美空 ひばり 反戦 歌。 美空ひばり

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美空 ひばり 反戦 歌

美空ひばり(1953年) 基本情報 出生名 加藤 和枝(かとう かずえ) 生誕 出身地 死没 1989-06-24 (52歳没) () 学歴 高等部 (現・東海大学付属市原望洋高等学校) ジャンル 、、 職業 、 担当楽器 活動期間 - レーベル 事務所 公式サイト 美空 ひばり(みそら ひばり、(12年) - (元年))は、の、。 横浜市立滝頭小学校、高等部(現・東海大学付属市原望洋高等学校)。 12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「 歌謡界の女王」と認める存在となった。 昭和の歌謡界を代表する歌手であり 、女性として史上初のを受賞した。 本名は 加藤 和枝(かとう かずえ)。 愛称は 御嬢(おじょう)。 身長147cm。 略歴 [ ] 幼少期 [ ] 滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・の長女・和枝(かずえ)として生まれた。 増吉は(現:)、喜美枝はの出身。 妹は、弟は・。 家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受け、和枝は歌謡曲や流行歌を歌うことの楽しさを知ることとなった。 1943年6月、に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、和枝は父のために『』を歌った。 壮行会に集まった者達が和枝の歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝は和枝の歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊から和枝の歌による慰問活動を始めるようになった。 デビュー [ ] 敗戦後間もない1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。 近所の公民館・銭湯に舞台を作り、和枝は8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。 1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『』を歌い加藤母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。 審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。 横浜市の杉田劇場 で初舞台を踏む。 翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、加藤母子は審査員ののもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください! 」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。 古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。 もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールを送った。 、杉田劇場での、のの前座歌手として出演してから、この一行と地方巡業するようになる。 に巡業した際、1947年4月28日、高知県長岡郡(現)ので加藤母子が乗っていたバスが前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落。 そのまま落ちればで全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまった。 和枝は左手首を切り、鼻血を流し気絶し、瞳孔も開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。 家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ! 」と怒鳴ったが、和枝は「歌をやめるなら死ぬ! 」と言い切った。 師・川田晴久との出会い [ ] 1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた・三代目組長のに挨拶に出向き、気に入られた。 同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン(のちの)に公演に抜擢された。 川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。 川田に大きな影響を受けたひばりは、節回しを川田節から学んでいる。 専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、歌い方が一致する結果が出ている。 ひばりは「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と後に語っている。 純粋に「かわいい」と見る層がいた反面、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。 でのは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている。 前年10月、喜劇役者・の劇団・に参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。 この時、演出していたのに母親が芸名をつけてくれるように頼み、 美空ひばりと命名してもらう。 なお、「美空ひばり」の命名者、時期については上記以外も諸説あるが、に掲載された横浜国際劇場の公演広告の1948年3月8日掲載ぶんに「美空ヒバリ」、同じく1948年6月1日掲載ぶんに「美空ひばり」の記載が残っているため、遅くとも1948年3月以前であろうと推測される。 全国的人気を獲得 [ ] 1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・)で笠置の『セコハン娘』、『』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には『』(配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。 8月には『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『』でコロムビアから歌手としてB面であるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。 続いて12歳で映画主演を果たした『』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の史上最高記録)国民的認知度を得た。 この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は、幼少期のひばりを代表する映像として現在も目にする機会が多い。 1950年、川田晴久とともに二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のため渡米。 帰国してすぐに2人の主演で『』に出演。 映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなった。 同年5月()を設立。 代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、がそれぞれ就任した。 同年、主演の松竹『・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。 以後これを持ち役とした。 1952年映画『リンゴ園の少女』の主題歌『』が当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。 1953年、『お嬢さん社長』に主演。 喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周りもそう呼ぶようになった。 初代を歌舞伎界からスカウトして映画「ひよどり草紙」で共演。 錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。 この後、新人男優がひばりの相手役となることは、大スターへの登竜門のように言われた。 錦之助とひばりは、共演後にたちまち恋仲となり周囲が猛反対した。 それでも別れないため田岡一雄が困り果て、(のち東映社長)に頼み、岡田が諄々とふたりを諭して別れさせた。 三人娘の時代 [ ] 1954年、『』でに初出場。 には、とともに映画『』に出演したことを契機に、「」として人気を博し、親交を深める。 1956年、ジャズバンドのと婚約。 その後、この婚約は破棄した。 初の 公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。 離島からのファンでは大混雑した。 1957年1月13日、にて、ショーを観に来ていた少女からを顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。 現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ警察に突き出された。 犯人の少女はひばりの熱烈なファンだったという。 その後、公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。 また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして、らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。 1958年4月1日、・が正式にの看板を掲げた。 同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年6月にはを設立して副社長に田岡一雄が就任した。 同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。 『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『』(1962年)など続々ヒット映画にも恵まれた。 1960年から始まった『べらんめえ芸者』シリーズでは二作目以降、に頼まれ、を相手役として迎えた。 東映と専属契約を結んだ1958年から1963年の間 、多くの時代劇、に主演し、東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。 岡田茂は「美空ひばりは東映の女優の中で、会社にとって最も重要な役割を果たした」と述べている。 今日、映画女優としての側面に必ずしも多くの光が当たっているとはいい難いが、生涯で150本を超える映画に出演し、そのほとんどが主演という、戦後を代表する映画女優であった。 1960年、『』で歌唱賞を受賞、「 歌謡界の女王」の異名をとるようになった。 小林旭との短い結婚・離婚後 [ ] 1962年、と結婚。 出会いは雑誌が企画した対談の場だった。 交際を始めるが、小林は結婚をまだ考えていなかったにも関わらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ。 ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を強引に迫ってきたので、小林は断れず(昭和37年)に結婚した。 喜美枝はこの結婚を快く思っていなかったようで、人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林と離婚したことだと後に公言して憚らなかったほどである。 小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『』で述懐している。 小林は入籍を希望していたが、ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、しておらず、上ではひばりは生涯独身であった。 ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。 また、ひばり自身も歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしい願いも叶わなかった。 