの「吉」は、十一番目の口と書く。 「相撲」 相撲の土俵には4つの大きな俵と、32の小さな俵がある。 4+32=36で、2つに割ったら18になる、これは弥陀の十八願を表している。 軍配には太陽と月が書かれている。 それは日想願 表 と水想願 裏 つまり表裏一体を表している。 軍配の下に何かついている。 その数は18個であり、もちろんこれは弥陀の十八願を示している。 理想の立会いは「阿吽の呼吸」をもって行われるとされる。 阿吽=神社の狛犬=仁王像である。 満員御礼の垂れ幕というのは花札の桜と同じで日想願。 「浦島太郎」 亀を助け 前世で善行をつんだ 、竜宮城に行った。 乙姫様に玉手箱をもらった 正法をもらったということ。 玉手箱を開けたらおじいさんになった 「人に言ってはいけない」という教えを守らなかったため、法の力が消えたということ、他言無用。 つまり、正法誹謗してはいけないということ。 「365」 佛告韋提希 汝及衆生 応当専心 繋念一処 想於西方 云何作想 凡作想者 一切衆生 自非生盲 有目之徒 皆見日没 当起想念 正坐西向 諦観於日 令心堅住 専想不移 見日欲没 状如懸鼓 既見日已 閉目開目 皆令明了 是為日想 名曰初観 釈尊は韋提希夫人に仰せになった。 皆の者は、ひたすらに西方に思いをかけ、その世界(浄土)を想い描くがよい。 どのように西方を思い描くのか。 まず生れながらにして目が見えないのでなく、目が見えるものは皆、日没の光景を見るがよい。 それを始めるには、姿勢を正し西に向かい座り、はっきり夕日を思い描くがよい。 心を乱さずに集中し、他のことに心とらわれずにおれば、次に夕日が沈もうとし、西の空に鼓が浮んでいるかの様を見るがよい。 それを見終わった後に、目を閉じても開いても、その夕日がはっきりと見えるようにするのです。 このように想い描くのを日想といい、第一の観と名付ける。 「念佛宗」の名前のとおり、基本は「南無阿彌陀佛」と阿弥陀佛の名前を唱える称名念仏によって、阿弥陀佛の主催する西方浄土に往生できる、という浄土教系の仏教です。 従って、浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)が根本経典になります。 もちろんこうした浄土三部経(そして龍樹や世親といった浄土教史上の高僧たちによる浄土教解釈)には「儀式」によって往生が決定するなどという教義は一切出てきませんが。 ただし、念佛宗ではどんな経典も利用するという方針ですので、中国で儒教の影響を受けて作られた(従って現在の仏教では参照されない)『父母恩重経』などの偽経も利用します。 もっとも、そもそも浄土三部経を含む大乗経典自体が、歴史上の釈迦その人が説いた直説ではなく、あくまで後世に創作されたものだということも頭の片隅に入れておいてください。 もちろん大乗仏教諸宗はそれらの経典が仮に後世の創作だとしても歴史上の釈迦の説いたことの「真意」を明らかにするものなのだと主張しますが。 歴史的に言って浄土真宗本願寺派は親鸞からの世襲的血統を重要視し、信徒の往生も門主次第とし(特に蓮如)、信徒に門主への服従と布施を要求する (特に覚如)、という、現在の目から見れば多分に問題の多いものでした。 従って、念佛宗では門主(つまり開祖や現在の代表者)への服従や布施を正当化するのに、覚如・存覚・蓮如の書き残したものを良く利用します。 歴史的にカルト的性格を帯びていた本願寺派の暗部が現代のカルト集団に利用されていると言えばわかりやすいでしょうか。 しかし、面白いことに蓮如自身(或いはそもそもの法然・親鸞も)が、儀式の類によって往生が定まるとする教義を邪義(秘事法門と呼ばれます)として排斥しています。 また往生はただ阿弥陀佛の功徳のみによって定まるのであって我々の側の自力(特に布施などのいわゆる「善行」によって善果を積もうとすること)は極楽往生に影響を与え得ないという本願寺派の絶対他力思想(これは特に覚如・蓮如に顕著ですが)と、念佛宗の善行(特に布施)を推奨し、それを常に持続して死ぬまで 行わないと往生が叶わないという脅迫的・強迫的な教義は相容れません。 つまり、浄土教の高僧たち自身の教えによって異端とされている宗派なのです。 (従ってそれが正しいことはあり得ません)。

