し いたく 占い。 五行易的 の見方(64卦シリーズ⑨)

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_ つらなる沼沢。 入りて後にこれを説 よろこ ぶ。 故にこれを受くるに兌をもってす。 兌とは説 よろこ ぶなり。 よろこび笑うさま。 ただし、正しい道を守ること。 君子はこの卦を見て、友人あい集いて切磋琢磨し、ともに向上の道をすすむのである。 相場は、 安き卦なり。 然れども沢中の沢を底値とし、これより上がり始むると見ることあり。 前値と比較して考察す可し。 十に八九までは底値となりて大いに上ることあり窮理を以って定三を考合すべし。 安値保合い。 底の下にまた底があるため、更に一段の下落を見透かすべき。 六三のこう卦に着目。 しかしまた、底の固まる象があるので、底値からの持直り近いと判ずる。 高下上る。 四爻変は下る。 癸 酉 : 小高き。 兌 だ は悦である。 一陰の卑賤なる者を二陽の尊貴の上に引き挙げて深く寵愛するの象であり、是れ悦ばずに居られぬ意。 笑い娯しむ意。 愛敬の深い義。 愛好する意。 親和する意。 哀憂の意もあうるが、これは兌を秋とするの象をもってである。 卑賤下劣の義。 感服する意あり。 五行の金。 およそ水は水溜りから溝や池や沼、更には江湖、大海に至るまで水の集まりて止まるところは、皆沢に属して、兌とする。 坎の卦を流水とするのに対して、兌を止水とする。 柔和にして愛敬深くよく順い勉めれば悦びあるべし。 今、直ちには成らずとも、終わりには成る。 勝負、持合とする。 兌 だ は、亨る。 貞に利 よ ろし。 彖に曰く、兌は、説 よろこ ぶなり。 剛中にして柔外なり。 説びてもって貞に利 よ ろし。 是をもって天に順 したが いて人に応ずるなり。 説びてもって民に先だてば、民その労を忘る。 説びてもって難を犯せば、民その死を忘る。 説びの大いなる、民勧 すす むかな。 象に曰く、麗沢は、兌なり。 君子もって朋友講習す 58 兌為沢 だいたく 喜びあう 喜び。 少女がふたり楽しげに語らいあっている。 口は心を通い合わせるものだが、一歩間違えば不和の種ともなる。 迎合するものを避け、精神的に高い悦びを得ること。 若い女性が男性の寵愛を受けて悦ぶ。 ぐずぐずと言い合って背く。 先方はまだ信用していない。 まごころで調和。 兌為沢は易経に8つある上下同じ小成卦からなる重卦の一つである。 末娘を意味し、微笑む湖という象徴的な表現で表される。 また、その属性は悦びである。 一見したところそう思えないが、卦の中で悦びを表す部分は、実は最上部の従順さをあらわす一陰ではない。 従順の陰が表すのは悦びではなく憂鬱であるからだ。 喜びを表すのは内側にある二つの陽であり、従順な中に居ることの徳を持って自己を表す。 真の喜びは、その内側にある剛健な強さにその基礎を置き、外見的には柔軟な優しさとなって現れるのである 兌為沢。 成功に至る。 忍耐努力することが望ましい。 悦びは人に感染しやすい。 だから成功を引き起こすこともできる。 だが、悦びとはなにか堅実な基礎を持たなければ、ただの悦楽に堕落してしまう。 内には誠実で堅実なものを持ちながら、対外的には優しさを持って接するのがいい。 神に対しても人に対してもそのような態度で臨むのであれば、何か得られるものはあるだろう。 時に、優しさよりも脅迫的な態度が何かを得るように見えることもあるが、それは一時的な成果でしかない。 これとは反対に、人がこちらの優しい態度に心動かされ、自ら重荷を買って出、必要とあらば、死をも厭わないことがある。 それは喜びが人の上に持つ力がそれほど大きいからである。 湖が重なり合っている。 兌為沢のイメージである。 かくして君子は 議論と実践のため 友人を集める。 