また結婚した翌1963年には、増吉がにより52歳で亡くなっている。 別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚。 ひばり親子に頼まれた田岡から会見2日前に、「おまえと一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや」と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと小林は自著で述べている。 記者会見は別々に開かれ、小林の会見には田岡と菱和プロ社長・嘉山登一郎が同席した。 小林は「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明。 この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった。 「未練はいっぱいある。 皆さんの前で泣きたいくらいだ」と離婚は小林の本意でなかったとも語っている。 その1時間半後にひばりも田岡に同席してもらい、記者会見を行った。 ひばりは田岡に口添えされながら、「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」「自分が幸せになる道を選んだ」と答えた。 また「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」とも語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。 離婚直後に発表した『』はともあいまって翌にかけて大ヒット。 180万枚という、当時のひばりとしては全シングルの中で最大のヒット曲となった。 この曲で1965年、を受賞。 1966年には『』が145万枚を売り上げ 、1967年には『芸道一代』、調の楽曲でとの共演やの衣装が大きな話題となり、140万枚を売り上げた『』と、ひばりの代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。 母・喜美枝との二人三脚時代 [ ] 1964年、で初の座長公演を行い、演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の、大阪のにて長年にわたり座長を張り続けた。 離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも巧みにプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。 ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。 当時のからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。 1970年8月の求めに応じてで公演。 1970年、で紅組司会・大トリを担当。 紅白史上初の組司会とトリの兼任である(組司会と大トリの兼任は女性に限れば唯一)。 この時の歌唱曲は弟・作曲の「」。 歌手兼司会の前例はあったが、組司会がトリを務めるということはまだなかったため、ひばりが紅組司会に決まった時点で、紅組トリは(当時女性歌手のヒットNo. 1)との構想が固まっていた。 ところがひばりは司会発表会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは…と思いました。 来年は歌手生活25周年にもあたります。 やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、結局ひばりの紅組司会兼大トリが半ば強引に決定した。 この時期も田岡一雄は父親代わりの存在としてひばりを庇護し、ひばりはの田岡の葬儀にも出席している。 この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになった。 兄弟とひばりのトラブル・相次ぐ肉親の死 [ ] 1973年、実弟が起こした不祥事により 、加藤家と暴力団山口組および田岡との関係も問題とされ、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大きく取り上げた。 しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずさなかった。 この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていたへの出場を辞退した。 そのためこの年から数年間、は日本教育テレビ(現:)の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演。 以後、からオファーが来ても断り続けた。 1977年、当時の同局の人気番組であった『』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復。 しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった。 1970年代~1980年代前半のひばりは大きなヒット曲には恵まれなかったものの、この時代に入ると幅広いジャンルの楽曲を自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。 また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、には誰もが唄える歌として発表した『』は、この地道な活動が功を奏す形で久々のヒット曲となった。 又には、『』もロング・ヒットを記録する。 しかし1980年代に入り、1981年には実母が転移性により68歳で死去。 同年に行われた芸能生活35周年記念リサイタルは、実母が危篤状態の中行われたものである。 また、父親の代わりを担っていた田岡も相次いで亡くなった。 1982年には親友の江利チエミが45歳で急死し、1984年は「」で18年間主役を演じ、同番組の最終回にひばりが特別出演する等親交のあったも55歳で死去した。 さらには、ひばりの2人の実弟哲也(1983年)と(1986年)まで、共に42歳の若さで次々と肉親を亡くすという悲運が続く。 ひばりはを1977年に養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいたとの量は日に日に増し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。 晩年・病魔との闘い [ ] 1985年5月、ひばりの誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。 その頃からひばりは原因不明のを訴えるが、徐々に腰の痛みが悪化していく中でも、ひばりはそれを微塵も感じさせない熱唱を見せていた。 翌年の1986年には芸能生活40周年記念リサイタルを東京・名古屋・大阪の三大都市で開催。 後に東京でのコンサートがビデオ・DVD化されている だが1987年(昭和62年)、全国ツアー四国公演の巡業中、ひばりの足腰の激痛はついに耐えられない状態に陥った。 しかしそんな中、同年2月には三重県鳥羽市まで出向き、ひばり自らの要望でのを見物。 それと同地において、カラオケビデオの撮影にも臨んだ。 1テイク撮影後再度撮り直しの為に、スタート地点へ戻るよう監督の指示を受けた際、ひばりは段差を上りきれず立ち止まってしまい、付き人の手を借りて歩行し映像を撮り終えた。 現在DAMカラオケで「リンゴ追分」「真赤な太陽」等のカラオケでは、その頃のひばりの姿が映し出されている。 入院2週間前の4月7日には日本テレビ「コロムビア 演歌大行進」の収録に臨む。 とに手を取られ登場し、体調が悪い中「」などを歌った。 同年4月22日、公演先ので極度の体調不良を訴え、に緊急。 重度のおよび両側とされ、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった(入院当時実際の病名は「」であったが、マスコミには一切発表しなかった。 ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くした)。 またそれに伴い同年5月に予定された、の公演中止を発表。 入院して約1か月後の同年5月29日、ひばりは丁度50歳の誕生日を迎えていた。 その闘病の最中にひばりは、マスコミ陣及び大勢のひばりファン達に対して「今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています」「あわてない慌てない、ひとやすみ一休み」等と吹き込まれた、肉声入りのを披露した。 1987年6月16日に(享年62)、7月17日には(享年52)と、ひばり自身とも親交が深かった昭和の大スターが相次いで亡くなる中、ひばりは入院から3か月経過後の同年8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファン達に笑いながら投げキッスを見せた。 退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。 ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。 退院後の約2か月間は自宅療養に努め、同年10月9日に行われた新曲『』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より芸能活動の復活を果たす。 しかし、病気は決して完治した訳ではなかった。 肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされた。 ある日、が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩下りてきたと後に語った。 それが里見自身ひばりとの最後の対面だったという。 伝説のステージ「不死鳥コンサート」東京ドーム・復帰公演 [ ] 1988年(昭和63年)初頭はで静養、2月中には帰国。 体調が思わしくないまま公演本番の日を迎える。 新しき空に向かって」を実施(実際にはそれ以前にやがコンサートを同場所で既に行っていた)。 この復活コンサートの様子は、現在もテレビ番組でしばしば映像が使われ、後にビデオ・DVD化もされている。 なお「」をイメージした金色の衣装など、舞台衣装はがデザインしたものである。 この東京ドーム公演の会場客席には、・・雪村いづみ・・・など、ひばりと特に懇意のある女性芸能人達も、ひばりの復帰ステージを見るために駆けつけていた。 それとは裏腹に、ひばりにとってはまさに命がけであった。 楽屋入りの際には、楽屋前で私服のまま、ひばりはファン並びにマスコミへ向けて不死鳥コンサートへの意気込みをコメント映像として残したが、このコメント映像に応じるか応じられないかもひばりの判断次第でないと分からない状況であった。 も後年、BS朝日「わが心の美空ひばり」にて「あのコメントを残してくださったことを心から感謝しています、まさかあんなに状態が悪かったとは思いもしなかったですよ」と語っている。 ひばりはフィナーレの「」を歌い終えると、思い通りに歌えなかったのかマイクをスタンドに戻す際に一瞬首を傾げていた(彼女の日記にも、自身が満足のいく出来にできなかったことへの苦悩とこの調子であと何年もつのかという不安が書かれている)。 この頃のひばりは既に、体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せており、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。 常人であれば歌うことはもちろん、立つことすら難しい病状の中でステージに立った。 公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師も控えていた。 また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。 公演の際に楽屋を訪れた浅丘ルリ子は、まるで病室のような楽屋とひばりの様子に衝撃を受けたと語る。 楽屋でひばりはベッドに横たわっており、浅丘が心配そうに「大丈夫? 」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど頑張るわ」と笑顔で答えたという。 ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩いたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであった。 