ヨルシカ思想犯考察。 ヨルシカ 思想犯 歌詞

ヨルシカ

ヨルシカ思想犯考察

このことから、藍二乗はエイミーがへと旅をする前に、エルマのことを想って書かれた歌だということがわかる。 藍二乗の藍はエイミーが使う万年筆のインクの色であると同時に、2乗すると「-1」になる単位の「i」、つまり 「君がいない」ということを表している。 楽曲を通してエルマに会いたいけれど、もう会うことはできないという、何かの決意のようなものを感じる。 そしてMVの最初、黒い画面の中に小さく「dear」の文字が見える。 この楽曲自体がエルマへ向けた手紙ということなのだろう。 また、「止まったガス水道」という歌詞から光熱費を払うことができない状況、つまりエイミーは仕事を辞めていることが伺える。 もちろんテレビも新聞もある筈がなく、世の中で起こっているニュースも知らずに、ただ曲作りに集中していたのだと思われる。 あの頃ずっと頭に描いた夢も大人になるほど時効になっていく ただ、ただ雲を見上げても 視界は今日も流れるまま 遠く仰いだ夜に花泳ぐ 春と見紛うほどに 君をただ見失うように 「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この一節からは、かつて思い描いていた夢を諦めている様子が伺えるが、 エルマを思い出している間だけはそんな過去を忘れ、心に春が来たような気持ちにさせてくれていたのだろう。 けれど自分で作った曲は売れず、人生が思うようにいかないことを知り、何を信じていけば良いのかわからなくなってしまった。 (顔中を覆っているインクのようなものは、涙を流すエイミーの心情を表しているのかもしれない。 ) 人生は妥協の連続なんだ そんなこと疾うにわかってたんだ エルマ、君なんだよ 君だけが僕の音楽なんだ 「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna これは売れる為には自分の作りたい曲ばかりを作っていては駄目なんだと、まるで自分に言い聞かせているようでもあり、エルマの作る音楽こそが自分の求めていたものだと述べていることから、エルマの持つ音楽の才能に気づいていたことを示していると思われる。 この詩はあと八十字 人生の価値は、終わり方だろうから ただ、ただ君だけを描け 視界の藍も滲んだまま 遠く仰いだ空に花泳ぐ この目覆う藍二乗 「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 「この詩はあと八十字」から、きっちり歌詞が80字で終わっている為、エイミーは物語の完結に対する強いこだわりを持っていた同時に、エイミー自身の寿命があと僅かであったということを示唆しているのかもしれない。 それと「視界の藍も滲んだまま」には、藍二乗のもう1つの意味が表されている。 エイミーが空を見上げると涙で視界が滲み、空の藍色が 涙で二重に見えるという情景だ。 MVの最後には、エイミーと思われる男性が空っぽの木箱に手紙を入れている様子が映されている。 きっとこの歌がエルマに宛てて作られた最初の楽曲なのだろう。 インク瓶• 万年筆• カメラ• 詩と楽譜を仕舞う木箱• バイトで貯めた資金 と最低限の荷物を持って、人生最後の旅に出ることを手紙で宣言している。 そして、この街の聖堂で詩を考えるのがになっているという記述から、恐らくこの「詩書きとコーヒー」もそのルンド大聖堂で作られた曲である可能性が高い。 最低限の生活で小さな部屋の六畳で 君と暮らせれば良かった それだけ考えていた 幸せの色は準透明 なら見えない方が良かった 何も出来ないのに今日が終わる 最低限の生活で小さな部屋の六畳で 天井を眺める毎日 何かを考えていた 幸せの価値は60000円 家賃が引かれて4000円 ぼやけた頭で想い出を漁る 「詩書きとコーヒー」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 幸せの色は 準透明とは2ndミニアルバム「負け犬にアンコールはいらない」 の収録曲であるのことを指し、確かに存在するが、目に見えない 幸せというものに対して、それが自分の元を去っていく エルマにはもう会えないという不幸を感じる くらいなら、そもそも幸せなんて知らないほうが良かったと表現しているのだろう。 そして幸せの価値という言葉も2ndミニアルバムの収録曲の歌詞 幸せの文字が¥を含むのは何でなんでしょうか。 「」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna から由来しているものと思われる。 