ボリビア 地図。 HIS 絶景「ウユニ塩湖 ボリビア」

実は見どころ満載!ボリビア「ラパス」おすすめの観光スポット7選

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たばこと塩の博物館『魅惑のボリビア』より抜粋 南アメリカ大陸のほぼ中央部に位置するボリビア共和国は、その国土に4,000m以上の山々が連なるアンデス高地をはじめ、熱帯雨林やサバンナが広がる 低地を含むなど、実に多彩な自然環境に恵まれています。 また、アンデス高地では先スペイン期より高度な文明が栄え、さらにスペインによる植民地時代には、 ポトシ銀山より掘り出された膨大な量の銀が当時のヨーロッパ経済に大きな影響を与えました。 そして現在でも、色彩豊かな民族衣装やフォルクローレ音楽、古 くより続く民間信仰など、特色ある民族文化が多くの人々の関心を引きつけています。 国名 ボリビア多民族国 首都 スクレ ただしスクレは、憲法上の首都で最高裁判所が存在するが、1900年に国会をはじめとする主要な政治・行政機関がラ・パスに移されてからは、ラ・パスが実質的な首都としての機能を果たしている。 面積 109万8,581平方km (日本の約3倍) 地理的位置 ペルー、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルの5ヶ国に取り囲まれ、国土内には海への出入り口を持たない内陸国である。 人口 1002万人 (2007年国家統計局) 中南米諸国の中でも先住民人口の比率が高く、アイマラ、ケチュアなどの先住民が全人口の55%を占める。 その他、混血の人が32%、白人系(特にスペイン系)の人々が13%である。 なおこのような区分は、身体的特徴などより、むしろ、彼らが使用している言語や文化的・社会的な要素によって分けられている。 主要言語 スペイン語、ケチュア語、アイマラ語。 またオリエンテ(東部の平原地帯)ではグアラニなどの言語が話されている。 宗教 現在は信教の自由が認められているが、大多数の住民はスペイン人がもたらしたキリスト教(特にカトリック)を信仰している。 政体 立憲共和制 国家元首である大統領は国民の直接選挙により選出され、任期は4年。 また大統領は、行政府の首班であるとともに国軍の統帥権も持つ。 1回限りの再選は認められているが、連続しての再選は認められていない。 おもな産業 独立以降のボリビア経済を支えてきたのは錫を中心とする鉱業で、錫の他、銀、金、鉛、亜鉛、銅、鉄、タングステン、アンチモン等の鉱産物にも恵まれ、近年では石油・天然ガスの開発も行われている。 ただし、就業人口の比率からみると鉱業に携わっている人々は全人口の数%に過ぎず、約半分の人は農牧業に従事している。 また、近年、自動車や電気製品向けの2次電池用素材として注目を集めているリチュームについて世界一の埋蔵量を保有しており、素材から電池製品までの一貫生産を目指して日米欧中韓ブラジルなどとの交渉を活発化している。 外交 モラレス大統領は2010年7月20日のデジタルTV覚書署名式の際に、内藤総務副大臣に対し12月のメキシコでのCOP16において、京都議定書を支持し気候変動に対して協働することを提案し、日本と環境問題に対し一致した考えを持っていると述べた。 又、隣国チリと海への出口問題を含む13項目のアジェンダを外務次官レベルで協議中で自由貿易のためのフリーゾーンをアリカ、イキケ、アントファガスタの三港に設定すること、両国の貿易収支均衡を目指して両国の企業が参加した会合を開催すること、アリカーラパズ間の鉄道が2012年開通予定であることなどが話し合われた。 国連総会でボリビアが提出した「水と衛生の人権」決議案が採択された。 (日本は米英などと共に棄権).