とても歩ける状態ではないにも拘らず、沢山のひばりファンに笑顔で手を振り続けながら全快をアピール。 そのゴール地点には和也が控え、ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしたという。 当時マスコミ各社はひばりの「完全復活」を報道したが、ひばり自身にとっては命を削って臨んだ、伝説のステージとなった。 東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化し、段差を1人で上ることさえ困難になり、リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。 ドーム公演後全国13カ所での公演が決まっており、翌1989年2月7日小倉公演までの10か月間、全国公演を含めテレビ番組収録など精力的に仕事を行った。 1988年6月7日には極秘で再び福岡にて一時入院したが、すぐに仕事を再開することができた。 6月の入院を乗りきったひばりはその後の年内の仕事も予定通りに全てこなし、同年7月29日に「」(「」を歌唱)に加え、8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。 ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では屋外ステージで歌った。 映像は残され、現在の特番でも放映されている。 生涯最後のシングル「川の流れのように」 [ ] 1988年10月28日には、前日(中村メイコの実娘)からの友達紹介で、「」のコーナーに、最初で最後の出演を果たした(ひばりからのお友達紹介は岸本加世子)。 またその頃、の企画による『不死鳥パートII』との題名で、生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元やといった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。 そのアルバムの中には、生涯最後のシングル曲となった『』もレコーディングされている。 なお、ひばりのスタッフ陣は当初『ハハハ』をシングル化する予定だったものの、ひばりが自ら「お願いだから、今回だけは私の我が儘を聞き入れて! 」と、スタッフに対して『川の流れのように』のシングル化を強く迫りながら懇願し、結果としてひばりの希望通りの形となった。 そのきっかけとなったのが、同年10月11日にオリジナルアルバム制作の報告も兼ね、日本コロムビア本社内で行われたひばり生涯最後の記者会見の時であった。 この記者会見前にひばりは、アルバム内の1曲『ハハハ』を秋元康が立ち合いの下、公開初披露された後で会見が組まれた。 ある記者が「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されている10曲がどんな曲なのか、紹介していただけますか? 」と投げかけた。 するとひばりは「えー…もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか。 だからこれからの私。 大海へスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるかっていうのは誰にも分からないのでね。 だから『愛燦燦』とはまた違う意味のね、人生の歌じゃないかなって思いますね…」との全てを覆す回答を残した。 ひばりの記者会見後、制作部はバタバタしながら1989年1月のリリース準備に入ったエピソードが残されている。 同年暮れの12月12・16・17日の3日間にわたって、翌1989年(昭和64年)1月4日にTBSテレビで放送された、生涯最後のワンマンショー『春一番! 熱唱美空ひばり』の収録に臨んだ。 総合司会はが担当し、特別ゲストには森光子、とが出演。 収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばり自身スタッフの熱意を肌で感じていた。 だが、番組収録終了後最後の記念撮影時に、ひばりが隣に座った番組制作プロデューサーのに向かって「この番組が『最後』になるかもしれないから。 私ねぇ、見た目よりもうんと疲れてるのよ、1曲終わる度にガクッと来るの」と話したという。 後に堺がひばりの追悼番組で、当時「どういう意味での『最後』かは定かではないが…」と話している。 しかしプロデューサーの池田は耳にこびりついて仕方がなかったという。 脚の激痛と息苦しさで、歌う時は殆ど動かないままの歌唱であった。 この頃既に間質性肺炎の症状が出始めていたとされており、立っているだけで限界だったひばりは、歌を歌い終わる度に椅子に腰掛け、息を整えていたという。 それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。 それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括る。 そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁からの激励のメッセージを受けると、感極まったひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。 1988年12月25日、26日とにて、生涯最後のが行われ、やらひばりの友人も足を運んだ。 無理を押しての歌中、激しいで観衆を沸かせていた。 この時の映像は特番等で稀に放送されたことがある。 ビデオ・DVD化はされていない ディナーショー終了後、石井と王らが会食していた神楽坂の料亭に連絡なしにいきなり現れたひばりが、浪曲「」を歌唱。 石井は2010年6月にTBS系で放映された特番で「全身が総毛立ったの。 素晴らしかったですよ。 なんで録っておかなかったんだろうと今でも悔いています」と語った。 昭和から平成へ・再入院 [ ] 1989年1月8日、が「昭和」から「平成」へ移り変わったその日、ひばりは「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに…」というを詠んだ。 その3日後の1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売される。 しかしこの時のひばりの肺は、既に病に侵されていた。 1月15日、『』と『』へそれぞれVTRで出演。 各番組の最後で『川の流れのように』など数曲を歌ったが、『ミュージックフェア』が放送時間上ひばりにとって、結果的に生前最後のテレビ出演となった。 同番組の1989年第1回目の放送は「美空ひばり特集」として1月8日に予定されていた。 だが昭和天皇の崩御に伴い特別編成が組まれ、1週間先送りとなった。 この頃のひばりはドーム公演時から見てもさらに痩せ、明らかに体調は悪化していた。 なお、1月中のひばりはへの家族旅行や、の見物の他、自宅での静養が多かったとされる。 体調が一時期平行線であっても、好転することはなかった。 コンサートの数日前、早めに現地入りしたひばりは、医師の診療を受けた際に以前より病状が芳しくない状態であることを告げられていた。 それでもこの年の全国ツアー「歌は我が命」でスタートさせた初日、の公演で、持病の肝硬変の悪化からくる状態となる。 公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても明らかであったが、ひばりは周囲の猛反対を押し切り、翌日の小倉公演までの約束でコンサートを強行した。 2月7日、での公演が、ひばりの生涯最後のステージとなった(その映像は残されていないが、スタッフが確認用に録音したカセットテープに音源のみ残され、ひばり17回忌の2005年にCDとして商品化された)。 同日、ひばりは車や新幹線での移動に耐えられない程衰えていたため、急遽を使用しての往復移動となり、会場の楽屋入り後すぐひばりは横になった。 酸素吸入器と共に医師が控え、肝硬変の悪化からくるも抱え、いつ倒れてしてもおかしくない状態だったという。 当時同行した和也は後に「おふくろはもう気力だけで立っていたんだと思います…お医者さんには、間髪入れずに『倒れて出血したらもう終わりです。 喉を切開して血を抜かないと、をしちゃいますよ。 いつ倒れてもおかしくないですからね』と言われてたんで、袖で陣取っていたんですけど、ここの時ほど心細い時はなかった。 本当…死んだ親父やばあちゃんがいたらな…って思いましたよ」と語っている。 開演時間になるとひばりは起き上がり、ステージへ向かう。 廊下からステージに入る間の、わずか数センチの段差も1人では乗り越えられなかった。 またコンサート中大半がいすに座りながらでの歌唱であった。 あまりの体調の悪さに元々予定されていた楽曲を一部カットしていた(のなど)。 息苦しさをMCでごまかすひばりだが、翌3月に診断される「」の病状は進行していた。 だが1,100人の観衆を前にひばりは、全20曲無事に歌い終わった。 2月8日、2年前と同じ済生会福岡総合病院に検査入院。 一旦は退院し、マスコミから避けて福岡の知人宅に2月下旬まで滞在後、再びヘリコプターで帰京。 その際、新木場ヘリポートから自宅までは車での移動であったが、体力が既に限界を超えていた。 3月上旬に入ってからは自宅静養の日々が続き、ツアーを断念せざるを得ない状況の中でも、同年4月17日に自らの故郷である横浜に新しく竣工した、のこけら落とし公演が予定されていた。 この舞台に立つことに執念を見せるひばりは「私は『横浜アリーナ』の舞台に立ちたい。 ここでの公演だけは這いずってでもやりたい! 」と一方的に譲らず、母の体調を案じて公演の中止を迫る和也に「ママは舞台で死ねたら本望なの! 余計な口出ししないで!! 」と突っぱねるも、和也は「あんたが死んじゃったら、残された俺は一体どうするんだ!! 」と反論する等、度々口喧嘩をし続けていたという。 その口論の日々が書かれた直筆の日記が、今も特番で公開されることがある。 その頃、石井ふく子の紹介で、近所の診療所の医師に診察を仰いだが、手の指先や顔色も青ざめたひばりが診療室に入ってきた姿を目の当たりにしたその医師から、ひばりは肺の状態の説明も受け、専門医のいる病院への入院を強く勧められた。 そして3月9日に数時間、静養中の自宅を訪れた診療所の医師から強い説得を受けると、ひばりは椅子に腰かけながら真正面を向いたまま涙を流し、何かを悟るかのように長い時間沈黙があったという。 その沈黙の後、ひばりはついに再入院の決断を下した。 3月中旬にひばりは再度検査入院した後で一時退院、3月21日にはラジオので『美空ひばり感動この一曲』と題する、10時間ロングランの特集番組へ自宅から生出演した。 番組終盤には自ら「ひばりには有りません。 ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」とコメント。 これが結果的に歌以外では、このラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後のの仕事となった。 ラジオ生放送終了直後、体調が急変したために再入院となった。 52歳で死去 [ ] 再入院から2日後の1989年3月23日「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」など呼吸器系の療養専念のため、横浜アリーナの杮落としコンサートを初めとするその他全国ツアーを全て中止し、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止が息子の和也から発表された(再入院当時「特発性間質性肺炎」の病名は公表されなかった)。 和也は本当の病名をひばり本人には最期まで伏せていたが、ひばりは3月上旬に診察を受けた際に医師から間質性肺炎の説明を受けている。 しかしずっと和也には知らないふりをして過ごしていたという。 なお、闘病生活を書き記したひばりの付き人の記録に「コメカミの血管が破れそうにドキドキする」とあった。 診断で間質性肺炎を発症した原因は「不明」とされ、この病気の治療にはが有効とされているが、既にひばりは肝硬変の症状も出ており副作用の懸念からステロイド剤はほとんど使えなかったという。 その後もはっきり報道されないひばりの容態から「もう歌えない」「復活は絶望的」などと大きく騒ぎ始めるマスコミに対し、入院中の5月27日に再入院時の写真などと共に「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて… その鳥撃つな 村人よ! 」とのメッセージを発表。 さらに「私自身の命ですから、私の中に一つでも悩みを引きずって歩んでいく訳には参りませんので、後悔のないように完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です」等と録音した肉声テープを披露。 