中国 イナゴ 大量 発生。 三つの終末的試練に直面する中国 : 200兆匹のイナゴ軍団が中国に迫る。国連は過去1年半で個体数が「6400万倍増加した」と発表。そして、彼らはどんな荒地でも進行する能力を持つ

中国蝗災史

中国 イナゴ 大量 発生

蝗害とは? バッタが大量発生して群れをなし、農作物や植物に壊滅的な被害をもたらすことを「 蝗害(コウガイ)」といいます。 世界では、たびたび 「蝗害」による被害を受けています。 また日本では、イナゴの大量発生といわれることもありますが、 水田にいるようなイナゴは蝗害を起こしません。 日本でも昔は稀に発生していたそうですが、世界ほど大量には発生していません。 理由は、日本は土地が狭いため群れを維持するほどの植物が存在しないためです。 蝗害を起こすバッタの種類 先ほどにもあげましたが、「蝗害」を起こすバッタは厳密にいうとイナゴの種類ではなく基本的には「ワタリバッタ」や「トビバッタ」といわれる「トノサマバッタ」の種類になります。 「孤独相」と「群生相」 日本でも草むらでよく見かけるトノサマバッタ、子どものころ捕まえたことがあるという人も多いでしょう。 しかし、そのときに群れをなしているようなトノサマバッタをみたことはないと思います。 群れをなす種類とそうじゃない種類がいるのでしょうか? 実は「蝗害」を起こすバッタは少し不思議な生体をしています。 子どもの頃捕まえたり、公園等で見かけるトノサマバッタは「 孤独相」といわれる個体で、単独で生活しています。 親の世代が他のトノサマバッタとほとんど関わりがなかった、集団にいなかった場合、「孤独相」として生まれてきます。 しかし、親の世代が集団の中で子どもを産むと「 群生相」と呼ばれる個体が産まれます。 「群生相」として産まれてくると、外見や行動が大幅に変わります。 外見の変化ですが、体の色が暗くなり、羽が長くなります。 そして何よりも空を飛ぶ能力が非常に高くなります。 次に行動の変化ですが、「群生相」同士の個体は一緒に行動するようになります。 そして、「孤独相」の個体では食べない植物まで食べるようになります。 この「群生相」という個体が群れをなし「蝗害」を起こすのです。 畑荒らし、みんなでやれば怖くないの精神です。 集団が大きくなるほど「群生相」の特色が強くでるようになるといわれており、世代をまたぐほど集団は大きくなっていく性質があるため、たちが悪いですよね。 このように、同じ種類なのにも関わらず生活条件、親の代の集団密度によって姿が変わり、異なった行動を起こす変化のことを「相変異」といいます。 バッタが集団で群れをなし、農作物に被害を与えることを「蝗害」と呼ぶ• 同じ種類のバッタにもかかわらず、親世代の個体の集団密度が高い、低いで「群生相」「孤独相」という外見や行動が変わるものがある、それを「相変異」という• 「群生相」という個体に生まれたバッタは群れをなし、「蝗害」を起こす• 被害が災害レベルになるため現在では「国際連合食料農業機関(FAO)」という機関が対策をとっている 今回はバッタの大量発生の理由とその被害について調べてみました。 もしご興味があれば、こちらもご覧ください その他にも、色々な日常の疑問を解説していますので、興味のある方やお時間の許す方はこちらの「」へどうぞ。

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三つの終末的試練に直面する中国 : 200兆匹のイナゴ軍団が中国に迫る。国連は過去1年半で個体数が「6400万倍増加した」と発表。そして、彼らはどんな荒地でも進行する能力を持つ