湖は水が蒸発するので次第に干上がっていくものだ。 しかしもし2つの湖が近くにあるとたやすくはそうならない。 片方が干上がりかけてももう一方が水を補うからである。 学習というものにも同じことが言える。 学習は新鮮で刺激的なものでなければならない。 学習をそのようなものにするには気心の合った友人たちとともに、討論したり学んだ真理を適用・実行したりしてみることだ。 そのようにすれば多面的で明るく楽しい勉学が可能となる。 一方独学というものは、一面的で暗く楽しくないものになりやすい。 兌為沢(だいたく)天卦:兌 地卦:兌喜悦 悦ぶ、悦ばす 秋 秋思である 和合悦楽 悦ぶ 柔和 仲良くする 朋友講習 めでたい事がある こわれて傷つく意がある 刃物の意がある 憂愁の意 露見 親の後を相続する 習い事 多勢がうるさい 自分の方から寄っていっても向こうは見向きもしない 愛する 好む 情が厚い 卑劣 感服 胃もたれ ・住所に悩みがある。 ・物事中途にて破れ易い。 ・男女がいちゃつく象である。 ・中傷にて話が破れる。 ・一時悦びがあっても長続きしない。 ・求占者の話に嘘がある。 ・再度の話は成立する。 その明るく感情豊かな表現力は、周囲に笑いをもたらし、場を和ませます。 兌卦の中でも最もスター性が強く、みんなに愛される卦だといえるでしょう。 しかし、隠しだてのできない性格ゆえ、不用意な発言をしてしまうことも多く、争いごとの火種になることもあります。 特に兌為澤 だいたく は、その天衣無縫さで多くの客を集めます。 バーやレストラン、スーパーなど、人の出入りの盛んなお店に勤めるとよいでしょう。 ただし、見卦は経営者向きではありません。 経営をしたければ、だれかと共同経営というかたちをとったほうが成功します。 夫婦で切り盛りできるようなパートナーシップが築ければ最高です。 また、最初から大規模な経営をしようとすると失敗します。 小さなお店から始めて、こつこつと人を集めていくとよいでしょう。 一般企業に勤める場合でも、単独でことに当たるより、チームを組むほうが効率よく仕事を進められます。 職種的には営業、渉外関係が向いています。 あなたの天性の明るさが、企業のイメージをよくしてくれるからです。 兌為澤 だいたく が仕事上で気をつけなければいけないのは「言葉」の問題です。 何気なくつぶやいたひとことが、後々大きな問題に発展しがちなのです。 こういった事態を未然に防ぐためにも、信頼できるパートナーとともに行動して、日頃から言動を注意してもらえる環境が必要になってきます。 また、しゃべりも軽快で、歯の浮くようなセリフを平気でいえるのでナンパの成功率も高いほうです。 独身の間は、異性との噂が絶えません。 ただし、根はやさしく誠実なので、たとえきっかけがナンパでも、その後はきちんとつきあおうとします。 浮気も少なそうです。 早くから恋愛に入り、ゴールインすることが多いのでヤンママ、ヤンパパが多く見られます。 結婚すると、独身時代とはうって変わって家庭的になります。 家族サービスに励み、子供をかわいがります。 いいたいことをはっきりという性格なので、家庭内のトラブルも少なくはありませんが、深刻な事態にはならないでしょう。 あなたは、精力的でセックスの回数も多いほうです。 また、その最中によくしゃべります。 あまり度が過ぎるとムードを損ねることにもなりかねないので注意しましょう。 あなたは恋人の助けを受けながら人と接して、明るさと笑いをふりまきます。 あまり財をなすような運勢にはありませんが、多くの人の「アイドル」となって、愛情に満ちた楽しい生活を送ることができるでしょう。 ただし、日頃から言葉遣いには注意したいものです。 あなたの何気ないひとことに傷ついている人も少なくないのですから。 万事思い通りになるでしょう。 ただし、自分の利益ばかりを追求すると最後に痛い目に遭います。 