つまりここで言う幸せとは、お金と関係する意味合いを持ち、 幸せとお金は繋がりのあるものという認識がエイミーにもあって、 お金 給料 =幸せの価値と捉えていたのかもしれない。 従って、給料の60000円から家賃の56000円を引かれて、残りは4000円という生活の苦しさを歌詞で表しているものと考えられる。 また、「少し大きくなった部屋」からは、家具などを引き払い、どうにか生活をやりくりしていた様子が伺える。 寿命を売るなら残り二年 それだけ残してあの街へ 余った寿命で思い出を漁る 「詩書きとコーヒー」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 「寿命を売る」なんていう表現は、一般的に使われることはない。 これは例えば何かの作品を世に出すような、創作家などが使う 活動期間のことを指すのではないだろうか。 そして本来はあと二年でその人生に幕を下ろすはずだったのかもしれないが、実際エイミーはこの旅を始めてから一年も経たずしてその生涯を終えることになる。 エイミーは人である前に芸術家であった。 その部分が勝ってしまったが故に、エイミーは人としての普通に関してあまり興味を持たなかったのだろう。 しかし、エルマと出会ったことで普通の生き方(エルマとの生活)に憧れ、求めるようになったが、とあるきっかけ(恐らく寿命)でそれが叶わぬものと知り、世界に、己の人生に失望してしまったのではないかと思われる。 これは推測だが、手紙に「に向かう道中でスリに遭った」と記されており、分けて保管していた現金とインクを盗られている。 このことから当初、エイミーは曲の制作活動を二年間行える程の資金とインクを持ち合わせていたが 詩書きとコーヒーより 、スリに遭ったことによってその活動期間を縮めざるを得なくなってしまったのかもしれない。 そして自分の人生の期限さえも自分で決めてしまう程の芸術至上主義だったということになる。 (インクの量=寿命と決めていた。 ) 更に、が遺した は三尺の童にさせよ という言葉についても触れていて、慣れて技巧ばかりを凝らすようになってしまった自分の音楽は、既に賞味期限が切れており、今まで続けていたものは所詮、芸術の真似事に過ぎないのだと心境を明かしている。 エイミーはこの時点で、リンショーピンという街に訪れているようだ。 数日前に書いた詩について 「青」とは毒性の人工染料で、エイミーが万年筆で使用していたインクのことだ。 恐らく、ノーチラスで服用していたものも「青」だと思われる。 そしてエイミーは「青」にもう一つの意味を持たせていた。 さようなら 青々と息を呑んだ 例う涙は青だ 黙ったらもう消えたんだよ 馬鹿みたいだよな 思い出せ! 「五月は青の窓辺から」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 手紙によると、あの詩に書かれているのは全て涙のことであり、涙というのは毒に近いものだと表現している。 涙は自分の弱さを正当化するための麻酔であると共に、辛い現実から目を背ける「逃避」なのだという。 加えて、作品を笑われた時のことを自分の弱さ=毒だと述べており、このことから、エイミーは過去に自分の作品を馬鹿にされた経験があるようだ。 従って、激しいロック調で演奏されているこの楽曲は、その時のエイミーの怒りを表しているのではないだろうか。 しかし、一つ気になる点がある。 「空いた教室」、「指を指された僕」など歌詞の中に学生時代を連想させる言葉が入っていることだ。 あくまで自己解釈だが、これは学生時代に出会ったエルマとの思い出ではなく、エルマに音楽を教えていた夏の記憶ではないだろうか。 エイミーは音楽を教えるという立場から、エルマといたその場所を教室と例え、その時間をまるで学生時代のように歌詞で表現したものと思われる。 けれど、エルマに音楽を教えている内にその才能に気づいてしまい、心のどこかで嫉妬のような感情が少しずつ湧きあがる。 そこに売れない自分の作品に対する怒りが重ね合わさり、涙さえも否定するという心情をこの歌詞で伝えようとしていたのかもしれない。 