明智 光秀 妻。 智将明智光秀を支えた妻煕子の実家「妻木家」の恐るべき力とは

明智光秀の子供達を一覧解説!本能寺の変の後子供達はどうなった?

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talent-databank. 役を演じるのは、木村文乃さん! 妻木煕子は、織田信長が煕子と初対面のとき、煕子のあまりの美しさに信長は抱きついてしまった。 という逸話まであるほどの美人だったようですので、木村文乃さんはまさしくイメージにピッタリですね! 妻木煕子は、明智光秀の妻なので、たくさん史料があるかと思いきや彼女のことがわかる史料は極めて少なく、殆ど残されていません。 「 明智軍記」という明智家の事が書かれた史料はあるのはあるのですが、 間違ってたり、ちょっと作り話?みたいな部分もあったりして、信頼できる史料とは言い難いのだそうです。 それでも、今回のドラマでは主役が明智光秀。 で、妻木煕子はその正室なので、登場するシーンはたくさんありそうですよね。 「 麒麟がくる」で、長谷川博己さんが演じる明智光秀は、硬派な感じもありお茶目な雰囲気もありますので、どんな風に煕子と出会うのかが気になりますよね。 どうやら12話辺りで、十兵衛は煕子と結婚する様です。 十兵衛が鷹狩に行った際、妻木煕子と出会います。 煕子とは幼い頃から顔見知りで、十兵衛が「 大きくなったらお嫁においで」と幼い頃、煕子に言っていた様です。 久しぶりに会った煕子に「 自分の妻にならないか」と言い、煕子がそれを承諾する・・という流れの様ですが、どうやらお互い(特に煕子の方が)当時から相手に想いを寄せていたっぽい感じの様なので、すんなり結婚へ・・となるみたいですね。 途中の恋物語的なストーリーが何話かあれば面白いのになぁ。 とも思うんですけどね。 明智光秀から深く愛された正室(妻)・妻木煕子 明智光秀は愛妻家としてとても有名で、側室をおくことが普通とされていた時代なのに、 正室一筋! 側室は置かなかったそうです。 何かかっこいいですね。 これは、明智光秀の考え方なのでしょうか? 性格なのでしょうか? 妻木煕子が魅力溢れる女性だったからでしょうか…。 明智光秀から深く愛された正室(妻)・妻木煕子…。 どんな人物だったのか見ていきたいと思います。 妻木煕子が生まれたのは1530年頃(享禄3年)と1534年(天文3年)といった2つの説があります。 お父様は、 ・妻木範煕 ・妻木広忠 の二人が候補に上がっています。 1540〜1550年辺りに結婚。 時期ははっきりとはわかっていませんが、だいたい1545 年(天文14年)頃、明智光秀の正室・明智煕子となります。 美しかった煕子ですが、実は嫁ぐ前に天然痘を患い、顔に痘痕が残ってしまったそうです。 そこで妻木家は、煕子によく似た妹の芳子を光秀に嫁がせようとしました。 よっぽど明智光秀との縁談を潰したくなかったのでしょうね。 でも、明智光秀は、 「 人の容貌はすぐ変わるが、心の美しさは変わらない。 」と、妹ではなく煕子を正室に迎えたとされています。 この時からすでに深い愛を感じますね。 そして、1556年(弘治2年) 斎藤道三 VS 斎藤道三の嫡男・斎藤義龍 「 長良川の戦い」に明智光秀は参加することになります。 明智光秀は斎藤道三の味方につきましたが、勝利したのは嫡男の斎藤義龍。 明智光秀は本拠を失い浪人となりました。 ) 当然生活は質素に…。 そうなると連歌会の参加者を接待しなければならなくなりますが、無職なのでお金はなく…。 そこで、煕子は夫が連歌会で恥をかかないように、自慢の黒髪を売り資金を集め、酒、料理を出し、参加者をもてなしました。 明智光秀は、そんな煕子の気持ちが嬉しくて、感謝したそうです。 煕子が亡くなるまで、側室を持たなかったのは、愛していたのはもちろんですが、このような大変なときにお互いがお互いを思いやり深い愛と絆がうまれたからではないかと思います。 光秀との間には3男4女の子どもを授かりましたが、煕子の子どもについての史実はやはりあまり残されておらず、未だに不明点は多いです。 ですが、唯一史料が残されているのは、 ・長男の光慶。 残されているといっても史料は少なくて、いつ誕生したのか分かっていません。 ただ、死因は諸説あり、 「父の明智光秀が主君・織田信長に謀反を起こしたこと知り、不道を嘆きその場で亡くなった。 」 「明智光秀が山崎の戦いに敗北し、帰りの道中で討たれると、攻撃を受け落城する前に煕子と一族とともに自害した。 」 と、されています。 ・三女の細川ガラシャ。 1563年(永禄6 年)誕生。 細川ガラシャは美人であったとされています。 煕子も美人だったようなので、お母さん譲りの美貌だったのでしょうね。 細川忠興に嫁ぎ、キリスト教に洗礼されガラシャという洗礼名を受けます。 関ヶ原の戦いで、敵軍の石田三成によって大阪城下にあった細川屋敷に襲撃され、自害。 1600年(慶長5年)7月17日に亡くなった。 とされています。 他の子どもに関する史料は残されていません。 1576年(天正4年)、 明智光秀は「 天王寺の戦い」に参加した後、過労で体調を崩してしまいます。 そして煕子は夫の看病をし、 明智光秀の体調は回復したとされていますが、 看病で疲れたのか、煕子はその後、まもなく亡くなったとされています。 または、亡くなった理由について自害という説もあります。 煕子の自害説については、1582年(天正10年) 明智光秀が「 山崎の戦い」で敗北します。 そして光秀が坂本城へ帰る道中、百姓に殺害されたことを知り、煕子は坂本城で落城前に自害したとされる。 といった説もあります。 詳しい史料がないので、死因も時期も詳しくわかっていませんが、おそらく亡くなったのは、煕子が46歳か42歳か36歳とされています。 スポンサーリンク•

