妻 が 死ん だ ふり を し てい ます ロケ 地。 家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。

家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。のレビュー・感想・評価

妻 が 死ん だ ふり を し てい ます ロケ 地

未見の方は読まないでください!) 高く評価されている作品なので、批判するのにかなり勇気がいるんですが、どうしても納得できないので、投稿しました。 結局のところ、彼ら5人が導きだした如月ミキの死亡原因は、自殺でも他殺でもなかった。 ゴキブリを退治する方法を教えてもらい台所用洗剤を撒いたのが、じつは食用油で、疲れた果てたミキはマネージャーに「もうダメ」と間違い電話をして、そのまま寝てしまう。 ところが睡眠中にアロマキャンドルの火が油に引火して火事になり、逃げる際に大事にしていた家元のファンレターが入った箱を取ろうとして避難できなくなり、その場で焼死体として発見される。 「事故死」という結論でした。 たしかに自殺や他殺も、ファンである彼らにとっては、たいへんショッキングな出来事でしょう。 しかし、ヘアヌード写真集の出版に意欲的なタイトルを用意するなど、芸能活動に前向きだった彼女が、こんなつまらない事故で死んでしまうというのも、同じくらいショッキングだと思いませんか? しかも、その事故にファンである彼らがかかわっているというのも、(故意ではなかったにしても)気持ちが悪い。 もし、私が安男だったら、「あんなアドバイスをしなかったら、ミキは死ななかったかも?」とか、あるいは家元だったら「ファンレターを出さなければ、彼女は逃げられていたかも?」と悔悟の念にとらわれると思う。 それがどうして、プラネタリウムの星空を見上げたくなるような清々しい気持ちになるのか、理解できないです。 スタッフの意図としては、「そこは笑い飛ばしてほしいんだよな...」というところかもしれません。 でも、私としては「あんなつまらない死に方をして、ミキがかわいそう」という印象の方が強いです。 私がミキのファンだったら、絶対そう思います。 もし、どうしても「ミキが死んだという事実は変わらないけど、結末は笑えるものにしたい」というなら、ブラックユーモアにするとか。 せめて彼ら5人がミキのファンではなく、何の関わりもない人たちにするとかでないと、あの結末は受け入れられません...• 長生きして大往生したご老人の思い出を 遺族が笑顔でしみじみ語り合うならともかく 黒こげの焼死体を前に同じ感慨に耽れるのかと。 とにかくこの思慮の足りなさが不快で不快で、 おまえら最低だなーというのが私の印象 だったので、なぜ今年ベスト1扱いなのか 大袈裟にいうと日本の映画評論も映画ファンも ここまでみっともなく、ひどくなってるのかと、 もう救いようがないところまでレベルが 落ちちゃってるとしか思えなくなっていました。 気持ち悪い作り手が気持ち悪い観客に 向けて作って気持ち悪い自画自賛が 循環して満足度1位ですよ。 ああ気持ち悪い。 分かりにくいというかなんというか、察することが出来ない人は置いてきぼりですね〜. うれしいです! どうしてこの内容で笑えるのか、私には不思議だったので。 ただ、誤解がないように書いておきますが、私は人の死を笑いのネタにすること自体は別に構わないと思っています。 「ドッヂボール」で、ある人物が死ぬシーンがありますが、そこは爆笑してしまいましたからね。 本作の場合、なぜ笑えなかったというと、主人公たちの言動に違和感を感じたからなのです。 彼らがミキのファン(実際には、ただのファンではなく近親者もいる)で、あのような死亡状況なら、彼女の死を嘆くのが当然だと思うのです。 だから、私が「ミキがかわいそう」と思ったのは、正確には、「主人公たちがかわいそうだと思うべきところを、そう受け取らなかったので違和感を感じ、自分が彼らの代わりにミキをかわいそうだと思ってしまった」というところでしょうか。 たとえば結論が出た後で、「ミキちゃんが死んだのは、お前が余計なアドバイスしたからだ!」とか「ファンレターを出したからミキは死んだんだ。 お前が悪い!」とか、責任のなすり付け合いになって、その様子を観客が笑い飛ばすなら、まだわかるかなぁ、という気がします。 どうしても主人公たちが納得する展開にしたいのなら、ファンのオフ会にするのではなく、推理小説愛好会の集まりにするとか。 彼らはミキのファンではなく、何の関わりもない人物で、話題がいつしか聞いたこともない無名のアイドルの自殺について推理し合う展開になる、というなら、必要以上に感情移入する余地がなくなるので、それなら私も納得できるかと思います。 人一人の死に対してあまりに底が浅いというか、ブラックユーモアになり得るほどセンスも説得力もないんです。 