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HIS 絶景「ウユニ塩湖 ボリビア」

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ウユニ塩湖とは? 「奇跡の絶景」「天空の鏡」と言われているウユニ塩湖は、南米ボリビアの標高約3,700M地点にたたずむ、世界最大級の塩湖。 大きさは青森県より大きく、岐阜県より少し小さいくらいで、世界で最も高低差が少ない場所と言われています。 雨が湖面に溜まると湖面にうっすらと水が張り、鏡のように辺りの風景を映し出し、朝日や夕日、星空と時間とともに表情を変えるウユニ塩湖・・・それはまさに「奇跡の絶景」。 クラブツーリズムのウユニ塩湖ツアーでは、必ず塩のホテルに宿泊します! ウユニ塩湖を訪れたら是非宿泊したいのが塩のホテル。 その名のとおり、室内のほとんどのものが「塩」で作られているホテルです。 イス、テーブル、壁などが塩で作られておりますが、各お部屋にはシャワー・トイレも完備され、夜も暖かい暖房と快適な毛布をご使用いただけるので、夜はゆっくりとお休みいただけます。 部屋の内部 イメージ• 部屋の内部 イメージ• 部屋の内部 イメージ• 塩のホテル外観 イメージ ウユニ観光地情報• 魚の島 イメージ• インカワシ 塩湖に浮かぶ小さな岩山。 遠くから眺めるとその形が魚に見えることから「魚の島」といわれる。 島に上陸すると塩湖を見下ろすことができます。 塩の堆積場 イメージ• 塩の堆積場 塩湖から取り出した塩を一時的に集積しておく場所。 湖の塩を削り取り、1メートルの高さの小山を作り数日間乾燥させている。 コルチャニ村 イメージ• コルチャニ村 ウユニの町の北に位置する小さな町。 おみやげ屋が多く並び、塩で作られた小物などを買うことができます。 列車の墓 イメージ• 列車の墓 ウユニの町の南西にあり、破棄された鉱山鉄道の車体がいくつか集められている。 実際にこの列車はウユニからチリまで塩や鉱山を運んでいました。 ボリビア観光地情報• 首都ラパス• ラパス市(イメージ)• 展望台から見たラパス市(イメージ) すり鉢上の地形に築かれたラパスは、郊外のエルアルト市を併せるとボリビアの最大人口を誇り、最高裁判所(スクレ)を除いた主要政府機関が集められた事実上の首都です。 中心部はすり鉢の底に位置しているため、最高地点からは標高差が約700mもあり、展望台からの眺めは世界でも類を見ない独特の風景となっています。 中心のムリリョ広場やお土産店の立ち並ぶサガルナガ通りなど、活気溢れるスポットの多い楽しい街です。 クラブツーリズムではロープウェー乗車体験もお楽しみいただけるコースもございます!• ティワナク遺跡 世界遺産• 太陽の門(イメージ)• モノリート(イメージ) ペルーとの国境に位置するチチカカ湖にほど近いこの遺跡は、紀元前200年〜紀元後1200年にかけてこの地に広まったティワナク文化によって残されたとされています。 未だに謎の多い文化として現在も発掘作業が続けられており、一説によればこの地は宗教都市として多くの神々を崇拝するための場所であったそうですが、一方近年の調査では居住地址も多く発見されており、今後の修復が待たれます。 巨石で作られた見事なモノリート(立像)や太陽の門、また半地下神殿など、見所たくさんの遺跡です。

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ボリビア10大都市地図

