全共闘。 続・全共闘白書

全共闘に関するトピックス:朝日新聞デジタル

全共闘

全共闘運動にかかわった人たちから集めた450を超えるアンケートの回答を全文収録している。 その自由回答の書き込みを読んでいくと、「全共闘」を背負ったそれぞれの人生が浮かび上がってくる。 涙を禁じ得ないエピソードも多く、世代を超えて読み継がれる記録集となるだろう。 巻末の「集計と解析」によると、運動に参加したことを「誇りに思う」という回答が70%、何らかの政治活動や社会運動への参加意志がいまも「ある」との回答が60%あった。 全共闘世代は、「団塊の世代」と呼ばれる1947年から49年生まれのベビーブーマーと重なるが、当時の大学進学率は20%前後だから、全共闘世代は団塊の一部で、全共闘運動に参加したのは、さらにその一部にすぎない。 アンケートに回答した人たちは、運動への思い入れのある人たちが多いということもあるのだろうが、懲りない世代かもしれない。 かくいう私も友人から回ってきたアンケートに同じように回答した。 全共闘の隊列の最後尾にいて、逃げ足には自信があった。 それでも、騒擾(そうじょう)罪が適用された1968年10月21日の「新宿騒乱」では、駅構内のホームにいた記憶がある。 投票だけでは、世の中は変わらない、という思いはいまもある。 子どもが不登校になったときに、進学にも支障が出ると狼狽したが、「大学解体」を叫んでいた自分を思い出し、不登校は抑圧的になっている学校教育に対する子どもなりの「異議申し立て」と考えるようになった。 現在は、ひきこもりの家族会やフリースクールの運営にかかわっている。 そんな全共闘体験を昇華している話を読んでいたら、いい人生ですねと、回答者に敬意を表したくなった。 全共闘で戦ったあとは、企業などの組織でも「戦士」として奮闘した人も多いのではないか。 そろそろ後期高齢者になる時期、人生の「総括」という気持ちで回答した人も多いだろう。 「みんな何処へ行った 見送られることもなく」という中島みゆきの「地上の星」を引用して、全共闘の今の所在を問いかけた回答があった。 私も中島みゆきの「忘れな草をもう一度」の歌詞を引いて、連帯の気持ちに代えたい。 「忘れな草もう一度ふるえてよ あの人の夢にとどけ」.