特にこの卦の女性は、不用意な発言が金銭的損失を招く恐れがあるので注意が必要です。 58兌為沢 (だいたく) 【キーワード】楽しいもの 〔大意〕兌(だ は「喜び」「楽しいこと」の意。 この卦は免 だ の上にまた兌 だ があるのですから、いやが上にも楽しいことがやってくることを暗示しています。 そこで問題になるのは、いまのあなたの心の持ちようです。 フランスの思想家ルソーは「人間をつくるのが理性であるとすれば、人間を導くのは感情である」といいました。 また、伝記作者として名高いロマン・ロランは「人間の感情の四分の三は子供っぽいものだ。 残り四分の一はもっと子供っぽい」といっています。 わたしたちは理性に基づいて人生をわたっているようでいながら、実際は感情に支配されていることが多い。 しかもその感情の大半は非常に子供っぽいもので、コントロールが難しい。 ところが楽しみとか喜びというものは、感情の領域にありますから、うまくコントロールしないことには、二律背反に陥ることになる。 楽しみや喜びを優先させると、人生が現実から遊離する。 現実に即した生き方をすると、真の喜びや楽しみは制御されるということになってしまう。 これでは困るわけです。 潜在 意識の理論ではこうした矛盾はおきません。 なぜなら、それは「欲望は善である」という立場をとっているからです。 「真の意味において悪い欲求などは存在しない。 欲求を殺したり、抑圧したりすることのほうが結果は悪い。 欲望こそ人を成功させる大きな要素である」とマーフィー博士はいいます。 あなたは「自分は人生を楽しむために生まれてきたのだ」と思わなくてはなりません。 そして潜在意識がそれを実現してくれることを確信することです。 そのときから、あなたの潜在意識はあなたに忠実に働きはじめます。 そしてあなたの望みはすべてかなえられるのです。 それは禍根を残します。 兌為沢 兌(だ)は亨る。 貞しきに利ろし。 剛中にして柔外なり。 説(よろこ)びてもっ て貞なるに利ろし。 是をもって天に順い人に應ずるなり。 説びてもって民に先( さき)だつときは民其の勞を忘れ、説びてもって難を犯すときは、民其の死を忘 る。 説(えつ)の大いなる、民勸(すす)むかな。 君子もって朋友講習す。 説卦伝に「万物を説ばせる者沢より説ばせるはなし」とあって沢は説 よろこぶ の象とします。 沢は水が聚る所なく此卦の陽は中に在り、中心の誠です。 陰は外にあり、物に按じて和します。 是を以て説で貞なるに利ろしといいます。 又口舌とします。 卦伝に見える説は上爻に口の象があるからです。 口舌を以てする者 便侫に取るの敝があります。 朋友が相共に講習するのは多聞の益があります。 此れが象伝の義です。 古典を考えるに孝徳天皇が悦ばせて民を使うの道を問われた時に蘇我石川万呂大臣が先以て神祇を祭礼し、然る後に政事を議すべきであると奏して中しました。 此れ万事神事を先とするという事で即ち悦びの大にして民勧むという事が是です。 祭祀の事は仮令礼典が厳くとも其志が誠実でなければなりません。 志の誠実は言辞の美であることによって見われます。 天児屋命(あめのこやねのみこと)は神事の宗源を主られる神です。 その天祝詞(あまつのりと)の太祝詞(ふとのりと)美麗して日神を感ぜしめ奉りました。 天孫降臨より後上は神に告げ下は人に示す、皆此神が中取持ちて仕えるに由る所であって神人をして悦ばしめるのは特に天祝詞の妙とします。 而して天に順い人に応じるのはいわゆる中取持の事です。 金に属します。 物入兌(よろこび)有り。 悦淫の象。 不貞の人は思わざる災いがあります。 他家金銀の象。 卦象上下金であって少女故不智口舌絶えず身体不安。 上必ず業。 継父母。 世話事。 外見宜しく内心悪い 口多。 散って口舌がありません。 