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概要 [ ] の高地とその東の亜熱帯、熱帯地方の低地から成るボリビアは、を中心に先史文明が栄えた。 15世紀に入るとの領土となり、スペインの侵攻後はと呼ばれを中心とした鉱業が発展した。 1825年に独立を果たしたが政局が安定せず、チリとの間で1879年に始まるにて太平洋岸の領土を失った。 ブラジルとの国境紛争にも敗れ、領土の一部を失うこととなった。 に続き、1932年に始まるの敗北により国土は疲弊し、政権を巡るクーデターが続いた。 1952年、によりが実施されるが、生産活動の停滞やインフレが進行し、失敗に終わる。 軍事政権、保守政権、文民政権の入り乱れるクーデターが繰り返されつつ、複雑で多様な変化を続けながら今日に至っている。 先史時代 [ ] ボリビアの考古学的研究はほとんどなされておらず、紀元前1500年ごろにチチカカ湖南東岸に出現した 以前の詳しい歴史についてはわかっていない。 しかし周辺国の考古学調査や一部遺跡から出土した尖頭器などから、の末には既に人類がなんらかの形でチチカカ湖周辺に定着していたであろうと考えられている。 太陽の門 紀元前200年に入るとチチカカ湖東岸のを中心とした が出現する。 この文化は1150年ごろまで続いたと見られ、特にIII期と呼ばれる300年から500年にかけては大型祭祀建造物が出現するなど大きな発展を見せた。 ティワナクの地は高度4000メートルという高地にあったことから温暖な東部のや鉱物資源の豊富な南部の方面へと拡大を見せ、周辺地域に大きな影響を与えた。 こうした影響はやに見られるトゥヌパや鳥人といった文様がなどへ波及していることからもうかがえる。 ただし、こうした進出が直接的支配のもとに行われたものなのか、交易等を含めた間接的な接触であったのかについては結論が出ていない。 15世紀後半にはいるとがおこしたによる征服がはじまり、ボリビアの地はの一部に組み込まれた。 帝国の一領土となったことから現在の公用語のひとつとなっているが普及し、高度な都市文明が栄えた。 この時期の遺跡からは極めて高度な技術水準の建造物や遺物が発見されている。 植民地時代 [ ] 詳細は「」を参照 スペインによるボリビア地域の征服は、にである、らによりインカ帝国が滅ぼされたところにはじまる。 スペインはの制度の下に征服した地域をし、ボリビア地域はの管轄下に置かれ、 と呼称された。 、原住民によってボリビア南部でが発見された。 この知らせは瞬く間にペルー全土を駆け巡り、ポトシ山麓のの原住民集落近辺に鉱山業者たちの雑居が誕生した。 この銀山の発見以降、ポトシはアルト・ペルーの支配のみならず、新大陸の経済と権力の中心地として機能するようになった。 1570年代までには銀の道と呼ばれるからを経てポトシへ至る道路が整備され、多くの人と物がポトシへ集中するようになり、特に16世紀末から17世紀前半にかけては12万人から16万人が居住するで最大の都市へと発展した。 同時に、標高4000メートルを越える同地での鉱山労働は過酷を極め、事故や病気などにより、労働に従事した多数の先住民が犠牲となった。 ポトシでの鉱業を行うための労働力は副王トレドによって制度化された(原住民労働力割当制度)により徴発された。 に立つの銅像 これらの騒動の鎮圧にはのであったが軍事指揮官として対応にあたったが、併発する反乱に兵士や武器の援助が間に合わず、各地で深刻な被害をもたらした。 同年3月にはを標的とした の反乱が勃発した。 反乱軍の人数はアイマラ系の原住民を中心とした数万人規模という前代未聞のものとなり、騒動の鎮圧には実に184日間が費やされた。 1808年、フランスのがを占領すると、スペインの海外領土間連携は脆弱化し、独立運動の気運が高まることとなる。 にはラパス、でクリオーリョ(現地スペイン人)による独立運動が起こった。 このとき捕らえられ処刑されたは後に「ボリビア独立の先駆者」と呼ばれ、現在も親しまれている。 、によって()が独立を果たした。 サン・マルティンの率いるアンデス部隊はその後も活動を続け、にはが独立、を攻略したにはが独立を果たした。 