中国 イナゴ 大量 発生

イナゴ(サバクトビバッタ)の大群がアフリカ大陸からインドを通過し現在は中国に来襲しています。 その数は4000億とも言われており、大群は幅40km、長さ60km、重量80万トンと過去最悪の規模で世界各地の農作物を食い荒らしながら移動しています。 特に中国は新型肺炎のコロナウイルスで混乱しており、泣きっ面に蜂状態となっています。 中には日本にもやってくるのではと心配している方もいました。 以下動画と飛んでいる巨大イナゴの画像も含まれますので、苦手な方閲覧注意です。 アフリカではヘリコプターからの消毒液を巻いていましたが焼石に水状態でした。 イナゴの大群は東アフリカで発生、ソマリア、エチオピア、ケニア、南スーダン、ウガンダ、中国、インドが主な被害地となっています。 コロナウイルスとのダブルパンチで流通不全と食糧危機も危惧されています。 日本には多分来ない アフリカから欧州ではなくインドから中国に向かったのは偏西風によりでしょうか。 偏西風は日本にも向かっていますが、日本海があるので恐らく日本までは来ないはずです。 (アフリカ大陸からサウジアラビアに移動した際紅海を越えているようなので、サバクトビバッタの飛行能力があれば物理的には日本への来襲は可能ではあるようです。 ) ただし土の中に卵を産む性質があるので、土ごと人の手によって移動すれば、ヒアリのように今後日本で定着し大量発生しないとも言い切れないです。 虫が苦手な私としては何としてもこのイナゴの大群だけは阻止してもらいたいです。 先週「アフリカでイナゴが大発生!」 今朝「イナゴがインドに到達!」 夕方「イナゴが中国で大暴れ!」 無茶苦茶やね。 カラコルム越えられる訳ないね。 — 皿屋敷 sarayashiki ちなみに寿命も1か月から長くても3か月とかなり短いとのこと。 ネットの反応まとめ まずくて食べられないそうです。 しかし硬くて食べられなかった。 大量発生し群体になると、特殊なホルモンにより茶色の硬いイナゴへと変わる。 翅を硬く強固にし、長距離の飛行を可能にし、多くの個体に餌を確保させるための変化です — Herp-about. これを相変化と呼ぶ。 数が減ると、元の緑に戻るんだとか、日本でバッタと言われているのはイナゴの一種で、こういう変化は起こさない。 バッタとイナゴの違いは相変化するかしないか。 とんだ風評被害だなあ」と思っているのだ。

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パキスタンのバッタ被害対策に中国が10万羽「アヒル軍」派兵