「おれとキサラギ」の特別な関わりは主張したいし正当化したいけど責任や罪悪感は帳消しにしたいというアンビバレンツが、見ていてどうも居心地が悪いというか恥ずかしい。 その鼻持ちならない無責任な価値観を肯定してあげてるから評判がいいんですよ、オタク的な価値観の人々には。 HUさんは最後にアンチテーゼを見ているけれど、そんなもんでフォローできるほど微妙なもんではなかったのは映画を見れば分かるはずで「察することができない」のはむしろ普通なんです。 これを「察しろ」というのはそのまま「オタクの自己満足」というか甘えに過ぎないわけで、HUさんの内面というか「そういうことを言われるとむかつく」側のちょっと恥ずかしい立ち位置をひけらかしてるに過ぎないw つまり死んじゃったミキより自分たちのミキに対するスタンスの保持の方が大事なだけです。 結局オタクというのはそういうスタンスの人々だということで、それをこういう形で商売にして賛同を得るくらいにマーケットとしては大きいということでしょうね。 個人的にはとても受け容れられないし、不愉快以外の何物でもありませんが、まあキャパが増えればクオリティーが落ちていくのは仕方ないですよねw• どんなに悲しんでも彼女は帰ってこないと悟った上で、でも彼女が何故自殺してしまったんだという思いだけが彼らの中に溜まっていたという感じじゃないかと思うのですが。 何の関係もないただのファンならともかく、五人が五人ともミキとの特別な関係や事情は意識していて、少なからずその死に責任を感じていたはずではないですか。 その五人がいわゆる一般のファンのようにミキの死を過去として受け容れているというのでは、あまりに気持ちの使い分けに節操がないでしょう。 むしろそれを受け容れられないからイベントに集まったはずなのに、ミキの死を美化することで自分たちの罪悪感を軽減して満足してしまいミキの死そのものは自己満足のための材料としか思えないものであったことに違和感が生じているのでは?例えとして適当かどうかは分かりませんが、例えば借りた車で事故を起こして死んでしまった人がいたとして、車を貸した人が「あのとき車を貸していなければ」と罪悪感を感じるならまだ分かるし、自分を責めるなとフォローもできるし、逆におまえのせいだと罪をなすりつけるのもありでしょうが、車を貸した人が事故死した人のことを「あいつは運転が下手だったからなあ」としみじみ語っていたら、無責任とは言わないまでも、それをこの状況で言うのは違うというか、おまえが言うなと感じる人はおおぜいいると思うんです。 ブラックユーモアの確信犯というのではなく、単にロジックやTPOの上でデリカシーと説得力に欠けているだけです。 この作品のファンがサウスパークやチームアメリカなどを見たときのようにブラックで面白いとニヤニヤしているわけではないということは、多くのレビューから伝わってきます。 どなたも死の真相とされるものが感動的であることに満足しているわけです。 しかしジミーさんご指摘のようにこれがミキの死に直接関わっていない人たちが推理してこの真相なら違和感は感じないでしょうが、自覚のあるなしに関わらず自分たちが原因となっている五人が自分たちのやってしまった役割は棚に上げて真相のみに満足してほのぼのするというのは安藤工務店さんのきつい言い方を借りるなら「オタクの自己満足」ということになってしまうでしょう。 脚本はよく練られたものではありますが謎解きの理屈あわせに奔走するあまりモチベーションというか意識の部分でかなり幼稚な感性を露呈しているように思います。 あるいはその理屈あわせの先に真実ではなく願望充足しかないようなうそ寒さを覚えます。 気持ちよく満足できることだけが最上のエンターテインメントだという勘違いが制作者にも観客にもはびこってしまっているのではないでしょうか• 私もほしさんと同じように思えるのです。 時間の癒し効果ってすごいものです。 彼らも事件当時はそりゃ人生断ち切られたかのように嘆き、彼女の悲惨な死に方に身を切られるような苦痛を覚えたことでしょう。 50キロ以上やせるほどね(笑) けど1年もたてば慟哭の時は終わってますよ。 身内でも一周忌の法要は悲しみより懐かし話ですもの。 彼らも(ユースケ以外は)盛り上がろうと集まってるんだし。 彼女の死の真相(と思えるもの)がああいったものであっても後悔めいたものはあっても、責任感じて・・・というふうにはならないのが自然じゃないかな。 あの後皆と別れて一人になった時には、もしかしたらもう少し悔いの度合いが強くなるかもしれないけど。 あの場面では、彼らの気持ちは、「まったくミキって奴はあんな死に方して! どこまでもドジでバカで、僕らのことを大切に思ってくれてて、ほんとにほんとにどうしようなく可愛い奴なんだから!!大好きだぁ!」 可哀想とかより愛おしさの方が勝ってたんじゃないでしょうか。 一周忌だからって悲しみや苦悩が蘇ることはあってもほのぼのした話にはなりづらいと思うよ。 