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『続・全共闘白書』:FACTA ONLINE

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全共闘の目的は、何だったのでしょうか。 よく聞く「全共闘」「学生運動」というものはなんだろうとふと思い、ちらちらと調べてみたのですが、目的と思想がよくわかりません。 真っ赤な共産主義かといえばそうでもないし、ストライキの理由は「学費の値上げに反対」。 目的は、単なる「権力への反抗」なのでしょうか。 補足値上げ反対、マスプロ講義反対などの活動は、妥当なものだったのでしょうか。 それとも「若気の至り」なのでしょうか。 今は私大の授業料は高いのが当たり前になってますが、当時はショッキングだったのでしょうかね。 私は隣の旧帝大ですが、うちはもう全くと言っていいほど無気力でした) 補足に答えて) 値上げ反対、マスプロ講義反対などは、当然の要求と思います。 ただ、その手段が暴力に訴えたのがよくなかった。 そして、ねらいは暴力革命にあり、値上げ反対などといってバリケードストライキをしながら、こっそり授業料を払って退学になるものはいなかった。 「ノルウェイの森」に書かれている通りです。 学生運動に失敗しつくしたから、今の学生や市民運動が低調になったのはそのとおりだと思います。 100人以上を殺した内ゲバや連合赤軍事件で、学生運動は何か不穏なものと思われるようになったのです。 恩師などにうかがうと、全共闘以前の学生運動は民衆とのつながりも支持もあったといいます。 全共闘運動はナチスと同じニヒリズムの運動であり、その破壊したものは大きかったと思います。 今の青年が無気力とは思いません。 就職が大変で、学生運動をやる余裕もないだろうし、ボランティアなどでがんばっている学生もいます。 まず「主体が自ら思想を選び取り」行動しなければならないと思います。 私なら、NGOでがんばります。 学問に専念して社会に還元するのもいいです。 周囲がどうあれ、あなたに道は開かれています。 全共闘の目的について答えられる人はいないでしょう。 さまざまな人が、お遊びから真剣、狂気の内ゲバ殺人まで、さまざまな目的で参加した大衆暴動です。 しかし、文化大革命に影響を受けた暴力の礼賛が共通項で、柴田翔も指摘しているように、暴力を楽しんでいた傾向があります。 ただし、私のように貧しくて国立大学しか進学できなかった学生も多かったので、学費値上げ反対は当然と思います。 毛沢東主義の影響が大きかったのは彼らの「造反有理」などの落書きからもわかりますが、トロツキストもアナキストもいました。 もちろん、お遊びの人も多かったと思います。 全共闘について、下記の私のブログで解説しています。 76年ごろの、完全に退廃してしまった全共闘の残党、なれのはてについても体験的に書いています。 (補足について) マスプロ講義への批判は、当時の全共闘運動にかかわった人間の日記や回顧録にさかんに登場します。 1960年の安保闘争で死んだ樺美智子の手紙には「エリート知識人が人民を導く」という決意が登場しますが、1960年ごろまでは大学はエリート養成機関でした。 1960年代から大学の大衆化がはじまり、マスプロ講義が生まれます。 なので、大学の役割がまったくかわり始めた時期だったので、「マスプロ講義」批判は実に妥当なものでした。 私大の学費は現在ではさらにバカ高いものになっていますが、「今よりも安い」という視点は今だからいえるものであって、当時としては深刻だったのです。 初任給との比較をのせておきます。 ---------- 全共闘運動は、日大タイプとその後の東大タイプと二つにモデルに大きく分けられ、全国にその後つくられていくのは、基本的に東大タイプのものが中心です。 日大タイプはしばしば言われるように自然発生的な学生(ノンセクト・ラジカルズ)の運動が出発点にあり、大学への不満(後述)を背景にした大学改革運動の色彩が強いものです。 東大タイプは新左翼、今日では過激派とよばれるグループの「連合体」というのが実態です。 色合いは雑多ですが、まあいわゆるマルクス主義を掲げたグループが中心です(私はこれをマルクス主義とは思わないのですが)。 スローガンも「帝国主義大学の解体」など、目標としてはすぐに完結せず、革命によって現秩序を破壊するためのステップという扱いですね。 その後全国の大学に広がった全共闘運動は、実態としてはこうした極左セクトの連合体という性格(東大タイプ)が強いものばかりでした。 もちろんそうでない人たちもいたのですが、まあおおむねそんな感じです。 東大全共闘運動の後にできた全国全共闘の結成会議の実態は、セクトの連合体集会でした。 こうした運動がもりあがった背景ですが、日大の闘争は、大学の不正経理に端を発し、理事長の専制的体制を倒すことがかかげられました。 60年ごろまで「エリートの要請」機関であった大学でしたが、60年代くらいから大衆化がすすみ、マスプロ講義(大量生産型講義)や学費の高騰(私大の場合は大卒初任給の10倍くらいの年学費)が大きな問題になりました。 このような背景があったので、日大では不満が爆発したのです。 東大タイプの全共闘にしても、まったく一般学生や大学への不満と切り離されていたわけではありません。 東大では、医学部のインターン問題をきっかけに有志の連合体が運動をはじたのが紛争のきっかけとなります。 東大でも他大学と同じようにマスプロ講義への不満などが背景にあったわけですが、こうした問題は東大の場合、全員加盟制の学生自治会などでとりあげられてきた課題でした(日大には学生自治会がありませんでした)。 学生自治会のような機関ではなく、もっと自由に勝手に動けるしくみとして、「有志の気ままな連合体」として全共闘スタイルがとりいれられ、学生自治会のイニシアチブをとれなかった新左翼諸派の行動の道具になっていきました。