嗚呼、人間なんて辞めたいな そうだろ、面白くも何にもないだろ 嗚呼、自慢のギターを見せびらかした あの日の自分を潰してやりたいよ 伝えたい全部はもう 夏も冬も明日の向こう側で 灰になったから 淡く消え去ったから 疾うに失くしてたこの情動も何処かへ投げ捨てて 君がいいのなら ただ忘れたいのなら もう躊躇うことなんてないよ このまま夜明けまで踊ろうぜ 「踊ろうぜ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この歌詞では、それなしでは生きられない程に、自分の人生を変えてしまった音楽に対する恨みとその音楽を選んてしまった自分へのやるせない思いを表しているのだろう。 そしてそれら全てを、皮肉にも「踊ろうぜ」という曲名の歌で忘れ去ろうとしているように感じる。 嗚呼、音楽なんか辞めてやるのさ 思い出の君が一つも違わず描けたら どうせもうやりたいこと一つ言えないからさ 浮かばないからさ 君を知ったまま 日々が過ぎ去ったから どうか追いつきたいこの情動をこのまま歌にしたい 今が苦しいならさ 言い訳はいいからさ あぁもう、踊ろうぜほら 「踊ろうぜ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna エイミーにとって、音楽の他にやりたいことなど無く、思い浮かばなかった。 だから、の旅を通じてエルマに宛てた手紙と詩(楽曲)を書き終えることができたなら、音楽を辞めることにするという決意をこの時点で抱いていたのかもしれない。 ヴィスビーについて 時代に繁栄していた貿易都市で、今も中世の匂いが色濃く残る遺跡の街。 「輪壁」と呼ばれる、街の周囲をぐるりと囲む城壁は中世に作られたもので、年月が経っても変わらない姿を見ることが出来るそうだ。 恐らくここで言う「輪壁」は、エイミーの心を覆う 障壁のことを指しているのではないだろうか。 それと、エイミー個人の話も綴られていた。 昨夏の初め頃、バイトを辞めたエイミーは、久し振りに駅前で路上ライブを行っていたようで、ふと目の前を見ると、一人の中年男性が立ち止まって歌を聴いていたらしい。 そして次の曲が終盤に差し掛かった時、その男性が感想を言った。 「詰まんない歌だな」 その言葉を聞いてエイミーは、ただどうでも良かったと記しているが、手紙の最後には あの日見た夜紛いの夕暮れを、まだ忘れられないままでいるという怒りとも呼べない感情を書き表していた。 がらんどうの心が夕陽の街を歩いてく 銃身よりも重いと引き攣ったその嘘の分だけ 人生ごとマシンガン、消し飛ばしてもっと 心臓すら攫って ねぇ、さよなら一言で 「夜紛い」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna マシンガンという単語には2ndミニアルバム「負け犬にアンコールはいらない」の収録曲に似た、心の中に宿ってしまった破壊衝動を表しているものと思われる。 人生ごとマシンガン 消し飛ばしてもっと 苦しいんだと笑って ねぇ、さよなら一言で 君が後生抱えて生きていくような思い出になりたい 見るだけで痛いような ただ一つでいい 君に一つでいい 風穴を開けたい 「夜紛い」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 風穴を開けたいという歌詞は、一見すると物騒な言葉だが、 これはエルマにこのまま忘れられたくないという思いと、こんな自分を認めてほしいという存在欲求を比喩した言葉だと思われる。 つまりエイミーはエルマにとって、いつまでも忘れられないような 特別な存在になりたかったのだろう。 そしてその記憶を忘れない為の方法を探していた。 その答えがエイミーの取り柄でもある音楽の中、つまり歌詞に綴るという表現方法だったのであろう。 これは個人的な解釈だが、「ひとりぼっちのパレード」というどこか矛盾を感じる言葉には、エイミーが一人でエルマへの思いを書き連ねるパレード(文字の行列)という本来のパレードとは相反する儚い意味合いが込められているのではないだろうか。 ずっと前から思ってたけど 君の指先の中にはたぶん神様が住んでいる 今日、昨日よりずっと前から、ずっとその昔の昔から。 わかるんだ 「パレード」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna エルマの指先に注目して、まるで褒め称えているかのようなこの歌詞は、もしかしたらエルマが弾いていたピアノを指しているのかもしれない。 そしてそのピアノの音色に、自分にはない音楽の才能を見いだしていたのだと思われる。 また、この手紙はエイミーが書いた「パレード」の詩の翌日に書かれたものであり、その後日談のような内容たった。 身体の奥 喉の真下 心があるとするなら君はそこなんだろうから 「パレード」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 「身体の奥 喉の真下」が指すもの。 