中国 イナゴ 大量 発生

概要 [ ] 中国では昔から、蝗災(蝗害)、水災()、旱災()が3大災害の扱いを受けている。 そもそも【蝗】の字は農作物を襲う蝗の惨害をどう防ぐか、救うかに「皇」帝の命がかかっているというので虫へんに皇と書くとする説がある ほどで、政治と蝗害は密接に関わってきた。 『』巻第八、務農第三十にあるのが蝗を飲み込んで蝗害を止めたという伝説にも、その関係性が表れている。 の1937年の著『中国救荒史』によると、代の蝗害は平均で8. 8年おき、時代には3. 5年おき、には1. 6年おき、代には2. 8年おきであり、中国は世界規模で見ても蝗害を多く受けてきた地域の一つである。 中国の蝗害のほとんどはによるものである。 明末の農学者は著書『除蝗疏』 ()の中で「政府が非常時の食を蓄えておかずに飢餓の被害が広がったとすれば、それは人災というべきものである。 飢餓の主因は3つ、洪水、旱魃、バッタである(國家不務畜積、不備凶饑人事之失也。 凶饑之因有三、曰水、曰旱、曰蝗)。 」と述べている。 旱魃の後には蝗害が発生しやすく、農作物の被害を一層大きくする。 歴史 [ ] 殷周 [ ] 古くはのにも蝗害の記録が見られる。 の詩篇『』には「既方既皁、既堅既好。 不稂不莠、去其螟螣。 及其蟊賊、無害我田穉。 田祖有神、秉畀炎火」とバッタの駆除の様子が詠われている。 漢代 [ ] 紀元前175年(6年)4月、旱魃と蝗害が起こっている(『』文帝紀 )。 この他に『』志第十五には建武22年、23年、28年、29年、30年、31年、中元元年、永平4年、15年、永元8年、9年、永初4年、6年、7年、元初元年、2年、延光元年、永建5年、永和元年、永興元年、2年、永壽3年、延熹元年、熹平6年、興平元年、建安2年と連綿として蝗害が起きた様子が綴られている。 の思想家は著書『』巻16の中に「虫食穀者、部吏所致」と記載している。 または「蝗者、在上貪苛之所致也」と自説を述べている。 魏晋南北朝 [ ] 東晋永嘉4年(310年)、幽并司冀秦雍六州で蝗害が発生。 建武元年(317年)にも司冀并青雍の五州に蝗害が発生したとする。 (『』) 高宗文成帝の時代、癸亥、営州で蝗害が発生したので、詔を下し、官庫を開いて窮民を救済した旨の記述がある(『』巻二・魏本紀第二)。 唐代 [ ] の記録として「夏にバッタが発生し、作物を食い荒らして民を苦しめた。 儒学者は、祭礼を怠っているから旱魃が起こり、魚貝が害虫に変わったのだと主張した」 と書かれている(『新唐書』 )。 (二年)、首都に旱魃が起こり、飛蝗も大発生した。 『』には皇帝自身が視察を行った様子が書かれている。 、流域で「羽音、風雨の如し(聲如風雨)」というレベルで飛蝗が大発生し、当時の宰相は地元の官僚(汴州刺史)倪若水に命じてその駆除を実施し 、その量は14万石(約2万5千立方メートル)に上っている。 に山東諸州に蝗害が発生している(『』巻7)。 、現在のに飛蝗が発生したが、鳥がこれを捕食したために被害は抑えられている(『』 )。 4月、「春からの大規模な旱魃で麦が枯れ、苗が育たず、関中でバッタが発生した」 と記録されている。 は、「夏にバッタが発生し、東は海から西は黄河の上流まで、10日以上にわたって群れが天を覆った。 草木や家畜に群がり、死骸が道を塞いだ」 と記されている(『』 )。 6月、「天下旱、蝗食田」 旱魃と蝗害 との記録がある(『旧唐書』 )。 この年の前後は蝗害が酷かったらしく、中国の記録ではないが、慈覚大師()著の『』の開成5年(840年)の箇所には「青州(現在の付近)ではここ3、4年蝗害が起こっている(正月二十一日)」「いなごの群れが穀物をすべて食い尽くし路上足の踏み場も無い(八月十日)」などの記録がある。 五代十国 [ ] 、で「許、陳、汝、蔡、潁の五州でバッタが発生したが、鳥の大群がこれを皆食べた」という蝗害が起こっている。 夏六月、で「バッタが天を覆い、昼から暗くなった」 という蝗害が起こっている(『』呉越忠懿王世家)。 、宋州で「蝗一夕抱草而死、差官祭之」という害が起こっている。 ()の周懐宇は2000年、これを人間が生態系に影響を与えたためと説明している。 宋代 [ ] から、蝗害が発生しており、その後も、、、、、、に蝗害が起こっている(『』 )。 時代にとしても活躍していたは、晩に火を焚いて飛蝗を誘い込む方法を提案している。 元代 [ ] を始めに、しばしば蝗害が報告されている。 特にの被害は大きく、南京(現在の)、諸路が襲われている(『』 )。 また、には長雨による黄河の氾濫、蝗害、旱魃と言った天変地異が頻発し、そのためにが欧州へ移動したとする説がある。 また、『』には蝗害予防の方法が記されており、村(当時は社と記した)単位での管理や予防が共同体約定と言う形式で事実上義務化されていたことがわかる。 明代 [ ] 開国皇帝の「御製皇陵碑」には「値天無雨、遺蝗騰翔。 里人缺食、草木為糧」(雨が無く、バッタが大発生したため、民は食うものが無くなり草木まで食べた)と、元末の蝗害が社会に大きな影響を与えた旨が記されている。 を始めにしばしば蝗害が報告されており、明初からの「首都の天を飛蝗が蔽い、10日間以上続いた」、の「両畿、山西、山東、河南に地面に数尺ものバッタが降り積もり、農被害が起きた」との記録がある(『』 )。 