明智光秀 家系図。 明智光秀の子孫は?父と母・妻と子供など家系図/出身地など出生まとめ

明智光秀の実像②~明智光秀は美濃の土岐氏の一族か~

明智光秀 家系図

レキシン 明智光秀の息子・自然や子孫・家系図について解説!現在も活躍する有名人多数! 天下布武を掲げ戦国乱世を終息させようとした織田信長(おだのぶなが)に仕え、羽柴秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、滝川一益(たきがわかずます・いちます)とともに 織田家五大将の一人に数えられた明智光秀(あけちみつひで)。 日本の中心であった京都を抑え、畿内から東海、北陸に巨大な領土を保有し、地方平定戦に乗り出した直後の織田信長を明智光秀は戦力的空白を突いてこれを自刃に追い込み、わずかに11日間ながら天下人になりました。 謀叛人、裏切り者などのありがたくない呼び名で知られることも多い光秀ですが、その卓越した軍事的才能、公明正大な行政手腕、攻守ともに手堅い戦場での采配、和歌や連歌に通じた文化人でもあったと伝えられる一流人物・明智光秀の子供たちや子孫は本能寺の変以降、どのような運命を辿ったのでしょうか? まずは光秀と 正室・煕子(ひろこ)の子供たちから見ていきましょう。 『明智軍記』に基づく家系図 明智光秀の出自は謎に包まれていますが、子女もまだ謎が多く、明智光秀に何人の子供がいたのか明確に分かっていません。 ここでは、江戸時代中期に記された明智光秀を主人公とした軍記物『明智軍記』をもとに簡単な家系図をご紹介いたします。 明智光秀と正室・煕子の娘たち 明智光秀には江戸元禄時代に書かれたと言われる「明智軍記」では 三男四女、「明智系図」では 六男七女(二人は養女)の子供がいたと言われています。 反逆者として敗北し、後の天下人によって完全に悪人とされた光秀には、勝者の歴史である戦国、江戸時代の文献に正確な歴史的史料が残ることは難しかったのでしょう。 このため史料に記述が残る人物について、具体的に紹介しておきます。 息子・明智光慶 明智光秀の嫡男(正室との間にできた年長の子供)は光慶(みつよし)と伝えられていますが、 生年不詳の上に元服や初陣の記録もなく、唯一光秀主催の歌会で光慶が結句を詠んだ記録があるだけです。 このため最期も亀山城での病死、坂本城での自害など諸説があり、また山城国の妙心寺や和泉国の本徳寺の僧となったと言う生存説も存在します。 次男・明智自然 NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」で田中レイくんが演じた明智自然(あけちじねん)。 可愛い演技で視聴者の心を一瞬のうちに鷲掴みにしたようですが、この明智自然とは誰のことなのでしょうか? 明智軍記では光秀の次男・十次郎光泰(じゅうじろうみつやす)の幼名が自然だと記されており、山崎の合戦ののち明智秀満らが坂本城で自害したときに死去したと伝えられています。 他にも明智系図、明智軍記に仏門へ帰依した者の名が何人か記されていますが、その行く末が確認されている者はいません。 現代の子孫 クリス・ペプラーさん 山崎の合戦の敗戦で光秀の血をひく人物を多く失いましたが、その中からしぶとく生き残り、現代に光秀の血を受け継いでいる人物がいます。 ドイツ系アメリカ人の父と日本人の母を両親に持つクリス・ペプラー さんです。 テレビ番組のナレーションやFMラジオでのDJなどのレギュラーを多く持ち、落ち着いた美声で最近は声優の仕事もされています。 クリス・ペプラー さんの母方の祖母が美濃守護大名・土岐頼芸(ときよりあき)の次男・土岐頼次(ときよりつぐ)の長男・土岐頼勝(ときよりかつ)の末裔だと伝えられており、 この頼勝には光秀の実子説があります。 真偽のほどはともかく、母方が土岐氏を名乗っているのであれば、光秀と同じ土岐氏の血筋であることは間違いなさそうです。 細川隆元、細川隆一郎 明智珠ことガラシャが嫁いだ細川家にはその血を受け継いだ末裔の人物が存在しています。 細川忠興とガラシャの長男であった忠隆(ただたか、廃嫡)の子孫で衆議院議員から政治評論家となった 細川隆元(ほそかわりゅうげん)と毎日新聞記者から同じく政治評論家となった 細川隆一郎(ほそかわりゅういちろう)です。 歯に衣を着せぬしゃべりで時事、政治についての対談や記事で人気があり、天下のご意見番の異名もとっていました。 細川護熙氏 第79代内閣総理大臣に任命された細川護熙(ほそかわもりひろ)は細川忠利から続く肥後熊本細川家の18代当主で、熊本県知事、参議院議員、衆議院議員も勤めた政治家です。 肥後細川家は8代目で直系男子が途絶えて養子を迎えたため、ここで光秀の血は途絶えたのですが、 護煕の祖母が細川忠利の兄である忠隆の末裔になるため、護煕にも明智光秀の血が流れていることになります。 坂本龍馬も? 他には 幕末に活躍した土佐藩士の坂本龍馬の家紋も桔梗紋のため、明智光秀の子孫ではと小説や解説書などで取り上げられました。 これは坂本城で自害したとされる明智秀満が落ち延びて、土佐の長宗我部家を頼りここに定住し、その子孫が坂本家と言う伝承があります。 しかし坂本城に由来するとされる坂本姓も偶然と言われており、 この伝承自体が後世の小説家の創作との説が現在は有力となっています。