だが2年前の入院時と比較するとひばりの声は殆ど張りがなく、弱々しいものであった。 結果的にこれがひばり本人が発した生涯最後のメッセージ及び肉声披露となった。 それから2日後の5月29日にひばりは病室で52歳の誕生日を迎えた。 同じ頃ひばりの実妹・佐藤勢津子は、看病していた時に「突然、お姉ちゃんがポロポロと泣き出してしまって…『勢津子、私はまだ生きられるの?』って。 『何言ってるの、まだ52歳でしょ?これからも頑張って生きなきゃ駄目よ!』って励ましたら、姉ちゃんは『そうだね、和也を独り遺して死ねないよね。 頑張るわ』と、珍しく私の前で弱音を吐いた」と述懐していた。 しかし、誕生日から約2週間後の6月13日にを起こしてに陥り、がつけられた。 ひばりの生涯最後の言葉は、順天堂医院の医師団に対して「よろしくお願いします。 頑張ります」だったという。 また和也が死の数日前に「おふくろ、頑張れよ」「大丈夫だよ」と声を掛けると、ひばりは最期を覚悟したのか両目に涙を一杯溜めていたと、後に和也自身が語っている。 そして1989年午前0時28分、特発性間質性肺炎の症状悪化によるの併発により逝去。 52歳没。 6月25日に通夜、翌日26日に葬儀がひばり邸で行われ、芸能界やスポーツ界、政界からも多数の弔問があった。 なお、ひばりの棺を乗せた霊柩車がひばり邸を出る際には、多くのファンが沿道を埋め尽くし、彼女の死を悼んだ。 7月22日にで行われた葬儀には4万2千人が訪れた。 喪主は和也が務め、葬儀では・森繁久彌・中村メイコ・王貞治・・のが弔辞を読み上げ、・雪村いづみ・・・などひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、ひばりの霊前に捧げた。 は慈唱院美空日和清大姉。 はにある。 菩提寺は港南区の。 美空ひばりの通算レコーディング曲数は1,500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。 死後 [ ] 1988年、塩屋埼を舞台に作詞されたのが縁で、「」の歌碑が建立された。 ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990年に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420m区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。 さらに2002年には幼少期のひばり主演映画「」のひばりをモデルにした銅像も建立になった。 毎年約30万人のファン・観光客がひばりを偲んで訪れる。 1989年8月21日、35枚組・517曲を収録した『美空ひばり大全集 今日の我れに明日は勝つ』がCDとカセットテープで発売され、1989年11月20日現在で6万3000セット(日本コロムビア調べ)が販売された。 定価6万円(税込)と音楽ソフトとしては高額ながらでは最高9位(1989年付アルバムランキング)を記録した。 1989年には、ひばりの音楽ソフトが年間120億円(日本コロムビア調べ、以下同じ)を売り上げた。 1997年時点でも年間で約15億5000万円を売り上げ 、日本コロムビア所属の演歌歌手としては現役歌手を抑えて最も売り上げが多い。 1993年4月、のに「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。 しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に一旦閉館。 その後運営主体を「」に変更し、2008年4月26日に「京都嵐山美空ひばり座」と改名の上リニューアルオープンした。 2013年4月26日、開館5周年イベントが催され、この場でひばりプロ社長・加藤和也から同年5月31日限りで閉館することが発表。 同館は5月31日限りで閉館された。 しかし、「京都嵐山美空ひばり座」の閉館からおよそ半年が経った2013年10月12日には同じく京都市にあるの映画文化館の1階に、「京都太秦美空ひばり座」が改めてオープンした。 館内には舞台衣装、台本などのゆかりの品々が約500点並び、東京ドームでの「不死鳥コンサート」で着用したドレスや、初めて東映映画に出演した1949年の『』以降の全93作品の復元ポスターなどが展示されている。 さらに、2014年5月にはのひばり邸の一部を改装し、『美空ひばり記念館』として改めてオープンさせることが発表され 、同年5月28日に女優の中村メイコ、タレントの、歌手のらを最初の客として迎えて、「東京目黒美空ひばり記念館」のオープニングセレモニーが行われた。 2005年公開の映画『』(監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りやと共演した。 日本を代表する伝説的ボーカリストとして、多くのアーティストやに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、 永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。 5月29日の日本コロムビアの発表によると、レコード・CDなどの物理メディアの総売上(2019年5月1日時点での累計出荷枚数 )は約1億1700万枚に達する。 この数字にはインターネット配信での売上は含まれていない。 内訳はがシングル4850万枚、アルバム2150万枚。 が2650万枚、テープが900万本、が1150万枚。 には、23回忌で「美空ひばり トレジャーズ」(1月19日)や「ひばり 千夜一夜」(8月3日)などを発売した。 『美空ひばり トレジャーズ』は、の創立100周年の記念も兼ね発売されたトレジャーブックである。 この商品には、ひばりのエピソード全69話からなる本や写真133枚(未公開を含む)、サインや手紙のレプリカが48点、未発表曲「」を含む計30曲が収録された2枚組のが収められている。 1万セット限定で1万3800円で発売された。 『ひばり 千夜一夜』は、1,001曲の楽曲を収めたCD56枚&DVD2枚の12万円のセットである。 構成は、のデビュー曲「」から1989年のラストシングル「」・「あきれたね」までの「シングルコレクション」が32枚、580曲。 ジャズや民謡の「カバー・コレクション」が17枚、304曲。 ほかにも「オリジナル曲」が5枚、93曲。 「カラオケDVD」が2枚、24曲で1001曲である。 (ライブ音源CDを除く)ちなみに「」のA面の「楽しいささやき」は含まれていない。 特典もついており、「デザイン 特製赤いコサージュ(不死鳥コンサート時の物のレプリカ)」や「特製写真立て(不死鳥コンサート時の赤い衣装のポートレート付)」、「特製CDキャリングケース(携帯ディスクケース)」、「カラー写真集(全96ページ)」、「別冊歌詞集(2冊)」、「三方背収納BOX」、「おしどり・イン・ザ・ナイト(12曲入りCD)」、「あの歌・この歌〜美空ひばり昭和を歌う〜(21曲入りCD)」がある。 単一歌手が1000曲以上を収録したBOXを発売するのは初めてであり、最大収録数であった。 には、ひばりが芸能生活35周年としてに出演したテレビ番組『ザ・スター』を映像補正の上、編集した作品『ザ・スター美空ひばり』が公開された。 の倉庫で発見された、同番組の未放送部分を含むマスター収録テープをデジタル技術で復活させ、ひばりの代表曲や同番組でのみ披露された未発表曲「ウォーク・アウェイ〜想い出は涙だけ〜」を歌いあげるひばりの姿がスクリーンで上映された。 5月29日、未発売音源の「さくらの唄」をCD化し発売。 1976年7月1日に発売されたシングルとは別バージョンとなっている。 9月29日放送のでは、過去の膨大な映像や音源を元に、最新のAI技術を用いてひばりのライブを再現する試みが行われた。 12月31日放送のでも、上記AIによるライブが行われた。 評価 [ ] 没後の1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなるを受賞(歌手としてはひばりとの2人のみ)し、息子のと付き添いとしてが授賞式に出席した。 その後も和也はひばりプロダクションの社長として、ひばりの楽曲管理や様々な顕彰活動(下記)に関わることになった。 「彼女が凄いのは『縁起が悪い』を歌詞にしてしまう所ですよね。 普通だったら恥ずかしくて歌えないのに、歌唱力をもって照れずに歌うから笑えない。 人に聞くとひばりさんは面倒見がよかったらしいんですよね。 つまり、自分の後継者や崇拝者を作れない人は、それ以上大きくなれないんじゃないかと。 ロックだろうと演歌だろうと外人だろうと全部同じですよ。 そういった意味であの人は偉大だったと思います」 () 「世界一が良い人です。 よりピッチが安定している」 () エピソード [ ]• 無名時代のがひばりの地方巡業公演で前座を務めていた際、牧の漫談が会場を湧かせる場面をひばりとその母()が見てこれを気に入り、ひばり母子は「牧さんはすぐにスターになりますよ。 見ていてご覧なさいな」と関係者に後年のブレークを予見する発言をしていたという。 大阪・北野劇場に「美空ひばりショー」で来演したひばりのお芝居の相手役(東京公演ではが演じた役)を当時同劇場の専属コメディアンで売り出し中のが抜擢されたが、大村が登場する度に馴染みの観客が笑うので母・喜美枝の怒りに触れ大村は下ろされる(その後その役はが務めた)。 大村はその時の悔しさを忘れなかった。 それから年月が経ち、1970年9月に新宿コマ劇場で香山武彦と共演 した際に「弟がお世話になってます」と、ひばりから食事の招待を受ける。 ここぞとばかりに当時のことを母・喜美枝に話すと「崑さん、お嬢も今まで沢山いじめられてきたのよ。 あなたは私だけでしょ。 」と慰められる。 すると、ひばりが大村のためだけに耳元で「柔」を熱唱。 それに感激した大村は全てのことを水に流したと言う。 その時、ひばりから贈られたお守りは肌身離さず大切にしている。 ひばりは各界の大物スターたちとの交友が深かったが、特にとは『義姉弟』(王貞治本人談)というほど、肝胆相照らす仲であった。 ある晩、緊急の用事でタクシーに乗って友人宅へ行き、目的地に着いた時に、財布を忘れてきたことに気付いたひばりは、「私は美空ひばりですが、財布を忘れてきたので、お金を(友人から)借りてきます」とタクシーの運転手に事情を話したが、この時のひばりは化粧をしておらず、普段よりも地味な顔つきだったため、運転手は相手の女性が美空ひばりだとは信じようとしなかった。 しかし、困ったひばりが何とか信じてもらおうとして、持ち歌の「」を歌い出すと、運転手はその歌声が間違いなく美空ひばり本人の声であることを即座に理解した。 ひばりが歌い終わった後、感激した運転手は、「お金を出してもなかなか聴けないひばりさんの生の歌をただで聴かせてもらえたのですから、料金はいただかなくて結構です」と言って、料金を取らずに帰って行ったという。 の「」は、紅組トリおよび大トリのの引退ステージ(後に復帰)となったが、都の歌唱後に総合司会のが都の名前を「ミソラ」と言い間違える失態を演じた(を参照)。 ひばりは上記の通り、1973年以降紅白には出場依頼が来ても受けなくなるなど確執があったがこの時、親友のらと自宅のテレビで紅白を観ており、「あっ! ウブさん、今変なこと言ったよ」と浅丘と思わず顔を見合わせた後、「ウブさんったら、私のことホント好きなんだから」と苦笑いしたという。 この場面をテレビで見ていたひばりの関係者は、「お嬢、大変なことが起きた! 」と叫んだとされる。 その後ひばりは「生方があれでNHKをクビになるんだったら、私が一生食べさせてあげなきゃ」とも話していた。 に馬主として登録したこともあり、「タケシコオー」という牝馬を走らせていた [ ]。 デビュー当初のサトウハチローや服部良一から、飯沢匡に至るまで批判的な言論も連綿と続き、逝去の直後には日本的慣例に関してが批判を発表した。 もっとも、才能を全面的に否定するものは少なく、小林の批判も没後の一億総服喪的な過剰報道に対する反発から書かれたものであり、ここではモダニズムの要素も多分に持っていたひばりの才能が日本的にウェットな演歌のカテゴリーに押し込められていったことへの疑問が呈されている。 1981年7月に実母・喜美枝が亡くなり、火葬場にて最後の別れが終わった後、母の入った棺がかまどの中に入る際、ひばりは大きな叫び声をあげながら本気で一緒にかまどの中に向かおうとした。 参列していたと萬屋錦之介に強く引き止められ、ひばりはずっと号泣していたという。 基本的に芸人との交流はなかったが息子の和也が大ファンであっただけは認めており晩年は弟のように可愛がって2人のことをタカ、ノリと呼び、2人もひばりのことを『御嬢』と呼んで慕っていた。 