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開祖 [ ] 開祖の (日扇)は、人生への懐疑と求道心から法華経本門の教えに帰依して出家したが、当時の宗門大勢のあり様にあきたらず、やがて独自の道を歩み、1857年(安政4年)41歳のとき京都の新町通り蛸薬師(通り)下に在家信徒のみで本門佛立講を開いたのに始まる(ただし、清風自身は深く教学を研鑚し、この時点で一度もしている)。 清風(日扇)の教えは、どこまでも祖師の伝えたの題目()を口に唱える修行を第一とし、それによって授かる目に見える現証利益を強調するものであった。 正法弘通のはたらきのない寺院・僧侶の意義を認めない姿勢は、やがて徒党を組む既成寺院の僧侶からの度重なる政府当局への讒言となり、清風(日扇)は弟子とともに逮捕されること2回、遠足止めなどの弾圧を受けるが、1878年(明治11年)には清風(日扇)自ら「花洛佛立講三十三組、人数凡1万人」というほど教線を伸ばした。 このため宗門と少なからず軋轢が起こり、1869年(明治2年)には活動の拠点としていたから退去、を入手しここを本拠とした。 清風(日扇)の僧形・俗形の区別に本質的な差異を認めない姿勢をもって、しばしば在家主義といわれることがあるが、自身は1868年(慶応4年)に当時の京都府の命令・斡旋を受けて本能寺で再出家した後、明治になって時を経ても特に僧籍を離れることもなく、1881年(明治14年)にはに教導職授与の申請を出している。 この申請は、すでに本門佛立講を開講当初の数名から1万人の大講に育て上げ、また1873年(明治6年)に貫主・日成みずからが、の命じたや十一兼題に対する宗門の公式見解の上申書作成を清風(日扇)に依頼するなど、その教学を含めた学識も認められていたにもかかわらず、時をおかずに却下された。 宗門批判、僧侶批判が嫌われたためという。 内弟子の(日聞)、(日随)らも師の命で法華宗の僧籍を持ち、妙蓮寺の役僧を勤めている。 以上のことからみて、在家講としての始まりは大法弘通と宗内の改良を目的として、当時の宗内情勢による制約から発したことであり、出家行為そのものを敵視したものではないといえる。 日扇は、この僧形俗形の区別に本質的差異を認めない姿勢を本能寺貫主・日肇から教わった、と伝えており、に法を伝えた日典・日良(ともに八品派)の事跡を引いて、僧侶として法を説き、法難に遭ってついに殉教した前者を「出家形の菩薩」、日典の遺志を継ぎ、袈娑をたたんで茶人となって法をひろめた後者を「在家形の菩薩」と讃えている(日随上人手記)。 在家信者の宝前で勤まる講席は、開講以来の重要行事として続いており、在家運動的であるのは事実である。 清風(日扇)遷化の後、在家中心主義と僧侶との位置づけの問題・の強調など様々な論争を経て、離脱や分派が相次ぐ()。 1947年(昭和22年)に本門法華宗から独立して本門佛立宗となった。 本山 [ ]• (京都府)• 由緒寺院として誕生寺(京都市)、長松寺(京都市)、佛立寺(大津市)、義天寺(守口市)がある。 教義 [ ] 現証利益と他宗排他 [ ] 布教にあたっては正信の証として現証利益を強調することが強く、加えて他宗・他宗教に対する批判も激しかった。 入信に当たっては他宗・他宗教のお守りや札・像を破却するという、いわゆる 謗法払いも行った。 これらの布教方法は明治初年にを初めとする圧迫を生む一因となった。 御教歌 [ ] 万人に、誰にでも分かりやすく御仏の教えを広めようと、御教歌と呼ばれる仏教の教義を和歌へ盛り込んだものなど、その教えは現代においても非常に分かりやすい。 ちなみに長松清風は、書画においては江戸末期の三筆と言われたり、当時の知識層などが掲載された平安人物誌、西京人物誌にその名が掲載されたりのの教師であったが清風の詠んだ歌を優れた歌として明治天皇に紹介し、明治天皇から清風の歌を非常に賞賛されていることを知らせる使者が清風の元に使わされており、明治天皇以外にもなどの公家にも清風のを所望する声が多かったという。 江戸末期から明治を代表する優れた文化人とも言える。 分派と影響 [ ] 清風入滅の後、講の運営に対する僧侶の関与や現世利益の強調・との関係のあり方など多くの論争を生み、その中からや、などの分派を生んでいった。 また、在家主導の組織運営・現世利益の強調・他宗攻撃などのスタンスは、その後の法華系のに広く影響を与え、佛立講からへと入信してを創設したの様な遍歴を重ねるものもいた。 また、霊友会のは佛立講と直接の関わりがないものの、御教歌をに聞かせていたと言われている。 歴史 [ ]• 1857年(安政4年)の内部に前身の本門佛立講を開く。 1869年(明治2年)本門法華宗からを譲り受ける。 1941年(昭和16年)に宗教団体法により、本門法華宗と本妙法華宗と法華宗が合同し、法華宗と公称する。 1946年(昭和21年)法華宗から離脱し、本門佛立宗と公称する。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• (1814年)• (1840年)• (1857年)• (1859年)• (1869年)• (1872年)• (1873年)• (1880年)• (1882年)• (1882年)• (1892年)• (1900年)• (1905年)• (1908年)• (1916年)• (1927年)• (1930年)• (1930年)• (1932年)• (1935年)• (1941年)• (1945年)• (1946年)• (1947年)• (1948年)• (1948年)• (1949年)• (1952年)• (1952年)• (1954年)• (1955年)• (1957年)• (1958年)• (1970年)• (1970年)• (1972年)• (1984年)• (1985年)• (1999年) 天理系.

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念佛宗無量壽寺の誤解を解くブログ(非公式)

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「念佛宗 無量壽寺 総本山 落慶祝」。 このお寺の施主は、新宗教団体・念佛宗三寶山無量壽寺(以下、念佛宗)。 その施工を担当したゼネコンが、大手新聞にお寺の完成祝いとして新聞広告を打ったわけだ。 兵庫県加東市の山奥に造られたこのお寺は、総面積およそ182万平方メートル(東京ドーム38個分!)、本堂の高さは51. 5メートル。 12メートルの石灯籠と9メートルの鬼瓦はギネスブックにも認定、と何もかもがでかい。 また、大きさだけでなく、伽藍全体に1万点の彫刻、37万点を超える彫金が施されている凝りようだ。 新宗教の建築の研究をしてきた五十嵐氏にも、この施設の写真を見てもらった。 三寶山無量壽寺の正面より撮影したもの。 ちなみに、東日本大震災において、各教団がこぞって義援金寄付を表明する中、念佛宗は知らぬ顔の半兵衞を決め込んでいる……。 「まず、門の両脇の仁王像からもわかるように、現代的なことはやりたくなかったんでしょうね」.

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