若人は色情が有って来ます。 离から来るのは家内离散。 天 雨。 旅 吉。 進退に用心するべし。 売 不利。 願 小しく障。 後に成ります。 待 音信が有ります。 金銀は得られません。 失 尋ねなくても顕れます。 東北の方。 婚 成ります。 産 安産です。 疾 風邪の如くして長引きます。 身骨痛。 気鋭にして自ら病を得ます。 口舌諸病。 疥癬 瘡毒。 邪気上逆して伏病顕発。 危いですが慎めば治ります。 快から思えば又悪くなること再三です。 外見吉であって内は凶です。 便毒の滞。 経行不順。 肺湿熱。 邪 縁談結髪の破れか初縁が変った障。 三日二十八日の霊。 仏具を損した咎。 四足死霊。 地所新規の所に神仏が有ります。 三日月の崇り この卦を得た人は講習して相説ぶに至れば吉。 これに反すれば凶。

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2020年上半期しいたけ占い

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兌為沢(だいたく)は、ということです。 女の子が二人いて、キャッキャおしゃべりしているようなイメージですね。 実際の占い鑑定例でいうと、この卦は 始末に困る卦です。 「吉です。 よかったですね」とも「凶だからこうしなさい」とも言えません。 女子高ムードのように、わいわい賑やかな時です。 しかしその反面、嫉妬、陰口、噂話など、インケンな出来事にあふれています。 誰が敵で味方だか、わかりにくい時ですね。 あなたは今の問題に対して、女子高校生に手を焼くように困るでしょう。 対処方法はただ一つ。 沈黙を守ることです。 少しうまくいきそうだからといって、ペラペラとおしゃべりしてはいけません。 寡黙な態度をつらぬきましょう。 沈黙は金ですよ。 恋愛の場合です。 まあ、楽しいといえば楽しいのです。 二人で一緒にいれば、喜びがあふれてくるでしょう。 しかし、 楽しいだけというか……。 相手が真剣に取り合ってくれないパターンが多いですね。 たとえば、同棲二年目を迎えて。 この恋愛は、 楽しい・後腐れない・気楽と三拍子揃っています。 セフレになら最適ですが……。 そうでないなら、相手とは少し距離を置いて、よく考えてみましょうね。 その恋愛をしているうちに、人生を無駄にしてしまうかもしれません。 もちろん「楽しいだけ」でいいなら、大吉ですよ。 めいっぱい、人生の春を楽しみましょう! この卦が出た時は、 吉凶半々ですね。 「自分はこれからどうしていきたいのか?」そこをよく考えてみてください。 今一度、足元を見つめなおしてみましょう。

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心霊現象の種類!危険サインを感じ取ろう

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二十四節気で「穀物の種をまく時」という意味の「芒種」を迎えるのが6月5日。 実際には麦の刈り取りの時期であり、どんよりとした天気の下で鮮やかな紫陽花やカラフルな傘たちが街をいろどる季節。 そして6月6日に起きる射手座の満月は、いつも以上にエモの膨張に拍車がかかる月食でもあります。 そんな今の時期のキーワードは「モヤモヤのあとのひらめき」。 それは息苦しい勉強に退屈していた子供が、庭に迷い込んだ野良猫の存在に驚き、その後を追い路地を抜けた先で、今まで見たことのなかった光景を目にした時のよう。 昭和の時代に映画やテレビドラマにもなった石坂洋次郎の小説『山のかなたに』には、「 雷が鳴りだした。 大気をまっ二つに引き裂くような烈しい振動があり、赤い火箭(ひや)が竿(さお)を継ぎ足すように、ジグザグと鋭く走った」という表現が出てきます。 