テレビでの共演は『』にVTRで会話をしたのと、ひばり50歳の時にがお祝いに駆けつけ両頬にのキスを受けている。 ラジオでは『』にひばりが乱入し2時間ジャックした。 放送の内のコーナー、「ちょっと聞いてョ! おもいッきり生電話」の生放送中、ゲストのの背後にひばりらしき顔が映っていたのを多数の視聴者が目撃した。 その後、カメラが再度アグネスの所に向けられると顔はテレビカメラに向かって移動していた。 その後、再度カメラが向けられた時、その顔は消えていた。 放送後、には視聴者からの電話が殺到した。 奇しくもこの日はひばりの一周忌の直後だった。 親友であったと赤坂近辺をハシゴしていた時、二軒目で寄った屋台の味を気に入り、居眠りしていた屋台の主人に「私の家この坂を上った近くにあるんだけど、うちの前まで屋台引っ張って行ってくれない?」とお願いしたが、主人に断られてしまった為、居眠りしていた主人を放ったまま、ひばりが屋台の前を、中村が後ろを押しながらひばり邸の前まで屋台を持って行き、そこで二人で食べた三倍の値段の代金を屋台に置き、屋台を放置したまま、また二人で夜通しハシゴしたという逸話を中村自身が話している。 ちあきなおみの歌唱力をほとんど唯一「私に匹敵する」と高く評価していた。 戦後間もない頃のものとはいえ、楽屋で秋刀魚を焼いて食べていた写真が残っている。 ひばりの作詞 [ ] ひばりが作詞し、生前に曲がついたものは22曲ある。 そのうち18曲は自ら歌い、『』『太陽と私』『』『ロマンチックなキューピット』『真珠の涙』などの作品はシングル発売された。 1966年に『夢見る乙女』を作詞し、可愛がっていたへ提供した。 ペンネームで「加藤和枝」の名前を使用した。 その際ひばりは敢えてシングルB面での発売を要請したという。 また、『十五夜』『片瀬月』『ランプの宿で』の3曲は生涯に渡って実妹のように可愛がっていたに提供された。 『夢ひとり』をが作曲し、ひばりの歌で1985年5月にシングルがリリースされている。 後年イルカ盤も制作され、2002年5月にとしてリリースされた。 生前に書き残し没後リリースされた詩 [ ] 「」をが作曲しが歌った(2002年12月CD化)。 筆名「加藤和枝」。 またこの表題の松浦主演(2003年2月7日 - 2月23日)も演じられた(DVD化)。 さらに派生してこの表題の美空ひばり評伝本()も出版された。 息子・和也 [ ] 「」を参照 1980年代、少年時代の和也がの大ファンだったため、テレビでたけしと共演した際「息子が会いたがっているのよ」と強引に自宅へ連れ帰ったことがある。 その一部始終もテレビで放送された。 も大ファンだったことから、和也の誕生会にとんねるずの二人を呼んだというエピソードがある。 さらに、前述のように『』の生放送中にも急遽出演し、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合えるほどの親交を深めた関係であった。 現在(2018年時点)、ひばりプロダクションの代表取締役社長を和也が務める。 コロッケが、小学生時代の和也に接するひばりのものまねをしたことがあった。 「」で和也が誕生日に当時ファンだった仮面ライダー全員がひばりの力で家に集合し圧巻されたと語った。 主な代表的作品 [ ] 下記に主な代表作を記述する。 詳細はの全映画出演作・ディスコグラフィリストを参照。 ひばり代表曲・シングル売上 [ ] 2000年5月現在 [ ]• () - 145万枚• () - 140万枚• () - 130万枚• () - 50万枚 (シングル売上は再発盤を含む。 2000年5月現在、調べによる) 順位・枚数の出典は、「あのころ番付 ひばり『柔』は190万枚」『』2000年6月24日付、1頁。 2019年現在 [ ]• 川の流れのように(1989年) - 205万枚• 柔(1964年) - 195万枚• 悲しい酒(1966年) - 155万枚• 真赤な太陽(1967年) - 150万枚• リンゴ追分(1952年) - 140万枚• みだれ髪(1987年) - 125万枚• 港町十三番地(1957年) - 120万枚• 東京キッド(1950年) - 120万枚• 悲しき口笛(1949年) - 110万枚• 波止場だよ、お父つぁん(1956年) - 110万枚 2019年3月集計、日本コロムビアの発表による出荷枚数(概数)。 順位・枚数の出典は、、産経ニュース、2019. 18 10:25。 主な出演映画 [ ]• (1949年3月28日、)デビュー作• (ラッキー100万円)(1949年6月7日、・吉本映画)• (1949年7月26日、)• (1949年10月10日、新東宝)• (1949年10月19日、松竹)• (1949年12月13日、)• (1949年12月13日、)• (1950年2月14日、東映)• (1950年4月1日、新東宝)• (1950年4月8日、松竹)• 第三話・第四話(1950年4月9日・5月7日、新東宝)• (1950年4月23日、新東宝)• (1950年5月20日、・東映)• (1950年6月4日、南海映画 ) - のど自慢大会の会場で「」を歌う少女 役• (1950年8月12日、松竹)• (1950年9月9日、松竹) - マリ子 役• (1950年12月2日、松竹) - みどり 役• (1950年12月23日、新映画)• (1951年1月3日、松竹) - 蝶松 役• (1951年3月9日、松竹) - 恵美子 役• (1951年5月19日、松竹) - アヤ子 役• (1951年7月12日、松竹) - 杉作 役• (1951年7月27日、松竹) - 弥生 役• (1951年9月21日、大映) - ひばり/すみれ 役• (1951年10月12日、松竹) - 杉作 役• (1951年11月1日、松竹) - 白濱萬里子 役• (1952年1月1日、松竹) - 岡本みどり 役• (1952年3月27日、松竹) - 杉作 役• (1952年5月29日、松竹) - 舞妓雛菊 役• (1952年7月15日、松竹) - 小野まり子 役• (1952年9月17日、松竹) - /桔梗 役• (1952年10月23日、大映) - 阿部マリ枝 役• (1952年11月20日、松竹) - マルミ 役• (1952年12月29日、松竹) - ひばり姫 役• (1953年4月29日、松竹) - 犬養美鳩 役• (1953年5月27日、松竹) - ゆかり 役• (1953年7月14日、松竹) - おみよ 役• (1953年7月14日、松竹)• (1953年8月19日、松竹) - 田辺瞳 役• (1953年10月27日、松竹) - 玉置大三郎 役• (1953年12月29日、松竹) - 小原マドカ 役• (1954年2月10日、松竹) - 玉木早苗 役• (1954年3月31日、松竹) - 踊子薫 役• (1954年5月3日、東映) - 雪路 役• (1954年6月8日、松竹) - 新庄翠 役• (1954年8月11日、松竹) - ちゃっかりお夏 役• (1954年9月7日、東映) - 役• (1954年9月29日、松竹) - 園田恵子/美空ひばり 役• (1954年11月1日、新東宝) - お夏 役• (1954年12月29日、松竹) - お花 役• (1955年1月9日、東映) - 中村小春 役• (1955年4月10日、松竹) - お光 役• (1955年4月19日、東映) - 宮崎雪枝 役• (1955年5月1日、新東宝) - お春/お菊 役• (1955年7月5日、東映) - お初 役• (1955年8月28日、新東宝) - 美登利 役• (1955年11月1日、) - 阿佐見ルリ 役• (1955年11月22日、東映) - お澄/小夜姫 役• (1955年12月4日、東映) - 玉織姫 役• (1955年12月27日、新芸プロ・新東宝) - 春駒太夫 役• (1955年12月28日、東映) - 美保 役• (1955年12月28日、東宝) - 美空ひばり/野溝トミコ 役• (1956年2月11日、大映) - お鶴 役• (1956年5月11日、東映) - おたね 役• (1956年5月17日、宝塚映画) - まろや/ともね 役• (1956年7月20日、東映) - 娘人形師/桃太郎 役• (1956年8月15日、東宝) - ルミ子 役• (1956年10月9日、東映) - 小浪 役• (1956年11月7日、東映) - お七/妙姫 役• (1956年12月18日、新東宝) - 綾姫 役• (1957年1月3日、大映) - お吉 役• (1957年1月9日、東映) - お雪 役• (1957年1月15日、東映) - 千代乃 役• (1957年3月20日、東映) - お七 役• (1957年5月15日、宝塚映画) - 美空ひばり 役• (1957年5月22日、新芸術プロ) - お才 役• (1957年7月13日、東映) - お菊 役• (1957年7月13日、東宝) - 根室エリ子 役• (1957年7月30日、東映) - はるみ 役• (1957年9月1日、東映) - 百合姫 役• (1957年11月17日、新東宝) - 雪之丞/闇太郎/お園 役• (1958年1月3日、東映) - 小林ひとみ 役• (1958年1月15日、東映) - 小蝶 役• (1958年2月26日、宝塚映画) - 若君狸吉郎 役• (1958年3月18日、東映京都) - 萩乃 役• (1958年4月1日、東映) - 阿部川町のお七 役• (1958年4月30日、東映) - 小村登紀 役• (1958年6月3日、東映) - 江戸家吉三/千代姫 役• (1958年6月29日、東映) - 小田屋のお春(春之輔) 役• (1958年7月6日、東映) - おこん/お菊 役• (1958年8月6日、東映) - 杉原由起子 役• (1958年9月10日、東映) - 美原さゆり 役• (1958年10月1日、東映) - 墨江 役• (1958年11月19日、東映) - 阿部川町お七/妙姫 役• (1958年12月9日、東映) - 西方桂子 役• (1958年12月27日、東映) - お春 役• (1959年1月9日、東映) - 菊太郎 役• (1959年1月15日、東映) - おたか 役• (1959年2月4日、東映) - 小染 役• (1959年3月17日、東映) - 太刀川紀代子 役• (1959年4月8日、東映) - 和姫 役• (1959年4月15日、東映) - 幸 役• (1959年7月7日、東映) - お染/お光 役• (1959年7月12日、東映) 鞆江 役• (1959年7月26日、東映) - 振袖小僧おえん 役• (1959年8月9日、東映) - 八千草 役• (1959年9月6日、東映) - お雪(雪太郎) 役• (1959年9月23日、東映) - 相川恵美子 役• (1959年11月15日、東映) - お七/妙姫 役• (1959年12月6日、東映) - 小春 役• (1960年1月3日、東映) - 弁天小僧菊之助 役• (1960年1月15日、東映) - お君 役• (1960年3月1日、東映) - 小花 役• (1960年3月29日、東映) - /お君 役• (1960年4月26日、東映) - お嬢吉三 役• (1960年7月6日、東映) - お七/妙姫 役• (1960年8月7日、東映) - 松の家小春 役• (1960年9月13日、東映) - おせつ 役• (1960年10月9日、東映) - お光 役• (1960年10月23日、東映) - お春/新太郎 役• (1960年12月11日、東映) - 加寿姫 役• (1961年1月9日、東映) - 小春 役• (1961年1月21日、東映) - お弥重 役• (1961年4月25日、東映) - お俊 役• (1961年5月17日、東映) - お君 役• (1961年5月31日、ニュー東映) - 加納佳子 役• (1961年8月5日、ニュー東映) - 小春 役• (1961年8月13日、東映) - 宋桃蘭 役• (1961年9月13日、東映) - 月姫 役• (1961年10月7日、ニュー東映) - 飯倉佐代美 役• (1961年10月22日、ニュー東映) - 佐渡伸子 役• (1961年11月22日、ニュー東映) - 飯倉佐代美 役• (1961年12月15日、東映) - お美津 役• (1962年1月3日、東映) - お君 役• (1962年2月7日、東映) - 小春/真弓 役• (1962年3月25日、東映) - 役• (1962年5月1日、東映) - 花園ゆめみ 役• (1962年8月12日、東映) - 津山君江 役• (1962年9月9日、東映) - 小牧蘭子 役• (1962年10月6日、東映) - 佐藤君江 役• (1962年10月27日、東映) - 賽の目新太/お君 役• (1962年11月2日、東映) - 小染 役• (1963年1月3日、東映) - お新 役• (1963年1月9日、東映) - 季芳蘭 役• (1963年1月9日、東映) - 貴美姫 役• (1963年1月23日、東映) - 松廼家小春 役• (1963年4月6日、東映) - お絹 役• (1963年6月9日、東映) - 琴川原雪子 役• (1963年9月8日、東映) - 隼のおぎん 役• (1963年9月14日、東映) - 愁月尼 役• (1964年5月16日、東宝) - 美川喜美枝 役• (1965年9月18日、東映) - お島/琴姫 役• (1966年1月26日、東映) - 中村雪之丞/軽業お七 役• (1966年4月13日、東映) - 堀江美禰 役• (1968年11月23日、松竹) - 町衆 役• (1969年7月5日、松竹) - 寺田夏子/寺田春子/笹川お辰 役• (1970年1月15日、松竹) - 藤花霞 役• (1970年7月1日、松竹) - 瀬戸香 役• (1971年11月20日、東宝・)• (1971年11月20日、東宝) - おきみ 役• (1974年6月22日、松竹) など多数。 