アレキサンド ロス アクエリアス。 [ALEXANDROS]、アクエリアスCM曲「月色ホライズン」デジタルリリース

アレクサンドロス3世

アレキサンド ロス アクエリアス

・ページ内の見だしリスト• 5 アレクサンドロスの生涯 英語の読みではアレキサンダー。 ギリシア北方の大国のの子としてに生まれる。 13歳から3年間、哲学者の教えを受けたという。 アテネから招かれたアリストテレスは家庭教師として教育に当たり、アレクサンドロスも熱心な生徒としてギリシア文化を吸収したが、結局はアリストテレスのポリス的世界観を破壊する(克服する?)役割を担うこととなった。 王となってから、清貧で知られた哲学者の教えを請おうと訪ねたが、軽くあしらわれてしまったという逸話も有名である。 前336年、父王が暗殺されたため、20歳でマケドニア王 アレクサンドロス3世(通常はアレクサンドロスでよい。 後には大王といわれる)となる。 アレクサンドロスはの盟主としてのマケドニア王位についたので、ギリシアの同盟諸国(スパルタを除く)に対しても統制する立場にあった。 アレクサンドロスはまず北方のドナウ川方面を平定し、さらにが離反するととって返してそれを討ち、ギリシア諸国との同盟関係を固めてから、前334年に父の意を継いで、東方遠征に着手した。 アレクサンドロスの東方遠征軍は各地で軍を破り、短期間で小アジア・エジプト・メソポタミアを制圧し、前330年には、ギリシアからオリエント世界を含む世界帝国であるを出現させた。 さらに中央アジアに入り地方などを制圧、人の抵抗を受け、苦戦を続けていたが、前327年春、捕虜となっていたソグディアナ人の豪族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚した。 アレクサンドロスはオリエント世界を征服する過程で、エジプトではとしてふるまい、ではアケメネス朝の後継者として自らを神格化し、宮廷儀礼を採用した。 このような東方か政策はマケドニア人・ギリシア人の部下の反発を受けるようになった。 中央アジアからインダス川上流を越えてインドに入ろうとした彼の計画は、多くの武将の反対で実現できず、インダス川から方向を転じ、西に向かうこととなった。 前323年、で熱病にかかり32歳余で死んだ。 その死後は彼の帝国はマケドニア人の後継者()によって分割支配されることとなった。 彼が作り上げた大帝国は短命ではあったが、ギリシア文明とオリエント文明を融合させ、という新たな文明の出現をもたらした。 アレクサンドロスの東方遠征の理由は、古来、の復讐戦であるとか、大王の領土的野心、インド征服の夢など、さまざまな見解があるが定説はない。 大王自身は、自由なギリシアが、僭主や異国人の王に支配され奴隷の境遇にあるアジアの民を解放する戦いであると(あたかも前アメリカ大統領ブッシュのような)戦争目的を部下の将兵に語っている。 背景には、ポリス社会の崩壊に伴い、ポリスというよりどころを無くしたギリシア民衆の不満と不安のはけ口を求める声があったのではないだろうか。 また、征服地には各地に植民市を建設し、ギリシア人を入植させた。 遠征後半はペルシア人など現地勢力との融合をはかる政策をとった。 これらは 東西融合政策といわれているが、その実態はギリシア人の不満分子の隔離という側面もあった。 東方遠征軍の編成 アレクサンドロスの率いたマケドニア軍の編成は、中核をなす騎兵部隊が8隊1800人からなり、騎兵ヘタイロイ(仲間の意味)と美称され、兜と胸当てを付け、腰に短剣を差し、長さ2. 7mの槍を片手に握り、方形や楔形の隊形で戦った。 マケドニア人歩兵はペゼタイロイという重装歩兵部隊(1500人の部隊が6隊、計9000人)と、ヒュパスピスタイという近衛歩兵部隊(1000人ずつの3隊)の二種があった。 前者がフィリッポス2世が創設した、長狭5. 5mの長槍(サリッサという)を前の4列が水平に構えるハリネズミ方式をとった。 後者は職業軍人、つまり常時兵力であり、遊撃戦、奇襲作戦などで活用された。 これらのマケドニア人主力の他に、ギリシア同盟軍、ギリシア人傭兵、バルカン諸民族の部隊など、総兵力は3万7100人にのぼった。 また、別に先遣部隊総勢1万、非戦闘員(従者、土木技術者など)を加えれば総勢6万4000になるという。 本国残留部隊として12000の歩兵と、1500の騎兵がおかれた。 <森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p. 112> 東方遠征のルート アレクサンドロスは東方遠征に先立ち、前335に北方のトラキアと南方のギリシア本土を制圧。 テーベを破壊し、コリントス同盟会議で翌年からの東方遠征を表明した。 (22歳)5月ペラ東方のアンフィポリスに軍を終結させ遠征に出発した。 以後の遠征は次の三つの時期に分ける。 初めてペルシア帝国ダレイオス3世と会戦。 パンジャブの象部隊と戦う。 将兵の中に帰国を望む声強くなる。 第3期 前326年末、インダス河口到達からバビロンに帰還し、前323年に死去するまで。 さらに西進し、地中海方面への遠征を考えていたらしいが、熱病にかかり、6月17日に死去、32歳であった。 <森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p. 110~/NHK『文明の道 アレクサンドロスの時代』2003 などによる> アレクサンドロスの東方遠征 1.ペラ 2.グラニコス川の戦い 3.サルディス 4.イッソスの戦い 5.アンティオキア 6.ティルス 7.メンフィス 8.アレクサンドリア 9.ダマスクス 10.ガウガメラの戦い 11.バビロン 12.スサ 13.ペルセポリス 14.エクバタナ 15.ヘカトンピュロス 16.バクトリア 17.サマルカンド 18.パンジャブ Episode 大王の戦術と武器 アレクサンドロス大王の軍は、陸軍が主体で、ギリシアの戦術をさらに改良したものであった。 甲と脛当に小型軽量の丸楯を防具とし、武器はサリッサという5~6メートルの長槍を用い、密集して方陣をつくり、最前列から第3列までは槍を水平にかまえ、それより後方の列は斜め前に保って突撃し、前列が倒れれば次の列が槍を繰り出し、連続して敵を攻撃した。 また、アレクサンドロス軍は、腱または人間の毛髪を堅くよじってそのねじり力を利用した二種類の射出機を用いた。 その一つはカタペルテスで、小型で矢や礫を打ち出すのに使い、もう一つはペトロボロスといって20~27キロの石弾を射出できる大型のものだった。 <『アレクサンドロス大王東征記』上 岩波文庫の註p. インド軍の象部隊との戦いは一見すると良い。 アレクサンドロスの遠征を湾岸戦争の多国籍軍のアラブへの侵攻と重ねて考えようとしている。 大王の神格化、東方化 アレクサンドロスはギリシア諸国の「コリントス同盟」の盟主であるマケドニア王として東方遠征を開始、オリエントを転戦することとなったが、その過程で徐々にオリエント的な神格をもった王に変質していった。 このような神格化の傾向は、大王の東方化(アジア化)とも捉えられる。 引用 アレクサンドロスの遺産の中で、後世に最も確実な影響を与えたのは、彼が君主崇拝の先鞭を付けたことである。 それはヘレニズム諸国において制度化され、ローマ皇帝礼拝へと発展していった。 <森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p. 302> アレクサンドロスの神格化は、次の四つの段階が区別される。 第一段階 遠征初期までは、両親の系図に基づいて、自分が英雄アキレウスとヘラクレスを通して神の血統につながると信じていた。 第二段階 アモンの神託 前331年 エジプトを平定したアレクサンドロスは、リビア砂漠のシーワ=オアシスにあるエジプトの最高神(アメン)を祭る神殿に参詣した(その神託はギリシア人にもよく知られ、ゼウスと同一視されていた)。 神官から「おお神の子よ」と挨拶され、彼がゼウスの子であるとの神託を受けた。 やがて彼は宴会でアモン神の聖衣をまとい、アモンの象徴である羊の角を頭に載せて興じるようになった。 第三段階 ペルシア人から跪拝礼を受ける。 跪拝礼とはペルシア人の日条の挨拶から発展した宮廷儀礼で、宗教的意味はない。 しかしギリシア人から見れば自由人が跪拝するのは神々に対してだけであったから、アレクサンドロスがペルシア人の跪拝礼を受けることの効果を考えていたと思われる。 第四段階 ギリシア諸都市が公式に神格化決議をし、大王がそれを受け容れた。 前323年、バビロンに戻った大王のもとにギリシア諸都市の神事使節団が訪れ、黄金の冠を奉呈した。 ギリシア人は大王の暗黙の要求を読み取り、自発的に大王神格化を競い合ったのであろう。 <以上、森谷『同上書』講談社学術文庫 p. 304-306> アレクサンドロス自身が神格化をどこまで本気に考えていたかは、プルタルコスやアリアノスの大王伝でも否定的であり、それを受けて森谷公俊氏も慎重に筆を進めている。 要するに、アレクサンドロス大王の神格化とは、それによって何かをえようとする人々が「忖度」して成立したのだろう。 洋の東西、時代のちがいを超えて権力者に対する忖度は常にあったと言うことか。 しかし、アレクサンドロスの神格化・東方化には抵抗もあったことも事実だ。 (2017. 07記) アレクサンドロス神格化・東方化に対する反発 前330年 ペルセポリスのペルシア王宮を焼き払い、ダレイオス3世を追って中央アジアに向かったアレクサンドロスは、ダレイオス3世が殺害されてペルシア帝国が滅んだことを受け、ギリシア同盟軍を解散し新たな軍を再結集した。 ギリシアの大義を掲げた遠征は名実ともに終結し、ここからはアレクサンドロス自身の遠征が始まる。 そしてアレクサンドロス自身がペルシア風の衣装を採用し、旧ペルシア王族を側近に取り立て、アケメネス朝の後継者としての正統性を明らかにした。 しかしこの大王の東方化路線は遠征軍内部に亀裂を生むこととなり、前330年秋にはアレクサンドロス暗殺未遂事件が起き、名声のあった部将パルメニオンが関連したとして謀殺された。 それ以後も大王の東方か路線に反発する動きがたびたび表面化している。 アレクサンドロスは宮廷においてペルシア風の衣装を採用しただけでなく、前328年、ペルシア王に謁見者が膝を突いて平伏したのと同じ跪拝礼をマケドニア人、ギリシア人にも導入しようとした。 しかしギリシア人は自由人が神々に嘆願する以外に平伏することを屈辱的として強く反発、マケドニア人の将兵も反発したため断念し、ペルシア人など東方人のみが実行することで落ち着いた。 <同上書 p. 167-8> 集団結婚式 、アレクサンドロス大王はペルシア帝国の旧都(スサ)において集団結婚式を挙行した。 大王自らがアケメネス王家の二人の娘を娶り、約80人の側近たちにペルシア人、メディア人貴族の女性を与え、さらに約1万人に及ぶ兵士たちにアジア人女性との結婚を認めて祝い金を与えた。 この集団結婚式は、かつては民族融合策の一環であると解釈されてきたが、それは的外れであるとの指摘がある。 その根拠として、まず側近の武将の集団結婚には次のような説明がある。 征服者であるマケドニア人にとって、征服された旧ペルシア帝国の女性を手にいれることは戦利品の分配に当たる。 男性はマケドニア人、女性はすべてイラン人であり、その逆の組み合わせはない。 「融合」といった対等なものではない。 側近にとっては将来の出世につながる、昇進のための交換条件にすぎなかった。 大王にとっては側近の忠誠心を試す意図があった。 これらのカップルの大半はその後離婚したと考えられる。 マケドニア人のイラン人に対する差別意識はなくならなかった。 セレウコス朝を建てたがイラン人の妻アパマと生涯分かれなかったのは例外である。 一般兵士の場合は、アレクサンドロスがアジア人女性と結婚した兵士に名前を届けさせたところ、その数が1万人にのぼったということで、彼らは遠征先で現地の女性と関係をもち、彼女たちは兵士に付き随ってスーサまでたどりついたのだった。 つまり「現地妻」であって、政策的な「民族融合」ではない。 <森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p. 後継をどうするか、遺言がなかった。 側近の将軍たちは妊娠8ヶ月だった妻ロクサネが男子を産めばその子を王位に就けることとし、2ヶ月後に生まれたその子がアレクサンドロス4世として即位した。 摂政となったペルディッカスは将軍たちを集め、総督領を分け合ったが、かれらはそれぞれが(後継者)としての覇権を争うこととなり、前276年まで続く 後継者戦争(ディアドコイ戦争)に突入する。 Episode アレクサンドロスの偽遺体 アレクサンドロス大王は自らゼウスの子と称していたが、バビロンで逝去して今や骸(むくろ)となって横たわっていた。 しかし側近の者たちが王位をめぐって内輪もめをしていたため、埋葬されぬままになっていた。 「既に世にない人間を土に隠すのは、人間に共通する自然の情が求めるところであるから、極貧の者であっても埋葬の礼は受けるものであるのに、アレクサンドロスは三〇日間も埋葬されずに放置されていたのである。 」 <アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p. 358> その時、アリスタンドロスという者に神霊がのりうつり、アレクサンドロスの遺骸を収めた土地は、至福の地となり、永久に滅ぼされることはないであろうと宣(のたま)わった。 それを聞いたディアドコイと言われた将軍たちは、おのれの支配地の安全を保障するために大王の遺体を自分のところに運んでいこうと願い、激しく争うことになった。 まずが遺体を手にいれ、エジプトのアレクサンドリアに安置した。 多くのマケドニア人は静観して動かなかったが、ペルディッカスという武将の一人だけはプトレマイオスに迫り、遺体の引き渡しを争った。 引用 プトレマイオスは次のようにしてペルディッカスの激しい追及をかわした。 アレクサンドロスにそっくりの似姿を作らせて、これに王の衣装を着せ、豪華な弔いの飾りつけをした。 さらに金、銀、象牙をほどこした豪奢な棺を作らせ、像をそれに納めてペルシア風の車の一台に安置した。 アレクサンドロスの本物の遺体は間に合わせの粗末な着付けをしただけで、人の通らぬ間道で先に送ってしまったのである。 ペルディッカスは偽の遺体と飾り立てた車を手にいれると、見事勝負に勝って賭けられていた賞品を獲得したような気になり、追跡をやめてしまった。 後になって騙されたことに気づいたが、その時はもう後を追うことができなかった。 <アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p. 359-360>.