一方でをスペイン支配からの解放へ導いたも南下をはじめ、にはボリーバルの副官であったによっての独立が達成され、アルト・ペルーの地域がスペインにとっての最後の牙城となった。 11月、スクレは ()でスペインに壊滅的な打撃を与え、アルト・ペルーの趨勢は決定的なものとなった。 翌、で国民会議が開かれ、同、アルト・ペルーの独立が宣言され、に新国家 ボリーバル共和国が誕生した。 ボリーバルは当初、スペインから独立を果たした諸共和国をまとめあげ、連合を形成することを想定し、に (、)を開催したが、この目論見は失敗に終わり、より現実的なペルー、ボリビア、をひとつの連邦とするを目指すようになったが 、らの反発があり、実現することはなかった。 ペルー・ボリビア連合国 [ ] (在位:1829年 - 1839年) 、ボリビア議会はスクレを大統領に選出し、 ボリビア共和国が発足した。 翌2月、ボリーバルはにての草案作成に着手し、5月にボリビア議会に提出、にはボリビア憲法が公布された。 この当時の人口はおよそ110万人で、80万人という大半の人々がやを話す原住民、20万人がを話す白人、残り10万人がや、黒人奴隷などであった。 斜陽化した鉱業に取って代わるものとしてやといった農産物の生産が活性化したが、大農園やの発展により原住民の地位はかえって不安定となり半農奴的な労働者や流民などに転落していった。 こうした状況を立て直すためスクレは労働徴発の廃止や教育の世俗化といったリベラルな政策を打ち出したが、保守的なクリオーリョたちの反発に会い、1827年に国外へ追放された。 、 が大統領に就任すると、独立後の疲弊した国土と経済の安定化を目指した社会的改革に着手しはじめた。 国内の綿衣産業活性化を目指して外国からの綿製品輸入の一時停止、貿易港の制限、関税の値上げといった国内産業の保護政策を打ち出す一方で政府機能、教育機関、医療施設の充実化を図り、今日のボリビアの基礎を築いていった。 また、諸外国との貿易を有利に進めるため、あるいはやに対抗するためにはペルーとの連携が不可欠としての構想を打ち出した。 1月、サンタ・クルスはペルーの親サンタ・クルス派を救済するという名目でペルーへ介入、ペルーの ()を破り、翌10月には南北ペルーとボリビアの三国からなる ペルー・ボリビア連合国を樹立した。 これに対し、南米太平洋岸の経済・軍事バランスが著しく変化することを恐れたのは同年12月にペルー・ボリビア連合に対してを行い、や反サンタ・クルス派と共同歩調を取りつつ侵攻し、ペルー・ボリビア連合国軍に壊滅的な打撃を与えた。 サンタ・クルスはヨーロッパへと亡命し、指導者を失ったペルー・ボリビア連合はわずか3年後のに瓦解した。 その後、再度ボリビアとの併合を目指したペルーの ()やサンタ・クルス派などの侵攻があり、国内情勢は混乱したが、(在任: - )、(在任: - )、 ()(在任: - )といった政情収拾を重視した政権の尽力により、次第に安定を見せ始めた。 太平洋戦争 [ ] 近辺の地図(1879年) 、ボリビアとチリは両国の境界線を南緯24度とし、南緯23度から25度間に広がる一帯は共同開発地域として収益を等分する条約を締結したが、条約は人口比率で圧倒していたチリに有利に働いた。 このため、資源分配に関する条項の撤廃を目指してに再度条約を目指したが、締結された条約は23度から24度で活動するチリ会社への輸出税率の凍結を主眼に置いたもので、ボリビアの意向に沿ったものとはならなかった。 このため、当時の大統領であったはに74年条約を一方的に破棄し、で活動するチリ系硝石会社に対し輸出税率の引き上げを通告した。 会社責任者はボリビア側の要求を拒否し、不当な要求としてチリ側へ訴えた。 、はアントファガスタへ軍艦2隻を送り、同地を占領、そのまま北上し、、、といった太平洋岸一帯のボリビア鉱山の要所を攻略した。 