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光秀と妻・煕子は夫婦仲がとてもよかった?!夫婦愛を感じられるエピソードをご紹介

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本能寺の変と光秀母との関係についてはこちら 明智光秀の子供 安土山より逃げた明智の部将は、明智の妻子親族等のゐた坂本の城に入ったが、火曜日 六月十四日 には羽柴殿の軍隊が同所に着いた。 この城は五畿内にある諸城中安土山の城を除いては最もよく最も立派なものであったが、兵の多数は城より迷げたので、かの殿 明智光春 及び他の武士等は敵軍の近づいたこと を見、また第一に入城したのがジュストであることを見て、高山右近殿ここに来れと呼びかけ、沢山の黄金を窓より海に投じ、つぎに塔の最高所に入り敵の手に落ちずと言ひ、内より戸を閉ぢ、まづ婦女及び小児等を殺し、つぎに塔に火を放ち、彼等は切腹した。 明智の二子は同所で死んだといふが、長子は十三歳で、ヨーロッバの王侯とも見ゆる如き優美な人であった。 彼等は今日までも現はれない故、噂のとほり死んだのであらうと思はれるが、逃げたといふ者もある。 筒井家との関係もあるようなので、筒井家に嫁いだ娘がほかにいたかも? 諸説あるようで、どうにもわかりません。 一般的に光秀の妻は妻木熙子のみ、といわれていますが、そこに関しても、 ・前室がいた ・側室がいる などと入り混じっています。 妻についてはこちらから さて、これほど多くいる明智光秀の子供で、子孫を残せたのは誰か?というとかなり限られます。 まず長女。 彼女は山﨑の合戦後、坂本城の落城時に夫ともども亡くなりました。 (夫に刺し殺されたといいます。 )子供がいたとしても、おそらくともに亡くなっているでしょう。 夫の光忠は、光春と同じく坂本城で亡くなっています。 彼女のほうは不明ですが……運命を同じくした可能性も少なくないでしょう。 戦国時代、織田信長の妹・お市の方は浅井氏滅亡時実家に戻りましたが、それは彼女に帰る家(織田家)があったからです。 帰る家を持たない彼女は、長女のように、夫ともどもその命を終えたのではないでしょうか。 細川忠興室。 彼女は細川家によって守られて、生き延び、子供も5人産みました。 信長の甥の津田信澄の妻です。 夫の信澄は本能寺の変の際に京都にいたため、光秀に与したと思われてどさくさで討ち取られてしまいます。 が、彼女の子、織田昌澄・津田元信は殺されることなく、江戸時代まで生き延びました。 そして男子三人。 光秀の妻(光秀正室妻木氏はこのころには亡くなっていたともいわれていますが……光秀の側室?)と子は、坂本城落城の際にことごとく死んだ、と言われています。 女子はともかく、男子ならなおさら、生かしてはおけなかったのではないでしょうか。 光慶は生き残って僧侶になったともいわれていますが、詳しいことはわかりません。 明智光秀の孫 まずは四女の二人の男子から。 長男の織田昌澄・次男の津田元信は二人とも豊臣秀頼に仕え、大坂の陣で戦いました。 