次の

[Alexandros](アレキサンドロス)のバンド名の由来

アレキサンド ロス アクエリアス

読み : アレキサンドロス [Alexandros]は2001年結成の4人組ロックバンド。 読み方はアレ キサンドロスで、アレ クサンドロスではない。 略称はアレキ、またはドロス。 [Champagne](シャンペイン)というバンド名で活動していたが、Champagne(シャンペン)の商標権利を持つシャンパーニュ地方ワイン生産同業委員会の日本支局からバンド名の要請の変更を受けたため、2014年3月28日に[Alexandros]に改名。 ヴォーカルの川上洋平は、英語の歌詞の和訳を行う際は「 戸田よぺ子」という名義を用いている。 これは著名な映画字幕翻訳家である戸田奈津子と自身の名前の洋平を掛け合わせてもじっている。 [Alexandros](アレキサンドロス)のバンド名の由来 [Alexandros]というバンド名は、ヴォーカルの川上洋平がアメリカに遠征した時、なかなか寝付けない夜にふと思いついたのが由来。 括弧は旧バンド名[Champagne]からの名残りで、括弧をつけているのは、後付で「 カッコつける」という意味があるとしている。 [Alexandros]の由来については、川上洋平が自身のブログで語っている。 改名する事よりも新バンド名を考える方が断然ヘビーだったな。 これは実は発表ギリギリで思いついた。 先月アメリカに遠征した時の最後の夜(というか早朝)。 なかなか寝れなくて。 そんな中でピンと頭の中で出て来たのが Alexandrosだった。 メンバー&スタッフ全員起きた瞬間にメールにてプチ会議を開いて決定した。 EUは産地名を商品に使用する知的財産のひとつ、地理的表示の権利から、シャンペンやボルドーなどの商品名を勝手に使用することを禁じている。 「Alexandros」はギリシャ人の人名で、バンド名の読みは「アレ キサンドロス」だが、人名としては「アレ クサンドロス」と読まれる。 アレクサンドロスという名前は、古代ギリシア語で「 男達を庇護する者」という意味だそう。 川上洋平が思いつきで付けたバンド名ではあるが、図らずもアレキサンドロスには男4人組のバンドを庇護する意味合いがある。 アレクサンドロスの名を持つ歴史上で有名な人物は、通称アレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)の名で知られるアレクサンドロス3世だろう。 アレクサンドロス大王(紀元前356年7月20日〜紀元前323年6月10日)は紀元前4世紀の古代マケドニアの王であり、父が没した後、ギリシアの反乱を鎮圧し、小アジア、エジプト、パキスタン、インド、ペルシアと次々と王国を支配しき、広大な世界帝国を築くも、32歳の若さで病死した。 旧バンド名[Champagne]は、ヴォーカルの川上洋平が小学校5年生ぐらいの時に「なんだかわからないけどカッコイイ」という理由で考えたバンド名。 [Champagne]はイギリスのロックバンド・Oasisの楽曲『 Champagne Supernova』が由来。 川上洋平は9歳~14歳まで中東のシリアで育っており、英語は中東訛りが入っている。

次の

[ALEXANDROS]、アクエリアスCM曲「月色ホライズン」デジタルリリース

アレキサンド ロス アクエリアス

また、(ヘラス同盟)の盟主、のも兼ねた。 とを祖に持つとされ、における最高の家系的栄誉と共に生まれた。 ギリシア語では アレクサンドロス大王であるが、英語風に読んで アレクサンダー大王または アレキサンダー大王とすることも多い。 アラビア語やペルシア語などではと呼ばれている。 にで生まれ、20歳で父であるの王位を継承した。 その治世の多くをやにおける類を見ない戦役(東方遠征)に費やし、30歳までにから北西にまたがる大帝国を建設した。 戦術・戦略の天才であり、少年のごとき純朴な野心を持っていた。 戦えば決して負けることがなく、確かな戦略で領域を急速に拡大し、異民族統治においては独創的な方針をとった。 彼の業績は征服戦争に成功したことだけにあるのではない。 当時のギリシア人が考えるの主要部(ギリシア、メソポタミア、エジプト、ペルシア、インド)のほとんどを一つにつないだ若き『』であり、異文化の交流と融合を図る諸政策を実行し、広大な領域にを流通させることでの手間を省いて迅速かつ活発な商取引を実現したことにある。 アレクサンドロス以後、世界は一変したのである。 また、歴史上において最も成功した軍事指揮官であると広く考えられている。 青年期、アレクサンドロスは16歳までの教えを受けた。 紀元前336年に父王が暗殺されると、彼はその王位を継承するとともに、強大な王国と熟達した軍隊を受け継ぐこととなった。 アレクサンドロスはの盟主としてマケドニア王位に就いたので、この立場を使い父の意を継いで東方遠征に着手した。 紀元前334年、()に侵攻し、10年に及ぶ大遠征を開始した。 の征服後、やといった決定的な戦いによって強大なペルシャを打ち破った。 そして、ペルシャ帝国の王であるを破りペルシャ帝国全土を制圧した。 その時点で彼の帝国はからにまで及ぶものであった。 、「世界の果て」に到達するべくに侵攻し、でに勝利する。 しかし、多くの部下の要求により結局引き返すこととなった。 、への侵攻を始めとする新たな遠征を果たせないまま、首都にする計画だったで熱病にかかり32歳で死んだ。 その死後、彼の帝国は内戦()によって分裂し、マケドニア人の後継者()によって分割支配されることとなった。 アレクサンドロスの征服によって生じたとはなどに見られる。 自分の名前にちなんで20あまりの都市を建設し、中でもエジプトのは最も有名である。 アレクサンドロスによるギリシア植民地の支配とそれによるギリシア文化の東方への伝達はとの文明を融合させ、と呼ばれる新たな文明の出現をもたらした。 この側面は中盤のの文化や1920年代までの話者がアナトリア半島中部から遥か東()にまでいたことにも現れている。 アレクサンドロスは古典的な英雄であるのように伝説として語り継がれ、ギリシャと非ギリシャ双方の文化における歴史や神話に顕著に登場する。 歴史上の軍事指揮官は頻繁にアレクサンドロスと比較され、その業績は今も世界中ので教えられる。 