ここで読者は「大気を引き裂く」というスケールの大きな時空間の広がりを突きつけられると同時に、火をつけて放たれた矢が次々と連続して対象に突き刺さっていくような鋭いイメージを差し込まれることで、これから起こるであろう出来事がなにか運命的かつ決定的なものであることを予感するのです。 そもそも「雷」とは、「神鳴り」つまり神の「訪れ(音連れ)」であり、神が人間の力ではどうすることもできない運命を半ば強制する天の力の体験のことであり、それは地上の存在を圧倒しこなごなにする出来事でもありました。 生命はときにその不合理で、自然発生的な、カオスな側面を明らかにしますが、今のおひつじ座もまた、どこかで自分が圧倒されるような誰か何かとの関わりや、それによって眠っていたDNAが目覚めてしまうような体験を求めているはず。 みずから大気を引き裂き、雷鳴を促していくこと。 それが今季のあなたのテーマと言えるでしょう。 出典:石坂洋次郎『山のかなたに』 新潮文庫 「匙を投げる」などと言うと、なんとなく癇癪を起こしてスプーンをひっくり返したり、相手に投げつけたりといったイメージを浮かべてしまいますが、この「匙」とは薬を調合する道具のことであり、医療者側がこの病人はもう助かる見込みがないと判断することを意味するのだそうです。 例えば、『戦中派の死生観』を遺著とした小説家の吉田満は、敬愛する父親をめぐるエッセイの中で、「 私はその点まことに不肖の子で、運動神経が鈍いうえに不精者ときているから、父は早いうちに匙を投げてしまった」と書きました。 父君はゴルフ好きなだけでなく大の「教え魔」だったそうですが、吉田満はもともとバッハを愛してやまないような学生でしたし、戦後は日本銀行に勤めながら小説を書き、また論客として言論活動をしていたような人でしたから、当然と言えば当然でしょう。 けれど、それも父君が強引にゴルフをやらせる代わりに、きちんと「匙を投げ」てくれたからこそ、のちに多くの日本人の心に残る『戦艦大和ノ最期』などの名作が生まれたのだとも言えます。 中途半端に介入して相手を振り回すくらいなら、あえて無理に関わらず、いっそ「匙を投げる」方が相手を活かすこともある。 それはどこか今季のおうし座にも通じるところがあるでしょう。 出典:吉田満『戦中派の死生観』(文春学藝ライブラリー) 「心の風景」が作り出されていく過程を綴った梶井基次郎の連作短編『ある心の風景』には、夢で見た光景として次のような描写が出てきます。 「 変な感じで、足を見ているうちにも青く脹れてゆく。 痛くもなんともなかった。 腫物は紅い、サボテンの花のようである。 」 通常、皮膚の一部が化膿して腫れたものを「腫れ物」と言い、すこし触れただけでもどうにかなってしまいそうなので、そうっと触るか、おそるおそる扱わざるを得ない状況をくさして「腫れ物に触る」という言い方をする訳で、それは単に身体的レベルの話に限らず人間関係や自身の抱えている隠れた問題に対しても適用されます。 ただ、この場合はどうも様子が違っていて、「サボテンの花のよう」な腫れ物はむしろ触ってくれと言わんばかりで、ご丁寧に「痛くもなんともない」という断りまでついている。 厄介なこと、これからのリスクや、良くない可能性。 そんなほのかな予感のようなものがここにはあり、それはそのまま今季のふたご座が置かれた状況にも通底していくのではないでしょうか。 みずから腫れ物にさわってみる。 それが今季のあなたのテーマと言えるでしょう。 出典:梶井基次郎『ある心の風景』(ちくま日本文学028) 勉強のコツとは別に、試験のコツというのがあって、その極意は「山を張る」ことにあり、本番に強い人間というのは往々にして「山を張る」ことに長けているもの。 