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明智光秀子孫にタレントクリスペプラーが!坂本龍馬も家系図に?

明智光秀 家系図

目次 明智光秀と土岐氏 明知光秀の前半生については、不明なところが多いとされています。 出自についても同じで、土岐 とき 氏の庶流 分家 ・明智氏の出自を疑問視する声もあります。 ですが、美濃 みの 岐阜 の守護家・土岐氏の一族で、土岐氏流明智氏の出自との説が有力視されています。 光秀は有名な人物であるにも関わらず、父の名もハッキリしない位、謎の多い武将です。 なのに、何故土岐氏とされるかというと、同時代の良質な史料に光秀のことを「美濃国の住人とき 土岐 の随分衆也 ずいぶんしゅうなり 」と表現していること。 また、織田信長が光秀に宛てた書状でも、光秀のことを「美濃国住人とき 土岐 の随分衆也」と表現していることなどがあげられます。 これらの史料や家系図などから、光秀は 土岐家の庶流・明智氏と見なされています。 その土岐氏ですが、名門の出自です。 源氏 げんじ の一つの流派である、 美濃源氏 みのげんじ という名門が祖先と云われています。 源氏から土岐氏を名乗り、やがて明智氏へ派生します。 さっくり知りたい方は、まとめを四角の中に記載しましたので、そこをご覧ください。 2か所あります 土岐一族の出自・美濃源氏とは 源氏や平氏という言葉を聞くことがありますが、どのような意味でしょうか。 それは、平安時代に財政難による経費削減として、皇族が皇籍を離脱する際に、天皇から賜り名乗る氏の一つです。 昔の人は子供が多いですし、皇室を離れる人も多かったようで、源氏や平氏の他に、藤原氏、橘氏もあります。 また、源氏は20の流派がありますが、清和天皇の子孫である 清和源氏 せいわげんじ が有名で、光秀の祖先も清和源氏であると伝わります。 源氏の名前は、「分枝してもその源は同じ」という意味があるそうです。 明智土岐氏は、清和源氏である 源頼光 みなもとのよりみつ の流れを汲んでいるとされます。 源頼光から明智氏にどのように派生したのでしょうか、祖先を辿ってみます。 まずは、源氏からどのように土岐氏になったのか書いています。 土岐源氏とは 土岐氏の庶流・明智氏は、清和源氏の3代目・源頼光(みなもと の よりみつ)の子孫であるといいます。 源頼光 源頼光は、平安時代中期の武将で、英雄とされる人物です。 なんでも、平安京を恐怖に陥れていた鬼の酒呑童子 しゅてんどうじ や、蜘蛛 くも の妖怪である土蜘蛛 つちぐも を退治したとする伝説があるそうです。 源頼光の子孫は、「摂津源氏(せっつげんじ)」とも呼ばれています。 それは、摂津国 せっつのくに 大阪府 多田の地を相続しているため、地名から取りその呼び名になったそうです。 この時代は、地名が名前の由来というケースは多いですね。 そして、摂津源氏から更に派生します。 源頼光の孫・ 源国房 くにふさ が 美濃源氏の祖となります。 美濃の由来は、源国房が美濃土岐郡に土着し、美濃源氏となったそうです。 土岐氏はいつ出てくるのかという感じですが、以下の系譜の 土岐光衡 みつひら が美濃国にあった土岐郡の一日市場館 ひといちばやかた を拠点に、鎌倉時代に土岐氏を名乗ったのが始まりと云われています。 土岐源氏まとめ 清和源氏の流れを汲み、美濃に住み着いた土岐一族の総称です。 美濃源氏ともいいます。 土岐氏から明智氏へ この土岐頼貞 よりさだ の九男・土岐頼基 よりもと 長山頼基 の子である 明智頼重 よりしげ から 明智氏が派生します。 明智頼重が明 知と名乗り、後に明 智になり土岐氏支流の明智氏の祖となったそうです。 ) 名前の由来は、山間のあけた地から「明智」を名乗ったとも、開墾のために開いた土地で「明智」とも、岐阜県可児市にあった「 明智荘」 あけちのしょう から「明智」になったとも云われています。 土岐氏は美濃の守護を200年務めた名門、戦にも長けていたようで、恩賞として土地をもらい、土地の名前などを由来に名前を付けたと見られています。 明智頼重は、南北朝時代から室町時代の武将ですが、どのように明智光秀に繋がっていくのか『明智系図』を見てみます。 明智家の立ち位置は、土岐家の有力庶家で、土岐守護家からある程度独立した立場にあったようです。 また、明智光秀の正室・ 妻木煕子の妻木家も土岐氏の一族であるとされています。 