歴史上もっとも影響力のあった人物としてしばしば挙げられる。 、 、 などの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていた。 や、、など多様な民族の文献にも登場する。 現代でもアレクサンドロスの名に因んだ名前をつける人は多い。 からギリシャで発行されていた旧1000紙幣や旧100ドラクマ硬貨、からで発行された旧1紙幣などの肖像に使用されていた。 アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス アレクサンドロス3世はと王女の間に生まれた。 はを祖とする家系で、オリュンピアスはアキレウスを祖とする家系であったから、ギリシア世界で最大の栄光を持つ両英雄の血筋を引くと考えられ、家系的栄誉はギリシア随一であった。 、ピリッポスはからマケドニア人の学者を「家庭教師」として招く。 アリストテレスは都から離れた「ミエザの学園」で、までアレクサンドロスとその学友を教えた。 アレクサンドロスは「ピリッポス2世から生を受けたが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ」という言葉を残すほどに、アリストテレスを最高の師として尊敬するようになる。 また、彼と共にの基礎的な教養を身につけた「学友」たちは、後に大王を支える将軍となった。 東征中、アレクサンドロスの要請でアリストテレスは『王道論』と『植民論』を書き送ったといわれる。 アレクサンドロスも、各国から動物や植物を送り、アリストテレスはそれらを観察し、研究を続けた。 アリストテレスとの交流はこうして、アレクサンドロスの死まで続いた。 ギリシア南部出兵・即位 [ ] 詳細は「 ()」、「 ()」、および「 ()」を参照 、アレクサンドロスは一軍の将として父に従ってギリシアの南部に出兵しで・連合軍を破る。 これが彼の初陣であったが、このときアレクサンドロスは精鋭の騎兵を率いてアテナイ・テーバイ軍を壊乱させ、マケドニアの勝利に大きく貢献した。 父ピリッポス2世はこれによってギリシア諸ポリスに(ヘラス同盟)を締結させ全ギリシアの覇権を握ると、続いてへの東征を計画したが、に護衛の ()に暗殺された。 20歳の若さでマケドニア王を継承したアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、人と戦うために方面に遠征して成功をおさめ、その隙に反旗を翻したテーバイを破壊し 、父王暗殺後に混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。 ギリシアの諸を制圧したアレクサンドロスは、マケドニア本国の押さえを重臣アンティパトロスに任せた。 東方遠征 [ ] 「」、「 ()」、「 ()」、および「」も参照 紀元前334年、父の遺志を継いでマケドニア軍を率いてペルシア東征に出発し、に渡ったマケドニア軍38,000はで小アジアの連合軍4万と対峙した。 この時、派手な甲冑を身に纏ったアレクサンドロスは騎兵の先頭に立ち、自ら馬を駆って突進すると敵将を投げ槍でしとめた。 この印象的で鮮やかな勝利によって、アレクサンドロスは味方将兵の信頼を得ると共に敵に対しては計り知れない恐怖心を与えることになった。 カリスマ性を帯びたアレクサンドロスに率いられるマケドニア軍は、小アジアに駐屯するペルシア軍を蹴散らしながら東進を続けて行く。 、ついにアレクサンドロスはの北西 ()において自らが率いるペルシア軍10万と遭遇する()。 アレクサンドロスは騎兵と近衛兵、徴募兵を縦横無尽に指揮してペルシア軍を敗走させ、ダレイオスの母・妻・娘を捕虜にした。 このときペルシアから和睦の申し出を受けるが、これを拒否しさらに進軍を続ける。 エジプトの征服 [ ] 「」および「」も参照 アレクサンドロスは、においては反ペルシアの都市が比較的多かったため歓迎されたが、頑強に抵抗したのティール(Tyre、現)とを屈服させると、さらに南下してに侵入した。 エジプトは11年前のにによって征服されたばかりであり、ペルシアの統治が根付いていなかったために占領は容易であった。 、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、にその像を祭られた。 彼は少数の部隊を率いて西部砂漠のにあるの聖地に行き、ここで自らをアメンの子とする神託を得た。 アメンはギリシア神話のゼウスと同一視されており、これはアレクサンドロス大王はゼウスの子であるという神託に等しかった。 また、その後の西端に都市を建設したが、これが現在のの起源である。 エジプトの地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロスはペルシア王国への遠征を再開する。 ペルシア王国の滅亡 [ ] 詳細は「」、「」、および「」を参照 、アレクサンドロス軍47,000は、上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った()。 ダレイオスが東岸に逃れると、ペルシャ王国はもはや風前の灯火となった。 ペルシア王国の中枢に乱入したマケドニア軍は、やの主要都市を略奪した。 スーサからペルセポリスに向かう途中、ウクシオンという部族の居住する地域を通る時に貢物を要求されたので、が生じ、これを破った。 その後でアリオバルザネスの伏兵を破ると、に入城した。 では一般民衆に対しても凄惨なとが繰り広げられたうえ徹底的に破壊して焼き払った。 ペルセポリスの徹底した破壊は、時にペルシアがアテナイのアクロポリスを焼き払ったことへの復讐の意味もあった。 ペルシアの中枢を占領した後も、アレクサンドロス軍はダレイオスを追って進軍を続けた。 翌年、ダレイオス3世が王族で側近であったによって暗殺されると、アレクサンドロスはダレイオスの遺骸を丁重に葬った。 ダレイオスの死後も、ベッソスはペルシア国王アルタクセルクセスを自称して抗戦を続けたため、アレクサンドロスはベッソスの不義不忠を糾弾してこれを攻めた。 ベッソスは、とに捕えられた後アレクサンドロスに引き渡され、で公開処刑された。 