6月初9日、は著書『屯塩疏』の第3編を『除蝗疏』として対策を記し、後に『』に編入された。 明末のには「両京、山東、河南で大旱蝗(旱魃と蝗害)」、には「両京、山東、河南、山西、陝西で大旱蝗」、には「両京、山東、河南、浙江で大旱蝗」と報告されており、国力を大きく疲弊させた (に明は滅亡している)。 清代 [ ] に延安、安定、欒城を飛蝗が襲い、天を覆うほどであったという(『』 )。 、が『』を著している。 また同じ、「渠県に数万の虫が発生した。 バッタに似ているが色が黒く、頭が鋭く、翅が長く、いやな臭いがする」 と記されている(『清史稿』 )。 近代になったこともあり記録も増えており、『清史稿』には「秋、徐州鄰県にバッタが侵入したが、農被害を与える前に皆死んでしまった」 (1716年)、「夏、泗陽西郷の柴林湖にバッタが来て地面に数寸降り積もったため、兵士が怯えた。 」 (1732年)、「河南にバッタが来たが皆すぐ死んだため被害にはならなかった」 (1740年)、「バッタが発生したため、4月までに植物は皆枯れてしまった」 (1787年)などの記録がある。 さらには「柳、慶上年早蝗過重、一二不逞之徒倡乱、飢民随従搶奪、比比皆然」(1852年、『論粤西賊情兵事始末』)、「夏、武郡蝗虫蔽日」(1853年、『武定府志』)、「七月、蝗従南来、飛蔽天日.集田害稼」(1855年、宣統『重修恩縣誌』)の記録がある。 の蝗害は「蝗害により、鳥の数がめっきり減り、妻に売春させる男が増えた」 (1856年、民國『欽縣縣誌』)、「5月に飛蝗が野を覆い、農作物を食った」 (1856年、民國『定陶縣誌』)、「安徽皖北の旱魃により飛蝗が発生し、農作物を食い荒らした」 (1856年、民國『太和縣誌』)、「8月、昌平、邢台、香河、順義、武邑、唐山で飛蝗が発生した」 (清史稿)と多くの記録がある。 続いて「秋7月、飛蝗が戻ってきて天を覆い、農作物に大被害を与えた」 (7月、雍正『遼州志』)、「嵐が発生しえて飛蝗は草に止まったまま死んだ」 (1877年、清史稿)との記録がある。 この清代の蝗害に関しては、中国では光緒14年(1888年)に顧彦輯が『治蝗全法』を記した。 また、同じ清代に『捕蝗要訣』と言う防除法を記した書物が現存している。 日本では楢木野宣が『嘉慶年間における水害と蝗害の一例』と言う論文を執筆するだけの資料が残っている。 近現代 [ ] 1942年のでも飛蝗が大量発生した。 1958年にで四害駆除運動を推奨しスズメを大量に駆除した結果、ハエ、カ、イナゴ(蝗害)、ウンカなどの害虫の大量発生を招いた。 夏にはを飛蝗が襲っており、1平方メートルあたり350-500匹、飛来面積は220万畝に上った。 これは海南省が出来て以来最悪の記録となった。 そのうちの農地は100万畝であり、この年の稲の収穫はほぼ絶望的となった。 被害を与えたのはトノサマバッタの一種、東亜飛蝗 Locusta migratoria manilensis であった。 出典 [ ]• 周同 2003年8月10日. 人民報. 2016年12月28日閲覧。 講談社『中国妖怪人物事典』実吉達郎• 彭邦炯 、1983年、農業考古、1983年第2期• 中國哲學書電子化計劃• (ウィキソース中国語版)。 李純然 [ ]• (ウィキソース中国語版)。 《貞観政要》卷8《務農》、上海古籍出版社1978年版、第237頁。 (ウィキソース中国語版)。 (ウィキソース中国語版)。 王溥:『』巻44、中華書局1955年6月第1版、第790頁• [ ]• 2008年7月24日. 2016年12月28日閲覧。 (ウィキソース中国語版)。 周懐宇 、中国水利報、2000年• (ウィキソース中国語版)など。 陳芳生『捕蝗考』()• (ウィキソース中国語版)• 岡田晴恵『感染症は世界史を動かす』、2006年、ちくま新書、• 鳳陽論壇 [ ]• (ウィキソース中国語版)。 人民報. 2005年8月20日. 2016年12月28日閲覧。 原文 [ ]• 「夏州蝗。 蝗之殘民、若無功而祿者然、皆貪撓之所生。 先儒以為人主失禮煩苛則旱、魚螺變為蟲蝗、故以屬魚孽」• 「自春大旱、麦枯死、禾無苗、関中有蝗」• 「夏、蝗、東自海、西盡河隴、群飛蔽天、旬日不息;所至、草木葉及畜毛靡有孑遺、餓殍枕道」• 「大蝗蔽日而飛、晝為之黑、庭戸衣帳悉充塞」• 「渠県有虫数万斛、似蝗、黒色、頭鋭、有翅、嗅之甚臭」• 「徐州鄰県秋蝗入州界、不食禾皆抱草而斃」• 「泗陽西郷柴林湖夏蝗蝻遍地、厚数寸。 官兵惶懼、旋尽抱草僵死」• 「河南蝗来境、抱草而死、不為災」• 「蝻起、至四月皆依草附木而枯」• 「夏、蝗虫又起、飛翳天日、棲樹枝折、復値歳飢、木葉草亘、人虫争相取食、衰鴻遍野、売男鬻女」• 「五月、飛蝗遍野。 六月、蝻生、食稼害稼」• 「(安徽皖北大旱)旱、飛蝗大至、食稼幾盡」• 「八月、昌平蝗、邢台蝗、香河、順義、武邑、唐山蝗」• 「秋七月至望復返、群飛蔽日、食稼太甚」• 「大風雨、蝗抱草斃」 参考文献 [ ]• (中国語版) 倪根金、《历代蝗灾及治蝗述要》(《历史教学》1998年第6期)• (中国語版) 陆人骥、《中国历代蝗灾的初步研究——开明版〈二十五史〉中蝗灾记录的分析》(《农业考古》1986年第1期)• (中国語版) 袁林著、《西北灾荒史》(甘肃人民出版社、1994年).

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