それは声(声帯)のことを指していて、目には見えないが、心臓を伝い、肺から気管を通り口から出る。 その空気の振動にこそ、心が宿るのだという。 これも推測だが、もしかしたらエイミーはもう一度エルマの声を聞きたくなったのか、 或いは感情が込められた歌声のように、心を宿らせることができるのは、人から発せられる声だけなんだということを伝えたかったのかもしれない。 それと、神様についての話も書かれていた。 神様は作品の中に宿るわけであって、人間の中に宿っているわけではないと思うのは創作家の傲慢だという。 そこにはエイミーの持つ思想について書かれており、自らをオスカーワイルドに倣う芸術至上主義者だと述べていた。 これには、その人の体験した人生や自然、社会といった周りの環境を模倣して芸術が作られるのではなく、むしろ芸術には人生を変えてしまう程の力を持っているという意味が込められている。 それから手紙の最後には、そろそろインクが尽きようとしている旨が書かれていた。 ヴィスビーは本当に良い街だけど、長居し過ぎてしまった。 お金もインクの残りも少なくなっている。 どうやらエイミーはこれからへ戻るようで、そこは彼が幼少期に住んでいた街らしい。 バイトを辞めたことについて 正確に言うと、逃げ出したようだ。 その日は綺麗な欠けた月が出ていたようで、自転車に乗っての駅前を無心になって漕いでいたという。 そしてその時にエイミーはもう、この夏で全てを終わらせる覚悟を決めていたようだ。 良いミュージシャンについて ロバートジョンソン、ジミヘンドリクス、ブライアンジョーンズ、ジムモリソン あの頃の良いミュージシャンは、皆27歳でこの世を去った。 27クラブなんて言う有名なジンクスもあるくらいだ。 この言葉から、(決して共感できることではないが)エイミーは27歳で人生の幕を下ろすことに美徳のようなものを感じていたのだと思われる。 手紙の最後には、の引用 「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い。 」 という詩と共に、 一滴の涙の跡と思われるシミが付いていた。 心臓が煩かった 歩くたび息が詰まった 初めてバイトを逃げ出した 音楽も生活も、もうどうでもよかった ただ気に食わないものばかりが増えた 八月某、月明かり、自転車で飛んで の高架橋、小平、富士見通りと商店街 夜風が鼻を擽ぐった この胸の痛みは気のせいだ わかってた わかった振りをした 「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この楽曲は歌詞全体を通して、自暴自棄ともとれるエイミーの荒々しい感情が表現されている。 その原因と思われる言葉が、歌詞の中に散りばめられており、何らかの病気を示唆しているものと思われる。 「心臓が煩い」• 「歩くたび息が詰まる」• 「胸の痛み」 心臓が煩かった 笑うほど喉が渇いた 初めて心を売り出した 狭心もプライドも、もうどうでもよかった 気に食わない奴にも頭を下げた 「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 歌詞に出てくる「狭心」という言葉。 このことから推測できるのは、恐らくエイミーは 、或いは心臓の病気を患っていた可能性があるということだ。 病気の正体を知ってしまったエイミーは、その人生がもう長くはないことに気づき、このような死を意識した楽曲を作ったのではないかと考えられる。 最低だ 最低だ 別れなんて傲慢だ 君の全てに頷きたいんだ そんなの欺瞞と同じだ、エルマ 「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この時のエイミーにとって、唯一の心残りはエルマであり、エルマにある音楽の才能をどうにかして本人気づかせたかったのだろう。 しかし、エイミーがそれをしてしまえば、自分にはその才能がないことを認めてしまう。 (自分の音楽を否定することになってしまう そんな嫉妬と葛藤するエイミーの思いが、この楽曲から感じられる。 その違いと理由について考えてみた。 一、「あんた」はエイミーの人生に影響を与えた外的要因。 ニ、「あんた」はエルマを皮肉った言葉。 まず前者は、エイミーの人生や考え方を決めてしまった(決めざるを得なくなってしまった)外的要因をまとめて、「あんた」と呼んでいたのではないだろうかというものだ。 