ソグディアナ方面の占領 [ ] 詳細は「」、「」、「」、および「」を参照 方面へ侵攻したアレクサンドロスは、再び反乱を起こしたを中心とするによる激しい抵抗に直面した。 マケドニア軍はからまでとにおける過酷な戦()を強いられ、将兵の士気の低下を招いた。 好戦的なである人も攻撃を仕掛けてきたが、アレクサンドロス大王やその部下であるは遊牧民の騎兵にも勝利を収め、遊牧民の王が「アレクサンドロス大王の命令は何でも受け入れるので、どうかお許しください」と懇願するほどであった。 また、殺害事件や近習による陰謀事件など、アレクサンドロスと部下たちの間に隙間が生じ始めるのもこの頃である。 なお後にアレクサンドロスはに帰順したこの地方の有力者、の娘を妃とした。 インド遠征とスーサ帰還 [ ] 詳細は「 ()」、「」、「」、および「」を参照 ペルシア王国を征服したアレクサンドロスは次にへの遠征を開始した。 紀元前328年に「」を越え 、 ()で ()( - )。 にを越えてに侵入し、5月にでの王を破った。 その後も周辺の諸部族を平定しながら進軍し、インドにおいて最も勇猛なカタイオイ人も制圧した。 更にインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした。 11月からアレクサンドロスはヒュドラオテス川(現 ())を南下し、全軍を3つに分割してと共に残存する敵対勢力(系のマッロイ人)を駆逐し()、さらにインダス川を南下してパタラ(現)に出た。 ()砂漠(現)を通って ()(現)に向かい、にに帰還した。 この際、部下のネアルコスに命じてインダスからを通ってユーフラテス川の河口までの航海を命じた。 この探検航海によりこの地方の地理が明らかになると同時に、ネアルコスの残した資料は後世散逸したもののなどに引用され、貴重な記録となっている。 には ()が行なわれた。 バビロン帰還と大王急逝 [ ] 帰還したアレクサンドロスは、のにおいて帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによるの形をとることにした。 また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシア人を積極的に登用するなど、ペルシア人とマケドニア人の融和を進めた。 この過程においてアレクサンドロスはペルシア帝国の後継者を宣し、ペルシア王の王衣を身にまといペルシア風の平伏礼などの儀礼や統治を導入していったため、自身の専制君主化とマケドニア人の反発を招いた。 バビロンに戻ったアレクサンドロスはを計画していたが、に刺され、ある夜の祝宴中に倒れた。 10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、、32歳の若さで死去した。 死因 [ ] アレクサンドロスの死因は毒殺説、熱病(マラリア)説、祝宴中に発作により突然倒れたという説もある。 精神医はを引用して、「ヘラクレスの大盃を十数杯飲みほして死んだ」と伝え、酒の飲み過ぎという説を唱えるものもいる。 感染症説 [ ] アレクサンドロス3世のという症状やからの帰還での死という地理的要素から死因はとも考えられてきたが、に死因はによるという学説が登場した。 その根拠は、古代のバビロンが現代の西ナイルウイルスの流行する分布域に属していることのほか、からにかけて活躍した著述家の『』(「プルターク英雄伝」) のなかの以下のような記述である。 アレクサンドロスがバビュローンに入ろうとしている時に、(中略) 城壁のところまで行くと、多くのカラスが喧嘩をして互いにつつきあい、その内幾羽かが大王の足元に落ちた。 公的な記録によれば、アレクサンドロス大王は高熱を発してずっと熱が下がらず、そのあいだ激しくが渇いてを飲み、うわごとがはじまって、発熱後10日目に亡くなったといわれる。 これらの症状は、ウエストナイル熱やウエストナイル脳炎の症状と矛盾しない。 暗殺説 [ ] 東方遠征中、酒にが盛られているのにアレクサンドロスが気付いたことにより、若手らによるアレクサンドロス計画が発覚したとされるが、記録によって事態経過の記述が全くバラバラかつ曖昧である。 首謀者の1人としての1人の名前が挙がった。 フィロタスは無実を主張するが、彼の義兄弟らが拷問の末に自白したため、有罪の判決が下りフィロタスは処刑された。 パルメニオンを筆頭とする旧臣とアレクサンドロスの亀裂によりを率いるフィロタスの劇を招いたという説が有力である。 死後 [ ] アレクサンドロスの死後、異母兄でのあったと、アレクサンドロスの死後に生まれた息子が共同統治者となったものの、後継の座を巡って配下の武将らの間でが勃発した。 はに、はに暗殺され、アレクサンドロスの帝国はらにより分割・統治されることとなった(、、)。 人物 [ ] 指揮能力 [ ] アレクサンドロス3世が大王と呼ばれるようになるのは、軍事指揮官として類を見ない成功を治めたことによる。 たとえ数で圧倒的に凌駕されていようとも、一度も戦いにおいて負けることがなかった。 これは地形と、騎兵戦術、大胆な戦略、そして部下の強い忠誠心を使ったことによる。 6メートルの長さを持つ槍()で武装するマケドニアのファランクスは、ピリッポス2世による厳格な養成によって熟練させられ、アレクサンドロスはそのスピードと運動能力を最大限利用した。 結婚と子女 [ ] に、の娘と結婚し 、1男をもうけた。 (紀元前323年 - 紀元前309年) - アレクサンドロス大王の死後に生まれ、マケドニア王位を継承 2月にスサでペルシア王の娘、およびペルシア王の娘 ()と結婚した。 側室のとの間に庶子 男子 を1人もうけた。 ()(紀元前327年頃 - 紀元前309年) 融合政策 [ ] アレクサンドロスは征服地にその名に因んでと名付けた都市を建設、軍の拠点として現地支配の基礎に置いた。 帝国の公用語にを採用した。 さらにペルシャ文化への融合に心を配り、自らダレイオス3世の娘を娶りペルシア人と部下の集団結婚を奨励し(この集団結婚式においてマケドニア人の女とペルシア人の男が結婚する事例はなかった)、ペルシア風礼式や行政制度を取り入れ代官に現地有力者を任命した。 ヘレニズム [ ] 詳細は「」を参照 ギリシア文化とが融合したはアレクサンドロスの帝国とその後継王朝へ根付き、、、、などの彫刻が各地で制作された。 