チリ軍侵攻の知らせを受けたダサ大統領はにペルーと締結した ()をもとにペルーへ援軍を要請すると、、チリ軍は当該条約の破棄を迫ってペルー、ボリビア両国に宣戦を布告、 が開戦した。 しかし、宣戦の時点でボリビア太平洋岸のほとんどを占領していたチリ軍は終始戦局を優位に進め、、 ()での敗北を以て事実上の終幕を迎えた。 、が結ばれ(最終的な講和は)、アタカマ地方をチリに割譲し、ボリビアは完全な内陸国となった。 この戦争を契機として、停戦を求める保守党と、戦争継続を叫ぶ自由党が誕生し、ボリビアの政治はへと変容した。 戦後の主導権は保守党が握り、軍縮と文民主導体制の樹立が目指されるようになった。 に大統領に就任したは喪失した輸出経路の確保に尽力し、アントファガスタから主要鉱山をつなぎ、ラパスに至る横断鉄道の敷設を実行した。 また、価格下落の続く銀に変わりの採掘を推進し、主要輸出産品へと育て上げた。 スズ産業の急激な成長は新興資本家の出現を促し、、アラマヨ、ホッチホルドといった錫財閥が誕生した。 こうした資本家は国家への影響力を拡大させるため、自由党への梃入れを開始した。 連邦革命 [ ] 、錫財閥と結託した自由党が起こした保守党政権の転覆を図った闘争は、それまでに制定されていた1874年法に反感を持つ先住民たちを巻き込み 、 と呼ばれる大きな内乱へと発展した。 保守党政権転覆にあたり、1874年法に反感を持つ先住民を利用しようと考えた自由党は、先住民指導者と先住民共有地の返還、先住民政府の樹立などを条件に協力を取り付けた。 この同盟により自由党は保守党転覆に成功したが、先住民の急進化を危惧し、先住民側との協約を一方的に破棄し、それまで以上に先住民を弾圧するようになった。 自由党政権として最初に選出されたは、当初掲げていた地方の権限を強化するは時期尚早であるとして放棄した。 ラパスに首都機能を移し、本格的な経済対策に取り掛かろうとした。 しかし同、自動車産業の発達に伴うゴム産業の活性化で、アマゾン流域のアクレ地方で活動するゴム業者がアクレ地方のボリビアからの分離独立を宣言した()。 分離運動は1901年4月までに一応の鎮圧を見たが、政権獲得と先住民への対応で疲弊していたボリビア政府は同地方の継続的な管理行政能力に行き詰まりを感じ、ニューヨークに拠点を構える米国系企業ボリビア・シンジケート社にアクレ地方の管理開発を委託した。 南米地域にアメリカの直接介入がなされることを恐れたブラジル政府はボリビア政府に強く抗議し、委託の撤回を求めた。 8月、ゴム業者により再度のアクレ地方独立分離運動が起こる。 これに呼応するようにブラジルはアクレ地方へ派兵し、4月にはなどの主権地域を占領した。 兵力差が歴然であったボリビア政府は外交的解決の道を模索し、同年11月、が締結され、200万ポンドの補償金と同地の鉄道敷設権と引き換えに、19万平方キロに及ぶアクレ地方のブラジルへの割譲を余儀なくされ、アクレ地方はとしてブラジルに編入された。 (在位:1931年 - 1934年) こうしたスズ産業を背景とする財閥を味方につけた自由党の政権はごろまで続いた。 自由党はインフラの整備や都市の近代化を図りつつも保守党によって固められた寡頭的伝統的体制を引き継ぎ、と呼ばれる一握りの権力者が大多数の先住民を支配する身分制度的な社会構造を維持し続けた。 しかし、に起きたによりスズの輸出は低迷し、ボリビアは失業率の増加、経済的苦境などといった不安定な状況に陥った。 、国民の関心をそらすため、大統領は未確定国境地帯であったの石油開発独占を目論み、へ戦争をしかけた( )。 この戦争は1935年まで続いたが、アメリカの仲介によるをもって終結したが、ボリビアは24万平方キロという広大な大地と、6万5000人に及ぶ犠牲者を出す凄惨な結果となった。 チャコ戦争によりの権威は地に堕ち、白人支配層への嫌悪感が住民の間に広がっていった。 