病気の発覚や自分の作った音楽が売れない現実、才能のあるエルマとの出会いなどの体験は、エイミーにとって人生観や考え方を狂わせてしまった大きな原因であったと思われ、それらのせいで「僕は変わってしまったんだ」という自己主張なのだと考えられる。 そして後者は、やはり「あんた」という二人称はエルマのことを指しており、エルマの存在が自分を変えてくれたのだということを伝えたかったのではないかというものだ。 エルマと出会う前のエイミーは、夢を諦め、売れることだけを考えながら曲を作っていた。 しかし、エルマと出会い、彼女の価値観や作品に対する考え方に触れていく内に、売れることなんてどうでもいいことなんだと気付かされ、本来のエイミーの音楽を思い出させてくれたのだろう。 そのことを、感謝の意味を込めて「エルマのおかげ」と伝えようとしたが、素直になれないエイミーは「あんたのせい」と皮肉めいて書いてしまったのだと考えられる。 考えたってわからないし 青春なんてつまらないし 辞めた筈のピアノ、机を弾く癖が抜けない ねぇ、将来何してるだろうね 音楽はしてないといいね 困らないでよ 心の中に一つ線を引いても どうしても消えなかった 今更なんだから なぁ、もう思い出すな 「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 心の中に線を引いて(He/art:彼/芸術)音楽と距離を置いてみても、指で机を弾く癖が抜けないというこの歌詞からは、エイミーがかつて憧れていたピアニストの夢を未だに捨てきれないでいる様子が伺える。 このことから、やはりエイミーの人生には音楽しかなかったということがわかる。 幸せな顔した人が憎いのはどう割り切ったらいいんだ 満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感 間違ってないよ なぁ、何だかんだあんたら人間だ 愛も救いも優しさも根拠がないなんて気味が悪いよ ラブソングなんかが痛いのだって防衛本能だ どうでもいいか あんたのせいだ 「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna それと同時に、音楽のことしか考えられない芸術至上主義のエイミーは、大切な筈だったエルマに対しても嫉妬を抱いてしまう己の醜さを「化物みたいな劣等感」と称していたのだと思われる。 僕だって信念があった 今じゃ塵みたいな想いだ 何度でも君を書いた 売れることこそがどうでもよかったんだ 本当だ 本当なんだ 昔はそうだった だから僕は音楽を辞めた 「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna そんな音楽に対する葛藤と矛盾が、エイミー自身を狂わせ、行き着いた果てが 音楽を辞めるという決断に繋がってしまったのではないだろうか。 そして手紙の初めには、もうインクが残り僅かになったことが書かれていた。 (実際に文字が少し掠れている) それとエルマに向けて、箱に入れた詩と曲は全て君のものであり、僕にはもう必要ないと述べ、作品のことばかり考える自分自身のことを「芸術狂いの醜い化物」と呼んでいた。 冒頭、インクが切れたようで、文字がかなり掠れている。 そこには、エイミーの人生観が綴られていた。 終わりのない小説は詰まらない。 それは人生にも言えることであり、エイミーにとってその物語は音楽でしか表せないそうだ。 そしてこの箱に入れられた詩曲が、エイミーを象った人生そのものだという。 それから、この手紙を入れた箱はエイミーが送った訳ではないらしい。 どうやらエイミーは、そのうち親切な誰かが送ってくれることを祈って、エルマの住所を書いたメモ書きを箱に添えただけのようだ。 (ということは、にわかには信じがたいが、物語としては本当にそうなったことになるのだろう) その人生は妥協の連続だったようで、エイミーはピアニストに憧れていただけではなく、小説家にもなりたがっていたらしい。 そんな一度音楽を辞めたエイミーが、こうしてまた夢を諦めきれずに詩を書き始めるようになったのはエルマの詩を読んだからだそうだ。 エイミーは、その時触れたエルマの詩に「月明かり」を見たようで、それは夜しか照らさない無謬の光を放っていたという。 そして手紙には、数滴の滲んだ涙と思われる跡が付いていた。 嘘つきなんて わかって 触れて エルマ まだ まだ痛いよ もうさよならだって歌って 暮れて夜が来るまで 「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna.