、、、、らの学者も輩出、その後に強い影響を及ぼし、などにも影響を与えた。 マケドニア軍の強さ [ ] 純朴で質素な生活を営んでいたマケドニア人は苦難に耐える良い兵士であり、ギリシア南部の諸ポリスで伝統的であったの軽装化と盾の廃止による長槍の長大化、それに対応した編成に改良を加えたマケドニア軍は、当時の地中海世界において精強な軍隊であり、各々の将兵は軍務に誇りを持つ練達の兵士であった。 また、アレクサンドロスは状況に応じて異なった兵種を組み合わせて即座に混成部隊を編成し、敵がどのような軍隊であっても柔軟に対応することができた。 例えば、遊牧民スキタイとの戦いでは、敵のヒット・アンド・アウェイ戦法に対し、投槍騎兵と軽装歩兵の混成部隊を用いてこれを敗走させた。 世界の歴史上軍事の指揮官において如何なる人間でもどのように過小評価しても、最大級の評価されるべきほどの戦術家でもあるアレクサンドロスに指揮されたマケドニア軍は、当時世界最強の軍隊であった。 戦術家としてだけではなく、アレクサンドロスは戦士としても有能であった。 アレクサンドロス自ら行軍中にあっても荷馬車に乗り降りして体を鍛錬したと伝えられる。 彼は常に最前線で将兵と共に戦い、自らの頭部や胸部に重傷を負うことさえあった。 数々の戦場で危機を乗り切ったアレクサンドロスは神懸かった戦士であり、将兵から絶大な人気を得ていた。 このようなマケドニア遠征軍に対しペルシア軍は大軍を動員したが、当時は利害が絡み合う各国傭兵による混成軍であったことから士気が低く、相互に連携した行動を取る修練も欠いていた。 このため、継戦能力が乏しく、敗走を開始すると建て直しが困難であった。 イスカンダル伝承 [ ] 生物が実る「もの言う木」に至ったイスカンダル。 ただし、現在でもアラビア語では定冠詞をつけて al-Iskandar と言うのが普通である。 kとsが入れ替わった(「」という)理由は不明である。 これらイスラーム世界でのイスカンダル像は、主に『』といったアレクサンドリア発祥の空想譚を起源とし、それにアッバース朝時代の翻訳運動などで流入したシリア、エジプトなどでのアレクサンドロス伝承などから、イラン世界におけるアレクサンドロス3世の支配を歴史的に整合性をつけようとしたものであった。 文学ではやといった著名な作家たちが韻文や散文による『イスカンダル・ナーマ』(アレクサンドロスの書)を著している。 これらの作品ではイスカンダルとが理想的な「君主と宰相」像として描かれている。 また、アレクサンドロスに由来するの都市名は、それぞれはアル・イスカンダリーヤ、アレクサンドレッタはイスカンダルーン(では)と呼ばれる。 の東進に伴い、でも一般的な男性名となっており、歴史上でもマラッカ国王(在位1414年-1424年)、 アチェ国王(在位:1607年-1636年)らがいる。 近くの南部開発地区の名前である ()は開発開始当時のの () ()の名前に因んでいる。 逸話、エピソード [ ] 愛馬に騎乗したアレクサンドロス(拡大図) ブケパロス 王子時代にという馬がペラの王宮に連れてこられた。 気性が荒々しく誰も乗りこなすことができなかったが、アレクサンドロスはブケパロスが自分の影に怯えているのに気付き、馬の向きを変えて見事に乗りこなした。 それを見た父のピリッポス2世は満足と恐れを同時に抱き、「そなたは自分の王国を探すがよい」と言ったという。 決して負けない人 アレクサンドロスはアジアへの遠征に先立って神託を求めて神託所に行った。 そのとき神託所は休業日だったが、アレクサンドロスは強引に神託を求め続けた。 うんざりした巫女が「あなたは決して負けない人だ」とこぼすと、彼は満足して立ち去った。 ディオゲネス にという賢者がおり、いつも裸で樽に暮らしていたが、本人は人生に至極満足していた。 ある日、ひなたぼっこを楽しんでいたディオゲネスを訪ねたアレクサンドロスは彼に「望むものがあるならば全て叶える」と問うたが、答えは「日陰になるからそこをどいてくれ」というものだった。 アレクサンドロスは「もし私がアレクサンドロスでなかったら、私はディオゲネスになりたい」と語ったという。 アキレウスへの情熱 アレクサンドロスはの英雄に心酔していた。 東方遠征で小アジアに渡った際には、本隊を離れてわざわざへと赴き、アキレウスの墓に花冠を捧げた。 更に、そこにあるアテーナー神殿に自らの武具一式を奉納し、代わりに時から伝わる武具を貰い受けたという。 トロイで受け取った聖なる盾をアレクサンドロスは常に持ち歩き、戦闘の際にはそれを盾持ちにもたせて自分の前方を進ませた。 ヘーラクレースへの挑戦 アレクサンドロスは、自らがギリシア神話最大の英雄の子孫だと信じて疑わなかった。 インド北部に侵攻した際には、ヘーラクレースですら落とせなかったとされる難攻不落のアオルノスという岩山を陥落させた。 しかし、これはアレクサンドロス大王のご機嫌を取るための浮説であり、現地にそういう伝承は存在しなかったとされる。 毒殺を恐れない アレクサンドロスが病臥していたとき、侍医のフィリッポスが敵(ダレイオス3世)に買収されて王の毒殺を企てているという報せが届いた。 王はその手紙を読んだが、平然として薬を飲み干し、フィリッポスに手紙を見せた。 フィリッポスは「今後も、医者としての私の指示に従うようにしてください。 そうすれば助かります。 」と言ったといわれる。 その後、王は激しい高熱に苦しんだが、やがて回復した。 貴婦人への礼遇 ダレイオス3世の母と妃がイッソスの戦いの後で捕えられたが、アレクサンドロスは彼女らに非常に敬意を払って接した。 のちにそれを伝え聞いたダレイオス3世はアレクサンドロスの度量を賞賛し、もし自分が不幸にして王国を失うとしたら、アレクサンドロスこそが新たな王となるように神に祈ったという。 「勝利を盗まない」 ガウガメラの戦いの前夜に宿将が夜襲を進言したが、アレクサンドロスは「私は勝利を盗まない」と言って退けた。 ペルシア軍は劣勢のマケドニア軍が確実に夜襲を仕掛けてくるものと予想して一晩中厳重に警戒していたが、アレクサンドロスは翌朝遅くまで悠々と寝続けた。 ペルシア軍は無駄に体力を消耗し、マケドニア軍は気力充実して戦闘に臨むことができた。 クレイトスの殺害 アレクサンドロスはペルシア王国を征服した後、東方文化を積極的に導入し、マケドニアの古参将兵の反発を招いた。 