シングル [ ] 発売日 タイトル 備考 1 1949年8月10日 『』のB面。 113 1957年4月1日 114 1957年5月10日 115 1957年5月15日 116 1957年6月15日 117 1957年6月15日 再発売。 118 1957年7月1日 披露曲。 119 1957年7月20日 120 1957年8月1日 121 1957年8月15日 再発売。 122 1957年9月1日 123 1957年9月15日 124 1957年10月15日 再発売。 125 1957年11月1日 126 1957年12月10日 127 1957年12月10日 再発売。 136 1958年4月25日 137 1958年5月15日 138 1958年6月1日 139 1958年6月15日 再発売。 140 1958年7月10日 141 1958年8月1日 披露曲。 142 1958年8月15日 143 1958年8月15日 再発売。 144 1958年9月1日 145 1958年10月10日 146 1958年11月10日 147 1958年12月10日 再発売。 148 1958年12月10日 149 1958年12月10日 150 1959年1月19日 151 1959年3月15日 152 1959年3月20日 153 1959年4月15日 154 1959年5月15日 155 1959年6月15日 とデュエット 156 1959年7月1日 157 1959年7月15日 とデュエット 158 1959年7月20日 159 1959年8月15日 160 1959年8月25日 とデュエット 161 1959年10月1日 とデュエット 162 1959年11月15日 163 1959年12月1日 164 1959年12月10日 165 1959年12月25日 披露曲。 166 1960年3月10日 167 1960年3月15日 168 1960年3月15日 169 1960年4月15日 170 1960年7月1日 披露曲。 ・歌唱賞受賞曲。 171 1960年9月1日 172 1960年10月15日 173 1960年11月5日 174 1961年2月5日 175 1961年2月20日 176 1961年4月5日 177 1961年5月20日 178 1961年6月20日 179 1961年8月20日 180 1961年10月20日 181 1961年12月10日 披露曲。 A面:、B面:・のカバー 190 1962年10月5日 披露曲。 191 1962年10月20日 192 1962年11月5日 B面:とデュエット 193 1962年11月20日 194 1962年12月10日 195 1963年4月5日 披露曲。 受賞曲。 226 1966年9月20日 再発売。 227 1966年10月10日 228 1966年11月1日 229 1967年1月5日 230 1967年3月1日 231 1967年6月20日 232 1967年9月25日 披露曲。 233 1968年1月5日 234 1968年3月1日 235 1968年3月25日 236 1968年5月5日 237 1968年6月15日 238 1968年8月15日 239 1968年10月1日 披露曲。 240 1969年1月5日 B面:のカバー 241 1969年4月1日 242 1969年7月1日 披露曲。 243 1969年7月15日 244 1969年11月25日 245 1970年1月10日 披露曲。 246 1970年5月25日 247 1970年7月10日 披露曲。 248 1970年9月25日 249 1970年11月10日 250 1971年3月10日 251 1971年4月10日 252 1971年4月10日 253 1971年7月10日 254 1971年10月10日 255 1971年10月10日 256 1972年1月10日 披露曲。 257 1972年5月10日 258 1972年8月10日 259 1972年11月10日 披露曲。 260 1973年3月10日 261 1973年6月10日 262 1973年9月10日 263 1973年11月10日 264 1974年5月1日 265 1974年10月1日 266 1975年2月1日 267 1975年4月1日 ・・・との共唱 268 1975年6月1日 269 1975年9月1日 270 1976年2月10日 271 1976年3月1日 272 1976年4月1日 273 1976年7月1日 274 1976年11月10日 275 1977年5月10日 276 1977年7月10日 277 1977年11月1日 278 1978年2月1日 279 1978年6月1日 280 1978年10月1日 281 1978年11月1日 282 1979年1月1日 283 1979年4月1日 284 1979年9月10日 285 1979年10月1日 286 1980年2月1日 287 1980年8月1日 288 1981年1月1日 289 1981年3月5日 290 1981年10月1日 291 1982年5月29日 292 1983年2月21日 293 1983年5月21日 294 1983年11月1日 295 1984年9月1日 296 1985年5月29日 297 1985年10月21日 298 1986年4月21日 299 1986年5月29日 300 1986年9月1日 301 1987年3月21日 302 1987年12月10日 303 1988年4月21日 再発売。 304 1989年1月11日 金賞・作曲賞受賞曲。 305 1989年3月21日 再発売。 306 1989年3月21日 再発売。 307 1990年6月21日 308 1990年6月21日 309 1990年6月21日 310 1990年6月21日 311 1990年6月21日 312 1991年2月21日 再発売。 313 1991年2月21日 再発売。 314 1991年2月21日 再発売。 315 1991年2月21日 再発売。 A面:、B面:のカバー 316 1991年2月21日 再発売。 両面とものカバー 317 1991年2月21日 再発売。 A面:のカバー 318 1991年2月21日 再発売。 319 1991年2月21日 再発売。 320 1991年2月21日 再発売。 321 1991年2月21日 再発売。 322 1991年7月1日 再発売。 323 1991年7月1日 再発売。 324 1991年7月1日 再発売。 325 1991年7月1日 再発売。 326 1991年7月1日 再発売。 327 1991年7月1日 再発売。 328 1991年7月1日 再発売。 329 1991年7月1日 再発売。 330 1991年7月21日 再発売。 331 1991年7月21日 再発売。 332 1991年7月21日 再発売。 333 1991年7月21日 再発売。 334 1991年7月21日 再発売。 335 1991年7月21日 再発売。 336 1991年7月21日 再発売。 337 1991年7月21日 再発売。 338 1999年2月20日 未発表曲 339 1999年5月29日 未発表曲、A面はとのデュエット。。 両面オリジナル・カラオケ入り。 345 2003年8月20日。 両面オリジナル・カラオケ入り。 346 2003年8月20日。 両面オリジナル・カラオケ入り。 347 2003年8月20日。 両面オリジナル・カラオケ入り。 348 2003年8月20日。 両面オリジナル・カラオケ入り。 349 2003年8月20日。 両面オリジナル・カラオケ入り。 350 2003年8月20日。 両面オリジナル・カラオケ入り。 351 2003年8月20日。 両面オリジナル・カラオケ入り。 352 2003年8月20日。 両面オリジナル・カラオケ入り。 353 2003年8月20日。 両面オリジナル・カラオケ入り。 354 2006年5月29日 再発売。 両面オリジナル・カラオケ入り。 355 2006年11月22日 再発売。 カップリング曲: ・。 356 2007年5月29日 再発売。 両面オリジナル・カラオケ入り。 357 2008年4月23日 再発売。 カップリング曲:。 両面オリジナル・カラオケ入り。 ボーナス・トラック: のカバー。 358 2010年5月29日 再発売。 両面オリジナル・カラオケ入り。 359 2011年5月29日 再発売。 オリジナル・カラオケ入り。 カップリング曲: ・ のカバー。 360 2011年5月29日 再発売。 カップリング曲: ・。 361 2012年5月29日 再発売。 オリジナル・カラオケ入り。 カップリング曲: ・ 両曲とも未発表音源。 362 2013年5月29日 再発売。 のカバー。 カップリング曲: ・ ・。 363 2014年5月29日 再発売。 両面オリジナル・カラオケ入り。 364 2015年5月29日 再発売。 オリジナル・カラオケ入り。 カップリング曲: ・ ・。 365 2016年5月29日 未発表音源収録。 カップリング曲: ・ オリジナル・バージョン。 366 2019年5月29日 1989年盤の再発売。 EPシングル・8cmCD・12cmCD・カセットテープで発売。 367 2019年12月18日 故人のアーティストの歌声を人工知能 AI によって蘇らせ、新曲としてCDをリリースするのは世界初 没後にレコードやCDのアルバム盤に収録された音源を新たに(選曲)したシングルの発売が継続的に行われている。 ドキュメンタリー [ ]• 映画『ひばりのすべて』 - 監督: 芸能生活25周年を記念して制作されたドキュメンタリー。 ステージの模様を中心に、彼女の華やかな舞台裏の日常の姿を赤裸々に描く。 『最期のひばり〜日記が明かす空白の4か月〜』(2003年10月19日放映)- ディレクター:山登義明。 最期の時を克明に記録した未公開日記が紹介された。 NHK紅白歌合戦出場歴 [ ] ひばりは・、および・から・までの16年連続、通算17回出場し(その後・も特別出演)、うち13回トリを務めている。 通算17回の出場という記録は、1972年当時の紅白歌合戦における史上最多記録である。 なお、ひばりには初出場以前の1月・と同年大晦日のにも出場のオファーがかけられていたが、第3回は興行、第4回は年末の公演との兼ね合いから、ひばりサイドが出場を辞退している。 また、出場していない・と・は、ラジオ東京テレビ(現・)の「」に出演するため、出場を辞退している。 上述の通り1973年・第24回では事実上の落選となったが、・以降、ひばりが死去する後半まで、NHKは幾度となくひばりに対して出演オファーを行っていた。 その結果、1979年・第30回では「特別出演」という形で一度限りながら、紅白への復帰が実現している。 記録など• 通算トリ回数は13回で北島三郎・五木ひろしに並び史上最多(紅組歌手に限った場合はひばりが単独最多であり、紅組歌手に限った場合のひばりに次ぐ記録はの8回、の7回)。 連続トリ回数は10年連続で史上最多(ひばりに次ぐ記録はの4年連続。 紅組歌手に限った場合はの3年連続)。 通算大トリ回数は11回で北島三郎と並び歴代最多タイ(紅組歌手に限った場合はひばりが単独最多であり、ひばりに次ぐ記録はの3回)。 ・は紅組司会も担当(その年は大トリも務めており、史上唯一の組司会・大トリ兼任)。 ・は紅白30回を記念して特別ゲストとして出演(正式な出場回数には含まれない。 これが生涯最後の紅白出演となった)。 1979年(第30回)は正式な出場歌手ではないため、出演順は数えられない。 