しかも真相にいたって分かったのは、ミキを死に誘導したのは明らかに自分たちの関与だということじゃん?ほのぼのしかけていても現実突きつけられるっていうか自分たちでパンドラの箱を開けちゃった衝撃とか罪悪感はほのぼのなんか吹き飛ばすほどすごいと思うよ。 自分たちが殺しちゃったのと変わらないんだもん。 法的なあれこれはおいといても、道義的にはかなりキワキワだと思うよ。 それを棚に上げて、 「まったくミキって奴はあんな死に方して! どこまでもドジでバカで、僕らのことを大切に思ってくれてて、ほんとにほんとにどうしようなく可愛い奴なんだから!!大好きだぁ!」 という愛おしい気持ちになること自体がミキの死に関与したことへの責任感というか罪悪感からお手軽に都合よく自己解放の自己陶酔し過ぎしょ、とジミーさんや安藤工務店さんや未婚女性さんは繰り返し言ってるわけで、いーとしのエリーさんのご意見は批判的な人たちのそうした疑問や不満に答えているのではなく、同じ事をもう一度おさらいしているだけでループになりかけてて、あんまり前に進んでいないと思う。 不謹慎なようだけど、キサラギミキを実際に急逝したアイドルやアーティストに置き換えれば、五人の真相を知ったときの反応がいかに不自然でトホホなものか、よく分かると思う。 デフォルメとかブラックユーモアならまだ分かるんだけど、なんでこんな話で清々しい、いい話っぽいラストなのか、そしてなんでそれをおかしいと思わないのか、本当理解できない。 って 心に残っちゃいますよ。 そこんとこ、 映画が拾ってくれていない、 というのがひっかかりますよね。 やっぱり。 この映画は、1年たってもその死を乗り越えられない マネージャー:ユースケサンタマリアの悔恨をベースに、 それを解きほぐしていく構成になっていると思います。 自殺の原因が自分だったかもと考えることに耐え切れず、 他殺の可能性を追求し始める。 自分勝手な責任転嫁ではありますが、 心理状況として不自然なものではありません。 小出・小栗は元々関係性が薄く、 その死を乗り越えるのが早くても 責められるものではないでしょう。 好きなスターの死に置き換えてみましたけど、 私実際そんな経験ありますが、 がくっとはきましたが、泣きもしなかった程度でした。 (きっとものすごく冷酷な女なのかもな。 ) 顔見知りの近所の人が急逝したケースを考えても、 泣き崩れるほどなのはごく近しい身内だけなものです。 塚地さんとの関係はどの程度だったのか分かりませんが、 所詮結婚未満の関係の場合、 ありゃもう別の人と結婚なんですか? というのは現実世界でも良くあること。 人は忘却機能によって精神の安定を保って 生を継続することができるのであり、 忘却機能が上手く働かない場合、心の病になるのですから、 これを責めてはいけない。 しかし、ここに一人 「悲嘆の度合い」が薄すぎる人がいる。 香川さん演ずるところの ストーカーまがいのファン実は父親です。 実はほとんど才能がない彼女を スターにしてやりたかったマネージャー:ユースケが、 彼女が紛れも無く誰かのスターであったことに 心慰められるのは「アリ」だと思います。 しかし父親は よほど冷酷無比の父親で無い限り 「生きていてくれさえいれば良い」というのがフツーのはず。 で、おかしいなと思っていたら、 この香川さんの役は映画化にあたって 設定変更がなされているそうなのです。 映画のオチに関わる部分なので詳しく書かれていませんが、 それは「父親」という設定が追加されたことを 指しているのだな、と思われます。 これに関しては、舞台版の ストーカーまがいのファンのままの方が 良かったのではないか?とは思っています。 最後のエースのジョーが出てくるシーンは、 「皆で悔恨を痛み分けして、 はいそれで良しみたいな生ぬるいことでいいの?」 というアンチテーゼというか エクスキューズであることは確かなのですが、 伝わりづらいかもしれませんね。 元々私は推理に結論がついてからの部分 (特にプラネタリウム)については いたずらに冗長だと思っているクチなので、 あのあたりをバサッとケズってしまい、 香川に父親設定を付加しないようにすると、 自己陶酔がひど過ぎるという意見が出るのを 防げたかもしれません。 今日、東京旅行を終えて帰ってきたばかりで、一週間ぶりに映画生活にアクセスしたので、すぐにレスをお返しすることができません。 申し訳ありませんが、みなさんの投稿をじっくり読んでから、後日お返事します。 それまでしばらくお待ちくださいませ。 真相にいたる部分に文句があるわけではなく、その真相を受けてからの五人の反応を描く部分が「いたずらに冗長」というのはすごく頷けます。 それまでの展開を考えたら逆にあそこで清々しい気分にならず、ジミーさんのいうように醜い責任のなすりあいになったり、あるいは空しさばかりが残って呆けたように静かに終わる方が説得力があるような気がします。 