丘よりもさらに高く盛り上がって、苦しい「峠」を何度か越えると、それが「山」になっていく訳ですが、そうやって自然に到達した場所にたまたま金や銀の鉱脈が見つかるというのではなく、はじめからそれを狙って大胆な予想をし、思いきった手段に出ることを「山を張る」とか「山が当たる」といい、それを自分の習慣にしてしまえるような人のことを「山師」という訳です。 芥川龍之介は小説だけでなく俳句も嗜む人でしたが、『続芭蕉雑記』の中で史上随一の大俳人である松尾芭蕉について「日本の生んだ三百年前の大山師だつた」と述べており、彼が俳諧という前衛芸術を確立しえたのも、山を張った成果だと言うのです。 曰く、 「 芭蕉の住した無常観は芭蕉崇拝者の信ずるやうに弱々しい感傷主義を含んだものではない。 寧ろやぶれかぶれの勇に富んだ不具退転の一本道である。 芭蕉の度たび、俳諧さへ「一生の道の草」と呼んだのは必しも偶然ではなかつたであらう。 」 そして月食前後にかけて、かに座のあなたもまた、自分なりの道を歩いていくためにここぞとばかりに山を張り、賭けに出ていくことがテーマとなっていくでしょう。 出典:『芥川龍之介全集 7』 ちくま文庫 戦後期を代表する私小説家である上林暁(かんばやしあかつき)の『極楽寺門前』という作品には、「 ぷすんと黙ったきりだった」というなんとも不思議な表現が出てきます。 これは「私」が妹と外出し、新宿で冷えたスイカを買ってそれを土産に意気揚々と帰宅し、きちんと冷やして切り、食べるように勧めた際に妻の「珠子は見向きもしなかった」という言葉の後に出てくるもので、そこで「私」は「腹の底には、さっきの不興がいぶりつづけているんだな」とか、「腹を立てていた」「嫉妬の感情が、きざして来た」などと連呼した上で、「折角(せっかく)の西瓜(スイカ)も味がなかった」と結んでいます。 相手への無関心を決め込んで連絡先を消したり、ブロックしたり、ただただ切り捨てるのは簡単ですが、相手がやり返すだけの隙を残しながら「怒り」を表明していくのは難しいことですし、誰に対してもできるものではないでしょう。 けれど、やってみるだけの価値はある訳で、何より今のしし座にはそれだけの準備や心積もりがすでに十分あるはず。 そしてそうやってコミュニケーションを太く厚くしていくことこそ、今回の月食前後のしし座のテーマなのだと言えるでしょう。 出典:上林暁『極楽寺門前』(筑摩書房) 「地に落ちる」という言葉は単に物理的に上からモノが落下する際に使われるだけでなく、卑しくなる、堕落する、といった意味でもよく用いられます。 例えば、太平洋戦争末期、史上最大の海戦とされたレイテ沖海戦に敗北し、いよいよ先行きが危うくなっていく頃に新聞紙上に発表された坂口安吾の『芸道地に堕つ』などは、そのいい例でしょう。 「 昨今の日本文化は全く蚊の落ちない蚊取線香だ。 (中略)職人芸人の良心などは糞喰らえ、影もとどめぬ。 文化の破局、地獄である。 かくては日本は、戦争に勝っても文化的には敗北せざるを得ないだろう。 即ち、戦争の終ると共に欧米文化は日本に汎濫し日本文化は忽たちまち場末へ追いやられる。 」 坂口安吾がこう喝破したのはもう75年も前のことですが、昨今のコロナ禍でカミュの『ペスト』がとにかく売れているという日本の書籍事情を踏まえても、じつに耳に痛い指摘となっています。 ただし、彼が叫んでみせた「堕落」とは、そうした愚劣さを引き受けた上で、改めて虚飾を捨て人間本来の姿に徹しようというメッセージでもあったように思います。 そして今のおとめ座もまた、落ちて落ちて底を打つところまで落ちて、何も持たない裸一貫の状態から、もう一度やり直していくことが求められているのではないでしょうか。 出典:坂口安吾『堕落論』 新潮文庫 村上春樹は1984年に発表した短編小説『タクシーに乗った男』の中で、「 頭の中が真っ白になり、それが少しずつもとに戻るのにずいぶん時間がかかった」と書きました。 