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。 2019年(第70回)はAIひばりとして、特別出場。 歌唱曲は「あれから」。 美空ひばりの楽曲が紅白歌合戦で他の歌手によって歌唱された例 [ ]• ひばりの生前の功績の大きさから、その功績を称えるために死後も他の歌手によってひばりの持ち歌が幾度となく紅白歌合戦で歌唱されている。 また、天童の衣装も「不死鳥コンサート」でのひばりの衣装を模したものであり、ひばり本人の映像や写真も映し出された。 第720回「花が実を結ぶとき」(1970年、TBS) - 嘉子• (1964年 - 1965年、TBS)• 第1回 - 第4回「おこま」• 第5回 - 第7回「神楽師」• 第8回、第9回「仇討ごよみ」• 第10回 - 第13回「お白粉人形」• 第14回 ミュージカルショー「髪」• 第15回 - 第17回「女侠一代」• 第18回、第19回「李朝残影」• 第20回 - 第22回「振袖剣士」• 第23回「寿初春歌姫七姿」• 第24回 - 第26回「弁天小僧」 - 菊• 第27回、第28回「七福神のなぞ」 - 老中阿部伊予守の姫君• 第29回、第30回「兄・私・弟」前編・後編 - 節子• 第31回 - 第33回「唐人お吉」(「花の巻」「蝶の巻」「風の巻」)• 第34回、第35回「今日もまた蝉が鳴く」前編・後編• 第36回 - 第39回「出雲のお国」- お国• 美空ひばり劇場「風流深川唄」 - お小夜(1966年、TBS)• (1966年、)• (1968年、NET)• 第48話「嵐に立つ花」• 第49話• (1968年、NHK総合)• (1969年、関西テレビ) - お軽• (フジテレビ)• 第158話「獅子の舞」(1969年)• 第231話「矢場へ来た用心棒」(1970年)• スペシャル(第888話・最終回)「ああ十手ひとすじ!! 八百八十八番大手柄 さらば我らの平次よ永遠に」(1984年)• 第285回「ひばりの愛の逃亡姉妹」(1970年、TBS)• (1970年、関西テレビ) - お初• 第5話「お転婆娘の御殿奉公」(出羽国本庄藩六郷家前編)• 第6話「お初の仇討ち」(出羽国本庄藩六郷家後編)• 「満開の時」(1971年、) - 美人芸者• 「初春はひばりとともに」(1972年、)• (1973年、NET)- 女やくざ• 第213話「火花散る隠密七変化」(1975年) - 葉隠れおゆき• 第438話「女三味線わかれ唄」(1980年) - 文字豊• Iシリーズ(、東映) - 紀州屋お奈津• 第12話「紀州から来た凄い女」(1978年)• 第13話「嵐を呼んだ江戸土産」(1978年)• 第27話「柳生一族を斬る女」(1978年)• 第38話「黒潮の渦を斬る女」(1978年)• 第1部、第2部(1979年、NHK)• 「女コロンボ危機一髪! 」(1985年、TBS) - 水木一枝• NHK放送開始60周年記念 あの歌この人60年(1985年、NHK)• 昭和の歌 歌は電波にのって(昭和20年〜30年)(1986年、NHK)• '86 1100回記念 第2回(1986年、フジテレビ) - 「港町十三番地」・「越後獅子の唄」・「哀愁波止場」・「リンゴ追分」・「しのぶ」。 大ホールで収録。 「熱血女先生! まるでセンチな乙女のように」(1986年、フジテレビ)• 美空ひばり 新たなる旅立ち! (1987年、日本テレビ) - 両側大腿骨頭壊死・慢性肝炎を克服、退院後初のテレビ出演。 「愛燦燦」• ゲスト・ひばりスペシャルと題して二週放送(1987年、NTV)• (1988年、TBS) - 照月尼• 昭和の歌 第2回「東京キッド」から「涙の連絡船」まで(1989年、NHK) - 「リンゴ追分」・「悲しき口笛」• (1989年、NHK)• '89(1989年、フジテレビ) - 「」・「」・「」・「いつか」・「」(生前最後のテレビ出演)• ひばりの時代 第1回 廃墟のなかの悲しき口笛(日本人は戦後こう生きた)• ひばりの時代 第2回 成長のなかの哀愁波止場(日本人は戦後こう生きた)• ひばりの時代 第3回 繁栄のなかの悲しい酒(日本人は戦後こう生きた)• 特別企画 さようなら あゝ…美空ひばりさん(1989年、テレビ東京)• 美空ひばり 永遠の歌声(1989年、NHK)• 第1回 思い出のなかのひばり• 第2回 銀幕のなかのひばり• 第3回 喝采のなかのひばり ひばりを描いたドラマ・舞台 [ ]• 「美空ひばり物語」(、ドラマ) - 「イカロスの翼」のドラマ化。 ひばりが生前にドラマ化を唯一許可した作品。 がひばりを演じた。 江利を松居直美が演じ「ジャンケン娘」のラストを再現した。 舞台「不死鳥ふたたび・美空ひばり物語」() - がひばりを演じた。 「美空ひばり誕生物語-おでことおでこがぶつかって」(、ドラマ) - プロデュース・脚本のオリジナル作品で、ひばり()と母・喜美枝()との親子愛がテーマとなっている。 受賞 [ ] 1960年、・歌唱賞を受賞。 1962年、ブルーリボン大衆賞を受賞。 1965年、・大賞を受賞。 1969年10月8日、日本赤十字社金色有効賞を受賞。 1969年12月17日、を受章。 1971年、第2回・放送音楽特別賞を受賞。 1973年、・15周年記念特別賞を受賞。 1976年、・特別賞を受賞。 1977年、森田たまパイオニア賞を受賞。 1989年、を受賞。 1989年、・特別栄誉歌手賞を受賞。 1989年、第20回・特別栄誉賞を受賞。 1989年、第22回・特別賞を受賞。 1989年、第18回・特別賞を受賞。 その他 [ ] 1967年10月に創業350周年を記念して、美空ひばり唯一のご当地音頭「チロリン節」が制作発表された。 1970年ののラジオCM「タイムカプセル『松下館 美空ひばり? 』」は、第10回ラジオCM部門グランプリを受賞した。 2006年9月にから「CRぱちんこ華王美空ひばり」を発売。 はの斉藤甲子郎写真館が専属で制作した。 2009年12月には同じく京楽から続編として「CRぱちんこ爽快美空ひばり不死鳥伝説」を発売。 ひばりの小キャラクターが増え、さらに・・・・からの映像・写真が多く使われている。 2011年1月19日に、日本コロムビアより数々の復刻品を封入した美空ひばりトレジャーズが発売。 コロムビア通販サイトなどから入手できる。 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 磯子区杉田四丁目のに面した劇場で、の関連工場を改装したもの。 建物の裏は海だった。 なお2005年3月開館の区営ホール、とは別物であるが、ひばりデビュー公演のチラシなど旧劇場の関連資料を保存・展示している()。 戦後間もない当時は、警察の力が弱く、地回りへの挨拶は必要不可欠であった• ひばり母子はこの記事を長く保存しハチローに敵愾心を持っていたと言われるが、後にハチローと和解している。 ただし、ひばりには既に・の時点で、出演のオファーがかけられていたが、第3回は興行、その次の1953年・は年末の公演との兼ね合いから、ひばりサイドから出演を見送られた経緯があり、NHKにとっては3度目の「ラブコール」が実った形となった。 当時、那覇を含む沖縄は日本本土から分離され、を通じたが行われていた。 元々はひばりのために書かれた曲ではなく、1960年にが歌った曲であった。 哲也は、1957年、の芸名でひばりの全盛期には歌手デビューし、多くの映画に出演、主演を務めたこともあったがに引退。 元々ひばりの弟という売り込みでひばり関連の興行などで役者や間つなぎの歌手もこなしていたが、三代目山口組(組長は)の舎弟頭となっていた。 翌には賭博幇助容疑、等、1964年には拳銃不法所持、1966年には傷害、暴行、拳銃密輸、1972年には暴行で逮捕と刑事事件が続いていた。 事実上は落選。 この頃NHKには「ひばりを出すな」という苦情も多く来ており、また数年ヒット曲に乏しかったこともあって理事会ではほぼ満場一致で決まったという• ただし、1979年の第30回にはと特別出演、『』、『』、『』の3曲をメドレー形式で歌った• 美空ひばりは当時12歳頃。 主人公の男女がのど自慢大会を見物をしていたシーンでおよそ40秒出演していて、「涙の紅バラ」を歌っていた。 映画会社が作品完成後倒産してしまい、行方不明であったが、神戸市にある神戸映画資料館が約40年前にフィルムを購入しており、の助成により内容を精査していたところ、2016年1月に出演が確認された。 ・にとがいずれも18回目の出場を果たし、更新。 ひばりのマドロスさん 2回目 ・・のメドレー 出典 [ ] []• 現代ビジネス 2011年8月17日. 2019年12月19日閲覧。 新藤謙『美空ひばりとニッポン人』、1998年、16-17頁• 美空ひばり公式完全データブック 角川書店 2011. 6 p. 想田正『美空ひばりという生き方』、2009年、144頁。 『銀幕おもいで話』、2013年、49-52頁。。 『高倉健 Ken Takakura 1956-2014』〈文春ムック〉、2015年、168-169頁。。 MANTANWEB. 2014年12月24日. の2015年10月4日時点におけるアーカイブ。 2015年10月4日閲覧。 美空ひばり 思い出のあの曲を• 2020年1月25日閲覧。 日本コロムビア公式サイト. 2020年1月25日閲覧。 日本語 , 2020年1月25日閲覧。 (2010年1月27日時点の) - コロムビアミュージックショップウェブサイト• (2011年9月24日時点の) - NHKアーカイブス• 『』1989年12月9日付東京夕刊、1頁。 、ORICON NEWS、2006年7月27日 7:00。 、ORICON NEWS、2017年9月5日 4:00。 SANSPO. COM(). 2013年10月13日. の2013年10月16日時点におけるアーカイブ。 2013年10月13日閲覧。 SANSPO. COM(). 2013年4月27日. の2013年4月30日時点におけるアーカイブ。 2013年5月30日閲覧。 、産経ニュース、2019年5月29日 18:15。 MANTANWEB. 2016年5月21日. 2016年5月23日閲覧。 『俺のどうにか人生 美空ひばり秘話』嘉山登一郎 近代映画社 1990年• (2007年10月25日時点の)• [ ] KDB Home• 『』 第4回(BSフジ 2013年11月9日)放送分 加藤和也コメントより• ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 、1991年、1095頁。。 産経フォト 2016年6月14日• 番組ID:• 『紅白歌合戦の舞台裏』、185頁。 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 番組ID:• 参考文献 [ ]• 『山口組三代目 1 野望篇』、1982年、• 『完本 美空ひばり』筑摩書房発行(文庫版)• ・「美空ひばり」『思想放談』所収、、2009年、 - 西部と佐高が、好きな美空ひばりの曲について語っている。 『撃滅 山口組vs一和会』、2000年、• 斎藤完『映画で知る美空ひばりとその時代 銀幕の女王が伝える昭和の音楽文化』、スタイルノート、2013年、 C1074• 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (初代) - 戦前期の女優。 1937年に団員、1940年に女優となる。 大都の3本の映画(『大陸は微笑む』『時代の狼火』『大閤への使者』)に主演した後、1943年に引退。 戦後の歌手・女優の美空ひばりと識別するため「初代」と呼ばれることが多いが、正式な呼称ではない。 なお、「初代」美空ひばりのの先輩に類似した芸名のがいるが別人。 戦後の美空ひばりが、同じ芸名の使用について、戦前の元女優に了解を求めたりはしていないようである。 外部リンク [ ]• 美空ひばりの全映画出演作・ディスコグラフティーリストはこちらを参照。 美空ひばり邸の一部を改装し公開• - びっくり5人男 - - - - - - 左近捕物帖 鮮血の手型 - 鞍馬天狗 角兵衛獅子 - 鞍馬天狗 鞍馬の火祭 - 陽気な渡り鳥 - 鞍馬天狗 天狗廻状 - リンゴ園の少女 - ひばり姫初夢道中 - お嬢さん社長 - - 若き日は悲し - - - - - 銭形平次捕物控 まだら蛇 - - - ひばり捕物帖 かんざし小判 - 花笠若衆 - 女ざむらい只今参上 - - - - - べらんめえ芸者 - ひばり十八番 弁天小僧 - ひばりの森の石松 - 天竜母恋い笠 - ひばり・チエミのおしどり千両傘 - - 新蛇姫様 お島千太郎 - - 美空ひばり・の花と涙と炎 - ひばりのすべて - 女の花道 詳細はを参照。 テレビ番組.