一説には、土岐頼貞の九男・頼基 よりもと が妻木郷を与えられ、妻木城を築き、子孫が妻木氏を称したことから始まったとも云われますが定かではありません。 また、妻木城を築城したのは、土岐頼貞の孫・土岐頼重であるとも云われていて、真実は不明です。 いくつかある明智家の系図の中でも、『明智系図』は、古文書に見える人物と一致しているそうです。 ですが、光秀の父と有力視されている明智光継 みつつぐ と同一人物とのことです。 なんだかややっこしいので、簡単なまとめです。 👇 光秀の出生地や母についてはこちらに記しています。 👇 本能寺の変の直前に開催した連歌会 また、光秀が土岐氏の出身であると紹介する時に、有名なエピソードがあります。 光秀が連歌会で詠んだ句に、謀反を決意しているともとれる句があるというものです。 まずは、「 ときは今~」で知られる句の紹介をさせていただきます。 本能寺の変は、天正10年6月2日に起きました。 本能寺の変の直前の5月28日、光秀が連歌会を催し、歌の中で密かに謀反をほのめかしたとする説があります。 この年の5月は29日までだったそうで、6月1日に移動し6月2日に本能寺の変を起こしますので、本当に直前ということになります。 京・愛宕山 あたごやま 京都市右京区 に登り、愛宕百韻 あたごひゃくいん という 連歌会を開催します。 連歌会には、連歌の師の里村紹巴 さとむら じょうは を招きます。 連歌に込められた光秀の想い「ときは今~」 その際の光秀の発句 ほっく は、「 ときは今あめが下知 したし る五月かな」。 この句は、本能寺の変のミステリーなどで取り上げられますので、知っている方も多いかもしれません。 素直に解釈すると「今の時期は五月そのものである」という意味になるそうです。 ですが、光秀の深い想いが込められているのではないかとする説もあります。 この「とき」とは光秀の本姓・土岐氏の意味で、「あめが下知る」とは天下に下知 げち 命令 するの意味だといいます。 つまり、「この五月、今こそ土岐氏出身の自分が天下に下知する時なのだ」。 という思いが、この発句には込められているという説です。 明智光秀 「ときは今~」の句の解釈は、有名な歴史家の先生でも土岐氏とかけていると考える方もいらっしゃいますね。 私も初めて聞いた時、なる程、面白い話だなと思いました。 しかし、この解釈には疑問視する声もあります。 織田信長は、この連歌会に参加していませんが、愛宕神社に奉納されているため、信長が内容を知っていた可能性は高いそうです。 もし、本当に知っていたとしたら、信長は謀反の気持ちに気が付いていないことになります。 この連歌会には光秀の家臣だけでなく、連歌師を初めとする外部の人間が大勢参加していた状況であったそうです。 そのような中、逆心に気付かれる可能性のある句を詠むものだろうかという疑問も残りますので、深読みし過ぎかな…と思いますが、いかがでしょうか。 また、光秀が本当は詠んだ句は「今は雨が降りしきる五月である」という意味になる「ときは今 あめが下 なる五月かな」だとする説もあります。 その上、連歌会が開催されたのは、本当は5月24日なのに改ざんされているとか。 何故でしょうか。 この光秀の句が有名になったのは、「 惟任退治記 これとうたいじき 」という、史料がキッカケです。 惟任とは光秀のことですが、光秀の退治記として羽柴秀吉 豊臣秀吉 が家臣に書かせたものです。 本能寺の変のわずか四カ月後に出来たもので、明智光秀を滅ぼした秀吉の宣伝書のような物です。 そこで、光秀の野望を表す句として記載され後世に伝わったそうで、ここで改ざんされたのでしょうか。 進展あれば追記します。 近年、本能寺の変の遠因として囁かれている。 織田信長が、四国の長宗我部元親を成敗しようとしたことが、本能寺の変の一因ではないかといわれている説です。 この四国説は、光秀の重臣・斎藤利三(さいとう としみつ)、利三の兄・石谷頼辰(いしがい よりとき)も絡んできます。 明智光秀、斎藤利三、石谷頼辰はいずれも土岐氏、長宗我部元親の正室も土岐氏で嫡男達も土岐氏です。 当時、名門の土岐氏の嫡流は、下剋上により落ちぶれてしまっていました。 土岐氏再興を目指す、彼らにとって、長宗我部征伐は見過ごせない出来事だったとされています。 本能寺の変の原因は定かになっていませんで、本当に本能寺の変の一因かは不明ですが、光秀は土岐氏であることに誇りを持っていたのかもしれません。 没落した土岐家の話は美濃の守護・、土岐頼芸を追い落としたの話は、別で詳しく書いています。 興味ある方は合わせてご覧ください。