大阪城落城後に投降し、家康に許されます。 長男の昌澄のほうの子孫は、江戸幕府の旗本として残りました。 次男のほうはよくわかりません。 大名家として確実に残っているのは、ガラシャの5人の子の系統でしょうか? 『熊本藩世系』によると、 長男・忠隆 次男・興秋 長女・於長(おちょう) 三男・忠利 三女・多羅 の5人の子供がいます。 長男忠隆は廃嫡されたため、大名にはなれず、京都で隠棲生活を送りました。 前妻との間の子供は、西園寺家などの公家に嫁ぎ、後妻との間の子供は熊本藩家老の家柄となりました。 次男興秋は、父によって徳川家への人質とされましたが脱走、その後大阪の陣に豊臣方として参加したため、父の怒りを買い切腹に追い込まれました。 娘が一人いて、熊本藩家臣の南条元信に嫁いでいます。 が、跡取りには恵まれなかったのか、興秋の甥で自身の従弟(弟忠利の子)の元知が南条家の跡取りとなりました。 ちなみに元知室の父・米田是長は、興秋に同行して大阪城に入っていますが、彼は細川家への復帰を許されています。 興秋は父忠興との折り合いが悪かったんでしょうか……。 長女於長は豊臣秀次家臣であった前野景定に嫁ぎましたが、秀次事件に巻き込まれて、夫は切腹しました。 彼女は辛くも一命をとりとめたのち、尼になったそうです。 三男忠利は熊本藩初代藩主です。 ただ彼の系統は7代藩主までで、8代藩主以降は、ガラシャ没後に忠興と側室の間に生まれた四男の家系に移っています。 三女多羅は臼杵藩主稲葉一通の正室となります。 父と同じく臼杵藩主となる稲葉信通を生みました。 (なお信通は2人の妻を迎えていますが、彼の妻は信長の子孫だったりします。 ) 明智光秀の子孫には天皇家も ガラシャの長男、忠隆の娘で、西園寺実晴の室となった徳は、孝明天皇の生母となった正親町雅子の7代前の先祖です。 また、三女・多羅も、息子信通を通じて、仁孝天皇(孝明天皇父)の8代前の先祖です。 明智光秀の血は天皇家にもつながっているんですね。 さて、確実にたどれる子孫については、このあたりで。 ほかの子孫はどこに? 光秀の子供はおそらく、ガラシャと四女(津田信澄室)以外は、坂本城で亡くなったのでは、と思います。 ただ、そこから逃れ出た子供もいるかも、と思うこともあります。 土佐に下った子孫がいるかも、と個人的には思います。 土佐の戦国大名・長宗我部元親の室は明智光秀家臣・斎藤利三の異父妹(義理妹とも)でした。 また利三の姪も、長宗我部信親(元親の嫡男)に嫁いでいます。 斎藤利三の娘で、のちに徳川家光の乳母となる、春日局も、父の縁で、一時期土佐に下っていたといわれています。 残党狩りを免れた光秀の家族が、それに紛れて土佐に下っていてもおかしくないでしょう。 ちなみに坂本龍馬は家紋が桔梗紋であることから、明智氏子孫という説がありますが、どうも先祖が苗字と家紋をかえたようです。 ということは関係ないようで…… 残念!.

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光秀はひろこ一筋の愛妻家!…と思いきや明智光秀の恋愛事情はヤバイ?