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美空 ひばり 反戦 歌

1974年に「一本の鉛筆」という歌が誕生したのは、1945年8月6日に原子爆弾によって焦土となった広島で、復興と平和をテーマにして始まった音楽祭がきっかけだった。 美空ひばりには幼少時に父が徴兵された後、四人の幼子を抱えた母と一緒に戦火の中をかろうじて生き延びてきたという、横浜大空襲の体験が生々しく記憶されていた。 かろうじて避難した手作りの防空壕では、生き地獄のような恐怖を味わった。 戦後になってから、夏の日ざかりに焼けたアスファルトの道をゴム長靴をはいて、魚屋の仕入れでリヤカーを引く母の姿を美空ひばりは鮮明に覚えていた。 一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く この真っ直ぐなメッセージ・ソングを作詞したのは、映画の脚本家だった松山善三である。 彼は「広島平和音楽祭」の総合演出も引き受けていた。 そして黒澤明監督の映画音楽世界にまでで知られる音楽家、佐藤勝が作曲とアレンジを引き受けて、反戦と平和を訴える新しい歌が完成する。 一本の鉛筆と一枚の紙があれば、たった一人でも反戦の意志を訴えることができる……。 美空ひばりが8月9日に開かれた第一回広島平和音楽祭の会場で、この歌を人初めて前で歌うためにスタンバイしていたときのことだった。 その日も朝から、暑い1日になった。 会場の広島体育館には冷房設備が備わっていなかった。 したがって出番を待つための場所として指定された体育館の用具置き場のようなスペースには、一本の氷柱が置いてあるだけだった。 そこで早くからスタンバイして出番を待っていた美空ひばりに、暑さを気遣った広島テレビのディレクターが思わず声をかけた。 「ここは暑いですから、冷房のある別棟の楽屋でお待ちください」 美空ひばりそのとき、誰に言うでもなくこうつぶやいたという。 「あの時、広島の人たちは、もっと熱かったのでしょうね」 10月1日に「一本の鉛筆」はシングル盤として発売されたが、B 面の「八月五日の夜だった」ともども、広島市へ投下された原子爆弾によって起こされた未曾有の悲劇について、怒りを込めて描いた作品だった。 それから14年後の1988年、美空ひばりは再び広島平和音楽祭に出演している。 すでに大腿骨頭壊死(えし)と肝臓病で、前の年から入退院を繰り返していた美空ひばりは、もう再起は絶望的だととも伝えられていた。 そうした状況にもかかわらず、その年の4月11日に開かれた東京ドームでの「不死鳥コンサート」を見事に成功させて、完全復活をアピールしたばかりであった。 しかし、東京ドーム公演後を境にして美空ひばりの体調はひどく悪化して、一人では歩くことさえ困難な状態になってしまった。 その日も会場となった広島サンプラザの楽屋にはベッドが運び込まれて、美空ひばりは本番が始まるまで点滴を打ったまま、ずっと横になっていた。 ところがひとたび舞台に上がって観客の前に立った瞬間に、美空ひばりは笑顔を絶やさず「一本の鉛筆」を、最後まできれいに歌い切ったのである。 そしてステージを降りた直後に、「来てよかった」と微笑んだという。

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一本の鉛筆 美空ひばり 反戦 原爆 広島・長崎 プロテストソング・トピカルソングの傑作集

美空 ひばり 反戦 歌

一本の鉛筆の歌碑 最近再開発された広島駅新幹線口の広島テレビの入るビルの1階 そこに、美空ひばりの 「一本の鉛筆」のモニュメントがある。 「一本の鉛筆 作詞松山善三 作曲佐藤勝」 「あなたに聞いてもらいたい・・・」 で、始まる 「一本の鉛筆」 美空ひばりが歌った数多くの曲の中では、あまり目立たない曲だが、美空ひばり自身この曲をとても気に入っており、自身の持ち歌ベスト10の中の1曲として大切に歌っていたという。 広島平和音楽祭と「一本の鉛筆」 「一本の鉛筆」は1974年第1回広島平和音楽祭で発表された。 広島平和音楽祭は、古賀政男が実行委員長となり1974年に第1回がはじまり、第20回まで続いた。 古賀政男の要望もあってか第1回に美空ひばりが登場。 美空ひばりはトリをつとめ、一曲目の「ひとすじの道」を歌い終えた後 「一本の鉛筆」を歌う直前、ふと、こう語り出した。 昭和12年5月29日生まれ。 本名、加藤和枝。 私は横浜で生まれました。 戦時中、幼かった私にもあの戦争の恐ろしさは忘れることができません。 みなさまの中には尊い肉親を失い、そして愛する人を失い、その悲しさを乗り越えて、今日まで強く生きて来られた方がたくさんいらっしゃることでしょう。 今日の私の歌が、みなさまの心の少しでもなぐさめになりましたら幸せだと思います。 これから二度と、あのような恐ろしい戦争が起こらないようみなさまとご一緒に祈ろうと思います。 茨の道が続こうと、平和のために我歌う。 この広島平和音楽祭を記念して、新しい歌が生まれました。 ご紹介いたします。 これは、私にとりましてこれから永久に残る大切な歌でございます。 美空ひばりと戦争 発表当時の動画を、一部見ることができる。 発表当時、美空ひばりの周辺では問題が多々あり、美空ひばり自身大変な時期だった。 「茨の道が続こうと」という一言は、それらのことを言っていると言う人もいるけど、それだけではないように思う。 なぜ冒頭で急に、美空ひばりは自分の生年月日と本名を名乗ったのか。 1945年5月29日、美空ひばり本名「加藤和枝」は8歳の誕生日を迎える。 ちょうどこの日、 横浜大空襲があった。 のちに 「三人娘」と言われる 江利チエミ、 雪村いずみ、 美空ひばりが、それぞれ 「いま何がほしいか」というインタビューに別々に答えいてる。 江利チエミは「相手が何を考えているか見抜ける力が欲しい」と答え、 雪村いずみは「天女の羽衣のようなものがほしい」と答えていたが、 美空ひばりは 「この世界から戦争がなくなってほしい」と答えていたという。 美空ひばり自身、戦争に対する思いは終世思い続けていたようで、あまり公にはしていなかったが、世界中の戦火にあった人々へ色々と援助もしていたらしい。 1974年8月9日に開催された、第一回広島平和音楽祭会場の体育館では、現在のように控え室には冷房がなく、ただ氷柱だけが用意されているだけだった。 控え室が大変暑いことを周囲の人々が気にかけ、もっと涼しいところへと促すと ひばりは 「広島の人たちは、もっと暑かったのよね」とつぶやき、その場を動かなかったという。 それから14年後の1988年の第15回広島平和音楽祭にも、美空ひばりは再び出場する。 この時、ひばりの体は病魔に冒され、控え室にはベットが用意され、出番がくるまで点滴を打って待つほどだった。 そして出番が来ると、病気を感じさせない立ち振る舞いで「一本の鉛筆」を熱唱。 歌い終わったあと「来てよかった」と言って会場を去ったという。 翌年、ひばりは52歳でこの世を去った。 「一本の鉛筆」は広島の原爆を歌った歌だが、歌詞の中に一度も 「広島」や 「原爆」というような単語は出てこない。 広島の原爆の歌だとわかるのは 「一本の鉛筆があれば八月六日の朝と書く」というフレーズだけ。 自身の体験や心情は積極的には語らなかったが、平和への願いは常に持ち続けていた美空ひばりらしい歌だと思う。 他にも、美空ひばりは 「八月五日の夜だった」「白い勲章」という反戦歌も歌っていますよ。

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