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【家系図】明智光秀の出自はどれが正しい?諸説を総ざらいして考察!

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明智光秀の家系図は? 明智頼重(美濃国可児郡明智城主) | 明智頼篤 | 明智国篤 | 明智頼秋 | 明智頼秀 | 明智頼弘 | 明智頼定 | 明智頼尚(今上天皇の直系祖先) | 明智光継(頼典)(美濃国長山城主) | 明智光綱(光隆) | 明智光秀 = 妻木煕子 | 光秀の子供1 乙寿丸 光秀の子供2 十次郎 光秀の子供3 光慶 光秀の子供4 女子 光秀の子供5 玉(細川忠興の正室である細川ガラシャ) 光秀の子供6 女子 光秀の子供7 女子 明智光秀はなぜ裏切り? 明智光秀が仕えていた人と言えば、織田信長 でしたね。 でも、明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか? それは、家臣に対しての考え方が斬新であったと いうことがあるようです。 そのため、明智光秀は織田信長の考え方について いくことができなかったようです。 考え方についていけなかったため、どうしても 織田信長とコミュニケーションが足りませんで した。 というようなことで、明智光秀は裏切りしてし まったんだと思われます。 明智光秀の死因は? 明智光秀の直接的な死因は家臣の介錯だという 噂です。 間接的な原因は、農民の落ち武者狩りに遭遇して Sponsord Link 竹やりで脇腹を刺されたのです。 助からないと観念した明智光秀は家臣に介錯を 頼んだのでしょう。 明智光秀の母は? 明智光秀は、自分の母を人質にして城に立て 籠もったことがあったようです。 そして、本能寺の変が起きる前に母は殺され てしまっていたようです。 ただ、母の名前が無かったため、母は誰なの かわかりませんでした。 明智光秀の性格は? 明智光秀の性格は、歌を詠んだり・お茶を嗜む という文化的なところがあります。 そして、戦が上手くて政治的なことも得意だっ たようです。 その反面、繊細な神経を持っており、織田信長 からたくさん仕打ちを受けました。 それだけでなく、侮辱もたくさんされ続けた結果、 堪忍袋の緒が切れて有名な本能寺の変を起こすこ とになったそうです。 ですが、織田信長が喜ぶようなことを熱心に研究し、 ご機嫌斜めにならないように努力する努力家でもあっ たようです。 そのため、織田信長の部下になってからすぐに出世 します。 自分の出世のためなら、腹黒い部分もあったようです。 ですが、家臣や領民に対しては思いやりがあったよう ですよ。 明智光秀の最後は? 明智光秀の最後は、山崎の戦いで羽柴秀吉に負け、 勝龍寺城へ逃げようとします。 夜中に坂本城に向かう途中、小栗栖村で落武者狩り の士民の竹槍にやられて重傷を負ってしまいました。 織田信長に見つけてもらい、重臣まで出世しました。 ですが、最終的には本能寺の変を起こして、主である 織田信長を自殺させました。 そして、明智光秀は生きて帰ってきたところ山崎の戦 で負けてしまうことになります。 実際のところは、一応残されている資料や文献などに よってしかわからないのですが、落ち武者狩りで殺さ れたという説。 ただ、落ち武者狩りでは怪我をしてしまったがため、 自殺をしたという説。

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