「強い光線が当たる部分が白くぼやける現象」のことをカメラ用語でハレーションと呼びますが、それが精神的なレベルで起きたものとイメージすればいいのかも知れません。 真っ白になっているあいだ、頭は何も考えていないという訳でなく、むしろ唸りを立てるほどのすごいスピードで懸命に情報を整理していて、「現実をきちんとした現実の枠の中に入れ、イマジネーションをきちんとしたイマジネーションの枠の中に入れ」ようとしている。 今季のてんびん座もまた、そうして過去の古びた常識や物の見方をできるだけあっさりと入れ替えられるよう、頭の中が真っ白になるような瞬間を心待ちにしていくといいでしょう。 出典:村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』 講談社文庫 「灯台下(もと)暗し」の「灯台」とは、海をのぞむ岬の燈台のことではなくて、油を入れた皿を載せてともしびを灯す昔の灯明台のこと。 それで、台のすぐ下のあたりが暗くなることから、身近なことほど案外気付きにくいことの比喩となったそう。 ただ、だからといって、「飛んで火に入る夏の虫」になりきって、いつもともしびに照らされた明るい箇所ばかり見ているのでは、あまりに情緒がありません。 静かな部屋に時おり風が訪れるたび、暗い漆器にろうそくの光がゆれ、人は怪しい光りの夢の世界へと誘われていく。 そのともしびのはためきを、谷崎潤一郎は『陰翳礼賛』の中で「 夜の脈搏(みゃくはく)」と表現しました。 ともしびがはためくごとに、畳の上を滑るかのように明るみも刻々と場所を移す。 そんな風に、暗いところで時おり何かが光ったり、その光がちらちらと流れ、綾をおりなすとき、「夜」という抽象概念さえも生き物のように脈を打ち始めるのだ、と。 そうした深い瞑想の世界には、向日性の明るさや、ポジティブ・シンキングだけでは決して入っていくことはできないでしょう。 身の周りのもっとも暗いところ、すなわち自分のからだや、ほとんど自分の一部となっている近しい人間関係にこそ目を向け、そこにきちんと生きた血が通っているか、それともすでに干からび形骸化してしまっているか、確かめていくこと。 それが、今回の月食前後にかけてのさそり座のテーマなのだと言えるでしょう。 出典:谷崎潤一郎『陰翳礼賛』 中公文庫 物を締め付けるためのらせん状の溝が刻んである用具が「ねじ」であり、これが緩むと全体の姿かたちが崩れてきます。 そこから比喩的に緊張感がなくなってだらしなくなることを「ねじが緩む」、逆にだらしない気分を引き締めることを「ねじを巻く」と言ったりします。 いわく、太陽も月も星も、人間のつむじさえも、みな螺旋を描いて進んでいるのであり、なぜそれらが螺線的に運動をするかといと、「 世界は元来、なんでも力の順逆で成立ッているのだから、東へ向いて進む力と、西に向て進む力、又は上向と下向、というようにいつでも二力の衝突があるが、その二力の衝突調和という事は是非直線的では出来ないものに極ッてるのサ」、というのです。 つまり、何事においても相反する二つの力の衝突や矛盾が生じなくなってくれば、それは「ねじが緩んで」動きが直線的になってきたということであり、そうして「社会を直線ずくめ」にしてしまうから、本来通るはずの道理も通らなくなってくるのだ、と。 同様に、まさに天地自然の法則に改めて寄り添い力を取り戻していこうという意味において、今季のいて座は改めて「ねじを巻く」ことがテーマになっているのだと言えます。 衝突をおそれず、むしろそれを利用する法を考えて、心身を引き締めていきましょう。 そう、感動は、なにも胸が熱くなったり、笑顔がこぼれたり、全米が泣いたりするばかりではなく、しばしばショッキングな体験として私たちのこころを死角から襲ってくる。 