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【ヨルシカ/ノーチラス】歌詞の意味を解釈!まさかのエイミー目線!物語は核心へ。

ヨルシカ思想犯考察

前置き スポンサーリンク ヨルシカの「エルマ」について書こうと思う。 この作品は「だから僕は音楽を辞めた」の続編として作られた一枚である。 関連記事: 「だから僕は音楽を辞めた」と「エルマ」。 対となるコンセプトを持った2作品を通して、一人の青年と一人の女の子の物語が完結するという仕様になっている。 ただし、このアルバムが少しトリッキーなのは、曲順が物語の時系列通りではないということ。 正しい時系列は初回限定盤を購入することで初めてわかるのだ。 また、初回限定盤にはいわゆる歌詞カードだけでなく、時系列ごとに登場人物がどういう思いを持って、行動したのかがわかる手帳が付いてくる。 というか、歌詞カードが手帳になってるんだけどね そのため、楽曲によって生み出された物語を追いたいリスナーは、初回限定版を購入する必要がある。 というわけで、この記事ではその初回限定版を踏まえて作品の感想を書こうと思う。 ぶっちゃけ考察厨みたいなことはしないけれど、多少は「ネタバレ」に踏み込んでしまうかもしれないので、その辺りは注意して読んでもらえたら幸いである。 「エルマ」とはどういう作品なのか? このアルバムの主人公となるエルマは、前作の主人公であるエイミーからの手紙を受け取ったところから物語が始まる。 で、その手紙を受け取ることで、エルマはエイミーが辿ったルートをなぞるようにして旅を始める。 また、なぞるという構造はアルバム自体にも反映されており、「藍二乗」と「憂一乗」、「八月、某、月灯り」と「夕凪、某、花惑い」など、「エルマ」に収録されている曲はそれぞれ前作と対になっている。 各楽曲がどういうアンサーをしているのかを細かく見ていくことで、エルマという人物像や二人の関係性が浮かび上がるようになっているのだ。 で、手帳のロジックや、この物語の考察をここから書いていこうかなーと最初は思っていたんだけど、ぶっちゃけこの物語の結末自体は「ノーチラス」のMVにきちんと描かれているし、それ以上も以下もないよなーと思ってしまったのだ。 構造だけを端的に言ってしまえば、音楽を辞めたエイミーが残したものを受け継ぐようにして、エルマが再び音楽を始める。 それが、この物語の構造だ。 二枚のアルバムと同じように、なぞるようにして動き始めて、結末だけは違う方へ向かっていく。 そういう流れだ。 前作が音楽を辞めるエイミーの物語なのだとしたら、今作は音楽を辞めていたエルマが再び音楽を始める物語である。 そして、それ以上の登場人物の行動原理を掘り下げても、あんまり意味がないように個人的に思ってしまったのだ。 スポンサーリンク 個人的にこのアルバムで思ったこと むしろ、アルバムの物語とか世界観以上に、この作品がすごいなーと思ったのは、この物語の構造のあり方である。 もちろん、このエイミーとエルマの物語って虚構でしかない。 んだけど、その虚構って、限りなく現実に食い込んできているよなーと思ったのだ。 だって、初回限定版の特典である木箱と手帳というギミックが、虚構である二人の物語を現実で再現する一つの表現方法になっているこだ。 しかも極め付けは、この作品をリリースするという構造そのものが虚構を現実化しているというところ。 というのも、この物語の結末は、エイミーが残した作品と歌にエルマが再び息を吹き込み、音楽をつくるというところにある。 つまり、「だから僕は音楽を辞めたんだ」と「エルマ」という二つの作品は、旅を終えたエルマが作った作品集であるという構造を担っているわけだ。 つまり、このアルバムを聴くという行為は、エイミーとエルマの過去の物語を追いかけているとともに、今のエルマと繋がることにもあるわけだ。 つまり、虚構が現実化してしまっているのである。 なぜ、二つのアルバムが女性ボーカルなのかの理由も、なぜ歌詞カードが手書きになのかも、なぜ時系列がバラバラのアルバムになったのかも回収してみせる。 全ては「エルマ」という作品が虚構と現実を繋げたものなのだ。 普通、虚構は虚構、現実は現実という区別を示すが、ヨルシカのこのアルバムでは、どこまでも虚構が現実に食い込んでくるのである。 「エルマ」という物語は一見すると、手帳の最後で終わっているように見えるが、収録されている曲は全て手帳以後の時系列で作られた作品となるわけで、その音には、手帳以後のエルマの姿が描かれていることになるわけである。 