ある夜の酒宴でアレクサンドロスは武将と東方政策をめぐって激しく口論し、衝動的にクレイトスを刺し殺してしまう。 まもなく酔いが醒めた王は深く嘆いたという。 砂漠の水 インド遠征からの帰路、アレクサンドロスの本隊は不毛な ()の砂漠を行軍してペルシア本国へ向かった。 兵士たちが飢えと渇きに苦しんで倒れていく中、1人の兵士が王のために1杯の水を見つけてきた。 しかしアレクサンドロスは「私は皆と共に渇きに苦しむ方を選ぶ」といって水を捨てた。 部下への感情 は『ギリシア奇談集』において「アレクサンドロスは軍人らしいという理由でペルディッカスを、軍の統率において優れているという理由でリュシマコスを、勇敢だという理由でセレウコスを憎んでいた。 アンティゴノスの気前のよさ、アッタロスの品行、プトレマイオスの幸運さは彼の癪に障るものであった」(アイリアノス, XII, 16.なお、引用はより)と述べており、アレクサンドロスの優秀な部下に対する思いは複雑なものであったともされる。 逆にアレクサンドロスがヘファイスティオンを寵愛していたのは、彼がとりたてて将軍として抜きん出たところのない人物だったからだともいう。 性的嗜好 男色家であったという説もある。 伝説 [ ] 詳細は「」を参照 アレクサンドロスがペルシア領であるの州都を占領した時(紀元前333年)、町の中心にある神殿に一台の古い戦車が祀られていた。 その伝説を耳にしたアレクサンドロスは腰の剣を振り上げ、一刀のもとに結び目を切断し、「運命とは伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである」と兵たちに宣言した。 海賊と帝王 海賊が捕えられて縛り首になったが、彼はアレクサンドロスに向かって「俺もお前のように多くの国を攻め滅ぼしていれば、英雄と呼ばれたことだろう」と皮肉った。 海中探検 オリエントの伝説によると、アレクサンドロスは海の中の世界に興味をおぼえ、ガラスの樽の中に入って海中を探検したという。 サンドロコットスとの出会い などによれば、アレクサンドロスがインドに侵入した時、マケドニアの陣営に1人の若者が訪れてインド東部への道案内を申し出た。 この若者の名はサンドロコットスといい、彼こそがのちのであるという。 インドの賢者 アレクサンドロスはインドで裸のたちと世界の神秘についての対話を交わした。 賢者たちはアレクサンドロスの問いに次々と答えたが、王は必ずしも納得しなかった。 賢者の1人はなめした皮の上に乗り、皮の端に立つと他方の端が捲れるが中心に立つと安定することを示して、栄光を求めて世界をさまよう王を諷した。 身体的特徴 アレクサンドロス3世は オッドアイ だった。 トランプの4人の王の1人 フランスでは、ののキングのモデルとされている [ ]。 アレクサンドロスと関わった人々 [ ] 部下たち 50音順 [ ]• カリステネスの従軍記• の従軍記• ネオシクリトスの従軍記• アリストブロスの従軍記• の従軍記• クレイタルコスの大王伝• バビロン王宮日誌(実在を疑う研究者も多い)• バビロン天文日誌 これらの同時代史料は全て散逸している(バビロン天文日誌は、サマリー版の粘土板が発掘されており、アレクサンドロスと思われる王の記録の記載が若干残っている)。 史料の日本語訳 [ ] 評伝• 『アレクサンドロス大王東征記・インド誌』 大牟田章訳 、1996年2月。。 アッリアノス 『アレクサンドロス大王東征記』(上・下)、大牟田章訳、〈〉、2001年6月。 ISBN 上巻、下巻。 クルティウス・ルフス『アレクサンドロス大王伝』 谷栄一郎・上村健二共訳 西洋古典叢書:• 『英雄伝 「アレクサンドロス」』 (中)、井上一訳、解説• 『新訳 アレクサンドロス大王伝』 訳註・解説(河出書房新社、2017年6月)• 伝カリステネス 『アレクサンドロス大王物語』 橋本隆夫訳、〈図書館叢書7〉 通史• 『 ()』(全40巻。 全訳は未刊)• 『神代地誌』神代を扱った最初の6巻が龍溪書舎から出ている。 『帝京史学』においてアレクサンドロスの東征を扱った17巻の訳注が教授によって連載されており、2012年9月現在3回目で、全118章のうち83章まで連載されている。 インターネット上でも公開されており、無料で読める()。 /ユスティヌス 『地中海世界史』第11・12巻 合阪学訳、西洋古典叢書:京都大学学術出版会 その他 アレクサンドロスを中心に扱ったものではないが、ある程度まとまった記述があるもの• 『ギリシア・ローマ世界地誌』 全2巻 飯尾都人訳 龍渓書舎• 『戦術論』 戸部順一訳 参考文献 [ ]• 『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』ほか編、、2007年1月。 - 巻末に詳細な文献案内あり。 新版 『アレクサンドロスの征服と神話 興亡の世界史』、2016年2月 関連文献 [ ]• 『アレクサンドロス大王 - 世界征服者の虚像と実像』 講談社選書メチエ、2000年• 森谷公俊 『王宮炎上 - アレクサンドロス大王と』 〈〉、2000年• 森谷公俊 『王妃オリュンピアス - アレクサンドロス大王の母』 〈〉、1998年 新版『アレクサンドロスとオリュンピアス - 大王の母、光輝と波乱の生涯』 、2012年• 森谷公俊 『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』 河出書房新社、2017年• ピエール・ブリアン 『アレクサンダー大王 - 未完の世界帝国』福田素子訳、〈11〉、1991年• ピエール・ブリアン 『アレクサンドロス大王』 田村孝訳、〈〉、2003年• 大牟田章 『アレクサンドロス大王 - 世界をめざした巨大な情念』 清水書院〈清水新書〉、1984年、新装版2017年• 『図説 アレクサンドロス大王』 森谷公俊解説・鈴木革写真、河出書房新社〈ふくろうの本〉、2013年• 澤田典子『アレクサンドロス大王 今に生きつづける「偉大なる王」』 〈世界史リブレット人〉、2013年• ニック・マッカーティ 『アレクサンドロス大王の野望 シリーズ絵解き世界史1』、(日本語版総監修)、2007年• ロビン・レイン・フォックス 『アレクサンドロス大王』(上下)、森夏樹訳、、2001年 - 詳細な伝記• 『 文明の道1 アレクサンドロスの時代』 2003年• 『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展』 ・共同編集、2003年 - 展覧会図録• 『アレクサンドロス 世界帝国への夢』 日本放送出版協会 2003年、増訂版2008年 - 以上の3冊とも「文明の道」放送に併せた出版• 『アレクサンドロス古道』 前田龍彦訳、 1985年 - アリアーノスの原典も所収• 別訳版 『アレクサンダーの道 ガンダーラ・スワート』 ・澤田和夫訳、注・解説、白水社 1984年• 山中由里子『アレクサンドロス変相 --古代から中世イスラームへ--』、2009年。 