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【目次】• 光秀の正室・妻木煕子の出自 光秀の前半生に不明点が多いのと同様に、妻の煕子もよくわからない部分だらけです。 実際には生年や父親の名前すらも "あやふや" です。 まず生年には、 享禄3(1530)年と 天文3(1534)年の2つの説がありますが、いずれも確証はありません。 次に父親ですが、『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』(一般的に『細川家記』として知られる)によると、父は妻木勘解由左衛門範熙(つまきかげゆざえもんのりひろ)とのことです。 しかし、別の説では妻木広忠とする見方もあり、これも定かではありません。 なお、『細川家記』は細川氏の家史で、この時代の歴史を知る一級史料とされていますが、明智氏に関しては創作性が強く、裏付けもない『明智軍記』からの転載と思われる部分も多いため、この出自すら確かな情報とは言い難いのが現状です。 ちなみに妻木氏は『妻木氏系図』によると、 美濃国土岐郡の妻木城主・土岐頼照が祖とされています。 つまり、煕子も光秀と同じで美濃土岐氏一族ということですね。 光秀には煕子以前にも奥さんがいた? 煕子は三男四女をもうけたといわれますが、光秀の子の数も諸説あり、全員が煕子の子なのか、はたまた前妻や側室がもうけた子なのかも、よくわかっていません。 『天正記聞』という江戸時代の古記録によれば、光秀は煕子の前に近江の豪族である永原仁左衛門の娘を娶り、一女をもうけているといいます。 この娘は大坂夏の陣で豊臣秀頼・淀殿らと運命をともにしたという渡辺正栄尼(しょうえいに)だとか。 光秀の長女で荒木村重の息子に嫁いだ後に明智秀満(光春とも)の妻となった娘は、 天文21(1552)年生まれであるとされていますが、嫡男の光慶は生年不明ながら、俗説の享年13歳から逆算すると、 元亀元(1570)年生まれ。 長男と長女が18歳も年が離れており、同母ではあり得ないという見方もあるようです。 光秀娘として有名な細川ガラシャ。 煕子がガラシャの母という確証はない? 煕子の逸話 煕子についてはいくつかの逸話が残されています。 ただこれらは後世の創作であろうとも言われているので、事実かどうかは疑わしい部分も多分に含んでいます。 明智との婚姻をどうしても進めたい妻木氏は、煕子の妹を替え玉にして送りました。 しかし光秀はこれを見破り、「容貌などは年月や病気で変わってしまうものだ。 不変なのは心の美しさである」といって煕子を迎えたのだといいます。 あとの筋書きは同じで、伏屋姫が亡くなったため、煕子が後妻に入ったのだとしています。 また、これと似たような話で、同じく貧乏時代の光秀が連歌会を開くための資金のために髪を売ったともいいます。 光秀はこのころの妻の献身に感謝し頭が上がらず、出世してからも側室を持たなかったとか。 夫婦で交互に病にかかり…… 光秀と交流があった吉田兼見(吉田神社の神主で細川藤孝の従兄弟)の日記『兼見卿記』は重要な史料として信頼できるものですが、その中にも明智夫妻のエピソードがあります。 すると今度は同年冬に煕子が病にかかり、光秀が同じように病気平癒の祈願を依頼しにやってきたのだといいます。 信長に美しい妻を狙われたから恨みに思った? 『落穂雑談一言集』には、信長と光秀夫婦にまつわる話が収録されています。 噂を確かめたくなった信長は、家臣の妻を出仕させ、物陰に潜んで煕子を待ち伏せしました。 後ろから抱きしめようとしたところ、煕子は扇でしたたかに打ち据え、撃退してしまったのです。 まとめ 最後に煕子はいつ亡くなったのでしょうか。 この問いも残念ながらはっきりしていません。 天正4(1576)年に病で没したとも、 天正10(1582)年山崎の戦い後に自害したとも言われています。 明智家の菩提寺である大津市の西教寺には「病死」と伝わっていることから、病死説が有力です。 2020年の大河「麒麟がくる」では女優の木村文乃さんが演じることになった妻木煕子。 煕子のエピソードからも伺えるように、ドラマでは光秀・煕子夫妻の仲睦まじい姿がみられるのではないでしょうか。 【参考文献】• 藤田達生『明智光秀伝: 本能寺の変に至る派閥力学』(小学館、2019年)• 洋泉社編集部『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀』(洋泉社、2016年)• 新人物往来社編『明智光秀 野望!本能寺の変』(新人物往来社、2009年)• 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年).

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