あるいは、耐えがたいほどにくすぐったかったり、看過できないむず痒さを覚えたり、ピリッと刺激されるような皮膚感覚の感動というものだってあるだろう。 私たちはしばしば感動さえも定型化し、月並で紋切り型の分かりやすい感動じるしを量産しようとするけれど、本来それは思いがけず「得体の知れない領域」で起こり、往々にして劇薬のごとき危険性を孕んでいるものだ。 だから、誰に対してもおすすめできるものではないし、電子レンジでできる時短料理のようにお手軽に出来てしまうものでもない。 フラットで、他愛もない時間の流れが、突如としてかき乱され、感覚は取り返しがつかないほどに転調する。 一言でいえば、感動は毒なのだ。 そして、それをあおる覚悟がある者だけに贈られる栄誉のことを、私たちは分かったような顔をして「創造性」と呼んでいる。 今やぎ座のあなたには、それだけの危険を冒すだけの準備が出来ているだろうか。 以前の自分ではいられなくなってしまう準備が。 出典:宮本輝『二十歳の火影』 講談社文庫 企業が人材確保を目的に、優秀な学生を卒業前に内定を出して囲い込むことを「青田買い」と言いますが、これは 稲が実る前にその田の収穫高を見越した上で先買いすることに由来しています。 これと似た言葉に「青田刈り」がありますが、こちらは戦国時代に、敵方に兵糧を調達させないように穂が青い内に稲を刈り取って、敵方の戦力を落とすという戦術が語源にあるのだとか。 どことなく、ドラッグストアでマスクやトイレットペーパーを買い占めに走る人たちの顔が浮かんできますが、よくよく考えてみると、後者にはいい稲もわるい稲も見境がないのに対し、前者にはほんらい目利きをする側の本気を問う厳しさと覚悟が込められているはず。 例えば、後藤比奈夫の「 この国に青田の青のある限り」という句などを詠むと、青田の上を吹き渡る爽やかな風を思い起こすと同時に、いつか青を青とも思えなくなってしまう時代がやってきてしまうのではないかという暗い予感がつきまといます。 今のあなたには、その先に未来や明るい可能性を思い描けるような「青田」が見えているでしょうか。 今回の月食は、みずがめ座にとってどこに先買いするべき「青田」があり、そのためにどれだけリスクを取れるのか、ということを少なからず突きつけてくるでしょう。 出典:ひらのこぼ『俳句発想法 歳時記[夏]』 草思社文庫 川端康成の戦後期の代表作である『千羽鶴』には、「 むかむかする嫌悪のなかに、稲村令嬢の姿が一すじの光のようにきらめいた」という表現が出てきます。 これは「むかむか」という吐き気の感覚を通して嫌悪という強い不快感を増幅させていくなか、その窮地を救ってくれる女性の存在を「光」のイメージで拾い上げていくという、非常にダイナミックな芸当であり、その後に当人は「新鮮な気持がした」と語っています。 気に喰わないという気持ちが頭のあたりに留まらず、胸の奥のほうや胃腸や背中の方まで拡張されていくと、かえって波が引いていくように気持ちがおさまるだけでなく、その引いていく先に正反対の心情を覚える対象が明確に姿を現わすことがあるのか、とはじめて読んだ時にいたく感動したものです。 ただ、それは逆に言えば「好きだ」とか「愛してる」といった表現に、いかに自分がしっくりきていなかったのかということを浮き彫りにしてくれた体験でもありました。 幸せであるという実感は、ひとえに「喜怒哀楽」のいずれも抑圧することなくのびのび感じていくことの中にありますが、今季のうお座にとっては特に「怒」と「哀」のあいだにあって「喜」の周囲へと通じる「嫌悪」の感覚が、ひとつの鍵になっていくはず。 表面的な嫌悪に囚われるのではなく、その向こう側にあるまだ名前のついていない感情を見出していきたいところです。 出典:川端康成『千羽鶴』 新潮文庫.

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