なので、極端なことを言えば、「だから僕は音楽は辞めた」でだんだんボーカルが狂ったように感情的に歌うのは、エイミーがいなくなった現実に苦しむからこそこ表現、という捉え方もできるわけだ。 いずれにしても、時系列の構造が他の「物語る」音楽作品のそれとはまったく違うわけだ。 虚構がどこまで現実に関われるか、というアイデアを極限まで高めたという意味で、このアルバムに凄さを感じるのである。 エルマというアルバムの感想のその先 n-bunaはスタンスとして、自分の生い立ちとかバックグラウンドを踏まえたような音楽の聴き方を推奨していない。 作品は作品として閉じたものとして楽しんでほしいと事あるごとに言っているし、ヨルシカが匿名性を維持して作品をリリースしているのは、そういう思想があるからだ。 だからこそ、逆転的に虚構を現実に食い込ませるような、トリッキーなアルバムをリリースできたのだろうなあと思ったりもする。 ところで、今作はそんなヨルシカにしては珍しいことが一つあった。 今作の特設サイトで、一番最後に寄せたコメント。 そこには、このように書かれている。 作品を作品のままで聴くことを望むn-bunaが、わざわざ現実に引き戻す恐れがある中で、発表したこのコメント。 ここでいう亡くなったミュージシャンとは、ヒトリエのフロントマンであり(あえてここは現在形で表記したい)、ボカロのシーンに大きな影響を与えたwowakaのことを指していることは間違いない。 おそらく、ボカロ出身の人間でwowakaをリスペクトしていない人間はいないだろうし、n-bunaも間違いなくその一人だった。 wowakaとn-bunaの関係性は、Twitterのリプでも垣間見られることができるからここでは詳細には書かないけれど、wowakaが認めてくれたからこそn-bunaは「音楽を続けた」ことは言葉として表明している。 「だから僕は音楽を辞めた」がリリースされたのは、4月10日。 wowakaがなくなって2日後のことだった。 おそらくwowakaが亡くなる前から「エルマ」の構想はあったとは思う。 けれど、あまりにもこの2作品を通じて語ること、何よりこの作品の結末とも言える「ノーチラス」が、あまりにもwowakaとの物語にシンクロしているように感じてしまうのだ。 皮肉にもwowakaはエイミーと同じように、有り余る才能を武器に、誰よりも早い速度でクリエイターとして日々を生き抜き、そして、一足早くみんなの元から姿を消してしまった。 本当はこういう読み方は邪道だと思うけれど、どうしても僕はwowakaとエイミーを重ねてしまうのだ。 みんなの創作意欲となるだけを残して、潜水艦に乗って、みんなの居場所から去っていくところを含めて、wowakaに重ねてしまうのだ。 そして、wowakaのあとを追うにして音楽をはじめ、おそらく最初はなぞるように音楽を作り始め、違う結末に向けて歩みを続けるn-bunaにエルマを重ねてしまうのだ。 「ノーチラス」自体は、ヨルシカになって始めた作った歌であるとn-bunaは語っている。 だから、本質的にはwowakaとは関係ない作品ではある。 けれど、虚構が現実に食い込むこの作品が、別の角度で現実に食い込む構造なのもある種の運命のように感じてしまうのだ。 n-bunaというクリエイターの現実と、この二作品の虚構は、複雑な形で混じり合っているように見えてしまうのだ。 おそらく、そういう懸念も十分に想定できる中で、作品は作品のままに閉じたまま受け入れるべきという価値観を持っているはずのn-bunaが、<亡くなったミュージシャンに捧げること>を宣言したのだ。 それだけリスペクトしていたからというのは前提だけど、その言葉も作品を構成する上で重要な言葉のように感じたのだ。 不思議と、どこまでも虚構であるはずのこの物語に、僕は私小説に似た何かを感じてしまったのだ。 まるで、n-bunaが音楽と出会い、人との出会いの中で音楽に対する想いを変えながら、一度はやめようと思った音楽を再びやろうとしているように感じたのだ。 エイミーとエルマの生き様に、n-bunaの奥底にある想いのようなものを、僕は見てしまうのである。 まとめ まあ、穿ったものの見方は置いておこう。 とにかくこのアルバムが凄いのは、明確な構造の上で作品が作られていることであり、その構造が一つや二つではなく、多重的な階層となっており、複雑な組み合わせをしながら美しく描き切ってみせているところにある。 そして、単に虚構として閉じているのではなく、様々なアプローチにより、それは現実にも侵食しているということだ。 エンタメでありながら芸術のような美しさも感じさせるこの作品。 ヨルシカにしか作れないアルバムだと思う。 スポンサーリンク.