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三島由紀夫対東大全共闘から50年

全共闘

1968年、全国各地の青年によって 多様に多彩に取り組まれた全共闘運動が 楽しき日々であったことは、 ほとんど語られることなく注目されてこなかった。 本書では「愉快な叛乱」として著者自身の体験が語られる。 政治や社会に無関心だったノンポリ青年たちが、 マルクス主義や革命を掲げる政治党派とは無縁な 学生運動集団として日大全共闘に「成」り、 ノンセクトであることを誇りとして闘った愉快な叛乱の記録。 ……バリケードでは誕生会やダンスパーティーを 開催したり自主講座を開講したりして、 とても清々しく、心地の良い、愉快な日々を過ごした。 私たちは国家や大企業など権力に依存するのとは 別の生き方を選ぶ、人生の選び直しと向き合った…… みはし・としあき 1947年、神田の生まれ。 1968年、日大闘争に参加し全共闘に成る。 1973年、田村正敏 日大全共闘書記長と無尽出版会を 設立し『無尽』刊行。 』 榎並 重行と共著、JICC出版局、1987年 ほか。 1968年から50年という節目だからか、当時「日大闘争」を闘った本人たちの本が出版されている。 世間の評論家達の「全共闘運動」に対する「総括」は、「全共闘」も「全学連」も区別ができずにただ連合赤軍のリンチ事件やあさま山荘事件につながって「自滅した」ということになっている。 しかし闘った本人たちの本を読むと「日大闘争」を闘った「日大全共闘」はそれ以前の学生運動とは「似て非なるもの」であることが判る。 党派組織があって上部からの指示で動いていたような学生運動とは違い、自由な「個」の集団が「全共闘」だったことが判る。 それがゆえに警視庁機動隊を撃破し、数万の学生の力で「大衆団交」を勝ち取ることができた。 それが出来たのは「日大全共闘」をおいて他にはなかったように思う。 「大衆団交」の確約を反故にさせたのは、今の安倍首相の大叔父である佐藤栄作氏。 そのため日大に右翼暴力団体育会体質が温存された。 そして今のアメフット問題。 政界でも自民党の独裁と政権党に迎合する宗教政党。 嘘が大手を振ってまかり通る世の中になっている。 今求められているのは「日本全共闘」ではないか? 国立歴史民俗博物館で2017年に開催された「『1968年』無数の問いの噴出の時代」は、全共闘運動が切り拓いた社会運動の新しい可能性を第一次資料とともに開示した。 全共闘運動は、戦後民主主義を土台に大学自治会が中心となった全学連運動とは出自を別にしていた。 全共闘は一人ひとりの「個」を発生源に自己組織化しながら間接にゆるやかに連合し、全国の学園へと拡大していった。 1968年を起点にして「無数の問い」が噴出したのは、全共闘が単一のイデオロギーや政治的スローガンの元に集合した運動体ではなく、多種多様な組織されざる無数の「個」によって「異議申し立て」が社会へと発信されたからに他ならない。 日大闘争は、そうした全共闘運動を象徴する社会運動として知られている。 本書は、その日大闘争が起こってから五〇年の節目に、日大全共闘として日大闘争にかかわった著者による「日大闘争の記憶と記録」だ。 著者は、「『1968年』無数の問いの噴出の時代」展に出品されていた日大闘争関連資料を国立歴史民俗博物館に一万五千点余り寄贈した「日大闘争を記録する会」のメンバーでもあるという。 いわば、1968年に日大闘争に参加した著者が当時の資料を収集し整理しながら執筆したのがこの著作であり、この作品自体も貴重な全共闘運動の「記録」資料だといえるだろう。 第一章「全共闘経験をめぐる軌跡」で著者は、これまで全共闘運動が連合赤軍による「浅間山荘事件」や「ハイジャック」や「革共同による『内ゲバ』」と同質で連続した出来事として語られてきた錯誤を、「治安対策」上の言説として批評していく。 第二章「『総括』と『友情』の断片」では、本書のタイトルにもなっている「愉快な叛乱」をめぐる経験へと話は展開していく。 日大闘争に参加したという特権的な経験は確かに感動的な物語をいくつも生んだことだろう。 その喜びは伝わってくるが、はたして本当に「愉快な経験」だけだったのか。 「負」の経験が語られていないことに、疑問が残った。 第三章「日大全共闘というスタイル」は、全共闘運動を東大闘争とともに牽引した日大全共闘の「スタイル」について分析的に語られていく。 日大闘争が「自主・自律・自治」を土台とした全共闘による運動だったという経験が、これからの時代の社会運動について考えていく上で示唆的だ。 社会運動が何かを実現していくための一つの手段としてではなく、その運動へのかかわり自体が今を生きる喜びでもあるような社会運動としての萌芽が、日大闘争には確かにあったという。 その「予次的政治」とも言われている社会運動の可能性こそ、1968年を起点に世界中を席巻した学生叛乱の大義として現在へと受け継がれるべき経験だろう。 本書は、日大全共闘の一人として日大闘争を闘った著者の経験を入り口に、その大義への「呼び水」となるべく執筆が試みられた作品だという。 これからも1968年の出来事がグローバルヒストリーを構成していく一つの軸として語られていくだろうが、バリケード闘争や徹底抗戦や大衆団交といった日大全共闘をめぐる経験はその中軸として更に深く研究されていくだろう。

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