専門書• エドヴァルド・ルトヴェラゼ 『アレクサンドロス大王東征を掘る』 帯谷知可訳、〈〉、2006年 創作上におけるアレクサンドロス3世 [ ] 書籍 [ ]• 獅子王アレクサンドロス - 著。 アレキサンドロス大王 陽炎の世界帝国 - ニコラス・ニカストロ著• 幻想皇帝 アレクサンドロス戦記 - の。 、日本を訪れたがのにアレクサンドロス3世の生涯を語りながら物語が進んでいく。 - の漫画。 アレクサンドロス3世に仕えた書記官、の物語。 - の漫画• 『アレクサンドロス 世界帝国への夢』 - の漫画• 『』 - の 映画 [ ]• - アレクサンドロス3世の生涯を描いた監督による映画。 - アレクサンドロス3世の生涯を描いた監督による映画。 アニメ [ ]• - 上記の荒俣宏の小説を原作とした。 だが設定が原作と大きく異なる。 - 征服王として、第四次聖杯戦争において召喚されたライダーのサーヴァント。 マスターは時計塔で魔術を学ぶ少年ウェイバー・ベルベット。 彼が師匠ケイネスから横領したマントの切れ端を触媒に呼び出した。 ゲーム [ ]• - ・デザインの。 や、読者参加企画を包含するプロジェクト「」に重要キーパーソンとして登場する。 『』シリーズ - からギリシャ文明の指導者として登場。 イギリスの、モンゴルの、ズールー王国の、そしてインドのとともに、 ナンバリングタイトルでは 第5作目のまで皆勤の指導者である。 最新作のCivilization 6にも続投するが、ギリシャではなく マケドニア文明の指導者として登場。 彼の代わりにギリシャ文明の指導者になったのは、アテナイのと、スパルタの王妃である。 音楽 [ ]• Alexander the Great - の楽曲。 に収録。 Mystery of Love - の楽曲。 アレクサンドロス大王の逸話を基にした歌詞が使用されている。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• の『』 [ ] [ ]によると、史上最も優れた指揮官としてアレクサンドロス大王を挙げている。 プルタルコスの『英雄伝』 [ ] [ ]によると、アレクサンドロスの銅像をみたカエサルは、自分の業績は、彼に比べればとるにたらないと言って泣いたという逸話がある。 」「エジプト遠征時も、自分とアレクサンドロスを重ねていた」という趣旨の内容が度々登場する。 古代ギリシアにおいて司令官は後ろの安全な場所にいるのではなく、自ら剣戟に身をさらして戦う習慣があったため、これは取り立てて特別なこととは言えない。 マケドニア人は何でもギリシア神話と結び付ける傾向(マケドニア風法螺話)があり、岩山を落とせなかったというヘーラクレースもギリシア神話のヘーラクレースではなく、現地や周辺地域の英雄をヘーラクレースと呼称しただけに過ぎないとされている。 出典 [ ] []• 333。 ユニアヌス・ユスティヌス『地中海世界史』京都大学学術出版会、2004年、P. 172。 S・ヘディン『カラコルム探検史(上)』白水社、1979年、P. C・ロンブロオゾオ『天才論』改造文庫、1940年、P. 107。 加藤茂孝「人類と感染症の戦い-第6回"ウエストナイルウイルス"」(2010)。 原出典は、JS Marr et al:Alexander the Great and West Nile Virus Encephalitis. Emerging infectious Diseases. 9 12 , 2003• 訳、より。 - モダンメディア56巻4号「人類と感染症の戦い」• 135• プルタルコス『プルターク英雄伝(九)』岩波文庫、1982年、P. プルタルコス『プルターク英雄伝(九)』岩波文庫、1982年、P. プルタルコス『プルターク英雄伝(九)』岩波文庫、1982年、P. プルタルコス『プルターク英雄伝(九)』岩波文庫、1982年、P. [ ]• 『 ()』 [ ]• プルタルコス『プルターク英雄伝(九)』岩波文庫、1982年、P. 歴人マガジン. 2018年10月15日. 2020年5月1日閲覧。 Ashrafian H. "The death of Alexander the Great--a spinal twist of fate. " J Hist Neurosci. 2004 Jun;13 2 :138-42. Pearce, John M. , "Fragments of Neurological History". Imperial College Press: 2003, p. 248. 関連項目 [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (アレクサンドロス3世の愛馬)• 「アレクサンドロス」の異名を与えられた人物 [ ]• 前808-前778• 前8C• 前8C• 前700—前678• 前678-前640• 前640-前602• 前602-前576• 前576-前547• 前547-前498• 前498-前454• 前454-前448• 前454-前413• 前413-前399• 前399• 前396-前393• 前399-前396• 前399-前393• 前393• 前393• 前393-前392• 前393-前369• 前370-前368• 前368-前359• 前359• 前359-前336• 前336-前323• 前323-前317• 前323-前309• () 前131• 前80• 前79-前57•

次の