これに対応するため、、政権はアメリカ系企業であったを接収、石油公社を設立した。 同時に鉱山銀行を設立してスズ輸出に伴う外貨管理を政府の管理下に置き、国家主導で経済の建て直しを実施する方針を打ち立てた。 、、らが主導し結成された(国民革命運動党、MNR)は鉱山労働者との関係を築き、錫財閥との対立関係を明確に打ち出し、にクーデターにより誕生したへの入閣を果たした。 パスは経済相に就任、労働者や農民との間に関係を広げ、寡頭支配に対抗するの基盤を作り上げた。 ボリビア革命 [ ] ビリャロエル政権以降は、といった保守党政権が続いたが、MNRはこの間地下活動を続け、労働者からの支持を確固たるものとしていた。 しかしウリオラゴイティア政権はこれを認めず総辞職を行い、軍に政権を引き渡す。 この動きに翌、率いる革命軍がラパスで蜂起し、正規軍が解体された。 、革命政権は臨時政府を樹立すると亡命先のブエノスアイレスから戻ったパスを大統領に選出し、三大錫財閥の解体、の導入、無償教育の普及などに取り組み、国民の大多数を占める先住民の国家への統合を促した。 これらの一連の改革は と呼ばれ、に次ぐ第二の社会革命として近代的な国民国家建設が期待され、農地改革やインディオに対する差別的法律の撤廃などにより身分制的な社会構造は崩壊したが、人口の少ない内陸国で工業発展の基盤に乏しかったボリビアでは行政機構の肥大化のみが進み、抜本的な経済改善には至らなかった。 錫財閥を解体して設立した鉱業公社(COMIBOL)は労働者勢力を地盤にもつ中央労働本部(COB)とともに知識人を中心とする中間層利権集団が支配し、政府に要求を突きつける強力な存在となった。 このため政府は合理性を欠いた経済政策を強いられることとなり、がすさまじい勢いで発生した。 政府はアメリカや(IMF)の指導のもとで経済の安定化を図ったが労組や農民層の抗議は激しく、第二次パス政権()時にはこれらを押さえ込むために軍の再建が実施された。 近現代 [ ] (在位:1971年 - 1978年) 軍事政権の首班は反政府勢力や社会主義者への締め付けを強化した。 ボリビアは全体の社会主義革命を目論むにとって「最も弱い環」とみなされたため、、と決別したキューバの革命家が南米大陸革命運動の拠点を求めてボリビアへやってきた。 しかしゲバラ率いる革命軍は農民層の支持は得られず、鉱山労働者との連携にも失敗したために、、の支援を受けたボリビア政府軍に捕らえられ、射殺された。 農民の戦によるラテンアメリカの武力革命を理論化したゲバラの戦死により、南米の革命運動における武装闘争路線は重大な挫折を来すこととなった。 4月にバリエントスはヘリコプター事故で死亡し、後任のは、隣国のペルーの軍部革命政権に倣ってを国有化し、労組を合法化した。 後継のはさらに左傾化し、ソ連の資金援助を鉱山公社へ注ぎ込み、労組や農民組合を纏め上げた(MIR)を誕生させるなど反米化の動きが強まった。 しかし、ブラジルの支援を受けた保守派のがクーデターによって政権を握ると、外国投資を積極的に誘致する展開した。 この政策は一時的な経済ブームを呼び起こしたが膨大な財政赤字と累積債務を作り出し、後の構造的不均衡の要因となった。 にアメリカ大統領の主導によりボリビアでの民主化が始まった。 結果的に民政移管が完了したのはであったが、その間に5回のクーデターと9回の政変が発生し、ボリビア国内は混乱をきわめた。 こうした社会情勢の悪化は国土の疲弊と孤立化をもたらし、民主化には成功したものの債務危機に襲われ経済が破綻するという事態に陥ってしまう結果となった。 与党が分裂し統治能力を失った当時の大統領はその座を辞し、74歳のが政権を握ることとなった。 パスは8月、国家の抜本的な再建を目指すための大統領令第21060号 新経済政策(NPE)を発表し、価格・為替・貿易の自由化、国営公社の合理化、緊縮財政といった経済の安定化と市場改革に着手した。 