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ヨルシカ考察【エイミー編】ヨルシカ1stフルアルバム「だから僕は音楽を辞めた」の考察

ヨルシカ思想犯考察

つまり、ヨルシカの『思想犯』には元ネタがあるということです。 タイトルと歌詞のオマージュ先は同一のものではありません。 タイトルと歌詞の結びつきを考察する前に、それぞれのオマージュ先とその内容を明らかにしていきましょう。 まずタイトルの『思想犯』とは、イギリスの作家であるジョージ・オーウェルの小説『1984』からの引用です。 『1984』は1948年に執筆され翌年に出版されたディストピア小説です。 全体主義国家によって分割統治された近未来を舞台としており、監視社会の恐怖を描いた当時の世界情勢を危惧する内容となっています。 つまり、これが楽曲タイトル『思想犯』に込められた意味となるのです。 尾崎放哉と「思想犯」の歌詞 次に歌詞がオマージュされた元ネタを確認しましょう。 この楽曲の歌詞は、大正時代の俳人である尾崎放哉の俳句と彼の人生をオマージュしています。 しかし、彼が高い評価を受ける俳人になるまでには険しい道のりがありました。 彼は東京帝国大学を卒業後、エリートとして社会に出ますが、人間関係や自身の酒癖の悪さに悩み、職を転々とします。 会社に適応出来ず、妻に離婚され、病にも犯され、社会で生きていくことは不可能だと悟った時、彼の中に残ったのは俳句だけでした。 社会から逸脱した深い孤独は彼に苦しみを与えましたが、同時に世を忍ぶ無常感が俳句の才能を冴え渡らせ、俳人として飛躍的に成長するに至りました。 彼は一生を通し多くの人が持たない感情や考えを覚え、人とは違った生き方を選んだ。 では、実際に『思想犯』の歌詞を見ていきましょう。 「詩を書いていた」からわかるように、彼の人生をオマージュし、現代版にアップデートしたものでしょう。 ただし「人を呪うのが心地良い」とありますが、彼が実際にこのような物騒なことを考えていたわけではなく、刺激的な人物像を作り上げた結果の歌詞だと思われます。 「包丁を研いでる」という歌詞は彼の俳句からの引用ですが、その意味は大きく異なります。 この歌詞の文脈から考えると「包丁を研いでる」とは、ニュースで報道されるような暗い事件の準備を示唆しているように見えます。 対して、彼の俳句には危うい意味はありません。 『層雲雑吟』と題された未発表句稿集の6番目に当たる句稿の「木槿(ムクゲ)の葉のかげで包丁といでいる」からの引用です。 彼がどんな気持ちをこの句に込めたのかは不明ですが、この一節は日常の風景として描かれているので、歌詞中のような意味ではないでしょう。 このことから『思想犯』の歌詞は、彼の俳句を引用はしているものの、句の意味はあまり捉えずに字面だけを借りているようです。 美しい無常感が与える独自性 『思想犯』の歌詞は、尾崎放哉の生涯を独自の視点で解釈したものであり、実際の彼とはズレがあると書きました。 このように、普通に生活をしていた場合には得られない感受性は、彼の俳句が持つ視点と近しいものを感じます。 「烏の歌に茜、この孤独も今音に変わる」 完全な孤独を経験したからこそ、聞こえる音がある。 そう言っているように思える歌詞です。 これに続く詞も、孤独を経験し得た感受性を発揮したような表現ですね。 このように『思想犯』の歌詞には美しい独自性を感じます。 この二つを結びつけたオマージュは秀逸であり、両者が持つ特性を見事に昇華させていると言えるでしょう。

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