この改革は失業者が続出する痛手を伴うものとなったが、パスは軍を動員して暴動を抑え込み、強権を発動して断行した。 独立以来、この経済改革までに188回を数えたクーデターに見られるように、著しく不安定な情勢が続いたボリビアは、その暗く長いトンネルを少しずつではあるが脱しつつある。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• アメリカ大陸におけるヒトの起源としてもっとも有力なものは約1万2000年前までにを渡りアジア大陸より渡ったとするものであるため、ボリビアの地への渡来についてもこれ以降となる。 (、pp. 57-58 、pp. 19-23)• この呼称は同湖のにあるに由来する。 (、p. 200)• しかし、チチカカ湖岸の先住民であったはこの支配体制に反発し、たびたび反乱を起こしたため、激しい討伐が繰り広げられている。 (、p. 207)• ポトシ( potosi)はスペイン語で「巨万の富」や「途方も無い価値」を意味する。 (、p. 38、p. 65)• 同地はにから、にからそれぞれ紋章盾が付与されたが、正式な設立年はになってからである。 (、pp. 225-226)• ミタ制とはインカ帝国時代に制定された傭役制を元とした徴発制度で、特定地域住民の成人男子一定数を強制的にかりだすことが可能となる制度であった。 この制度はポトシ銀山での労働力をさらにかき集めるために1570年により過酷な制度へと再編がなされた。 (、p. 416、、p. 227)• 資料によってはこの時点でボリビア共和国の誕生としている場合もある。 そのため、初代大統領としてボリーバルが挙げられる場合( 2011年6月7日, at the. など)、スクレが挙げられる場合(、p. 217や、p. 246など)がある。 1860年代に入り、鉱業の活性化により食料需要が増加したことから政府は効率的な農業生産振興を進める必要があった。 農地の確保にあたって、国内に点在する先住民が保有する民族的共有地の解体が不可欠な状況となり、1864年、は先住民の共有地を接収し、農村の再編を図る法案を成立させた。 同法は一旦廃止されたが、1874年、共有地の永代所有を禁止した法案(1874年法)が制定され、保守党政権のもとでも維持された。 (、p. 262-263)• ボリビア先住民の間では人種戦争と呼称される場合がある。 (、p. 264)• このときのラパスの市街戦で552名が死亡、787名が負傷した。 (、p. 118) 出典 [ ]• 200。 201。 203。 208。 210。 224。 226。 416。 229。 230。 243。 244。 246。 247。 249。 250。 251。 252。 253。 255。 258。 260。 262。 263。 265。 133。 136。 117。 118。 137。 139。 162。 140。 142。 143。 参考文献 [ ] 書籍 [ ]• 平島創『21世紀の黄金郷 - ボリヴィア』KKロングセラーズ、1999年。 真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年。 田中高『ラテンアメリカ研究への招待 - 第七章中米地域』新評論、1997年。 中川文雄、松下洋、遅野井茂雄著『ラテンアメリカ現代史II - アンデス・ラプラタ地域』山川出版社、1985年。 増田義郎『物語 ラテン・アメリカの歴史 - 未来の大陸』中公新書、1998年。 大貫良夫、落合一泰、国本伊代、恒川恵市、福嶋正徳、松下洋『ラテン・アメリカを知る事典』平凡社、1987年。 外部リンク [ ]•

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