その空しく引いた空気の中にキサラギ・ミキの能天気な歌声や映像が流れるエンディングなら、皮肉なカウンターとなって効果的だし、私もここの満足度同様に評価するでしょう。 しかし実際にそんなオチなら、ここの評価はもっと微妙なものになっていたでしょうが(苦笑)• たしかに、この作品はメインであるサスペンスについて、伏線を張ったり、つじつま合わせに一生懸命になってしまい、人間関係がおざなりになっていると感じました。 ただ私は、映画というのは(どんなにバカバカしいコメディであっても)文学と同じく人間の真実を描くものだと思っているので、その部分で違和感があると、謎解きがいくらよくできていたとしても、受け入れられないのです。 素子様命さんの分析に沿うと、この作品はマネージャーであるオダユージがミキの死の真相について、「彼女は殺されたのではないか?」という疑問を持っており、最後にそれが解消されてハッピーエンドになる構造を持っています。 しかし、そのようなエンディングに持って行くためには、彼女の死が「警察が断定した自殺説」「オダユージが思い込んでいた他殺説」よりも、みんなが「それなら仕方がない」と納得できる死に方である必要があると思うのです。 いちばんいいのは、ちとせさんが触れられている「天寿を全うした」というものです。 人間はいつか死ぬのだから、これなら納得できます。 しかし、まだ若いミキにはそれはあり得ない。 あとは、病死や事故死などが考えられますが、前者はサスペンスにはなりにくいし、実際に採用された後者は、ただの事故死ではなく、何らかの形で自分たちが関与しているという、気持ちの悪い展開でした。 「これでは彼らファンには納得できないのが、ふつうなのではないか?」というのが、私の疑問なのです。 たしかに、家元やスネークは関与は薄いし、責められるものではありませんね。 しかし、このケースでは「罪がなくとも呵責に苦しむのが人間なんじゃないかな?」と考えるのです。 何年か前に地下鉄で火災が発生し、多くの人が焼死する事故が外国でありました。 その犠牲となったある女性は、ふだん地下鉄を利用しないのに、その日たまたま地下鉄に乗ったために、事故に遭って死んでしまったのです。 彼女が地下鉄に乗った理由は、恋人に勧められたから。 その勧めた男性は、テレビの取材で「僕が『地下鉄に乗れ』なんて言わなかったら、彼女は死ななかったかも」って、嘆いていました。 しかし彼は、事故が起こるのを知らなかったわけだから、罪はまったくないし、責められるものではありません。 でも、そのように罪の意識を感じてしまうのが、人間だと思うのです。 上の例と違って、本作の場合は恋人ではなくファンなので、泣くところまではいかないと思います。 でも、もし私が家元だったら「あんな手紙を送らなきゃ、ミキちゃんは死ななかったかも」と(まったく罪がないのにもかかわらず)心の中で後悔すると思います。 それが、人間っていう生き物なんじゃないかな... で、ほしさんやエリーさんが書かれている「時間が経っていたから」という理由なのですが、たしかに時間の経過によって過去の悲しみが癒されるのは自然なことです。 でも、過去の出来事でも新事実が発覚した場合、話は変わってくると思うんですよ。 その新事実が判明してから時間が経過すれば、癒されたり、見方を変えて理解を深めたり、ということはあると思いますが。 * ちなみに余談ながら、私のこの作品の評価は低いです。 理由はいくつかあって、まず私は自分の中に「映画を評価するポイント」というものをいくつかを持っているのですが、本作がそれをクリアできていなかったためです。 それから、彼ら5人がミキに近しい人物だったり、もしくは警察関係者である設定が、ふつうのファンがミキの死を推測する話だと思っていた私には、つまらなく思えました。 そういう立場の人たちなら、推理するのが簡単になり、どうにでも話を作れてしまうからです。 あと、映画が全体的に幼稚ぽく感じましたね。 いい年をした大人が、ロリータ・アイドルのファンで、しかも死んだ理由がゴキブリ退治で洗剤とサラダ油を間違えるとか... リュック・ベッソン製作のお馬鹿映画の、推理の部分を緻密にした程度の映画だなぁ、という感想です。 以上のような理由で、私はこの映画を好きになれなかったのですが、素子様命さんやekoekoさんのように本作を高評価されている方が、ミキの死をどう受け止めていたか、その一端を知ることができたので、ここでのやりとりは私としては満足です。 そのとき、「泣いている香港のファンがいた」と報道された記憶があります。 でも、書かれているように、そんな展開にしたら、たしかにこれほどウケなかったでしょう。 そういう意味で、この作品は「完成度よりも観客に迎合することを選んだ失敗作ではないか?」という疑問を私は持ちました。 コミック原作の安易な映画化が多い中、 オリジナルの密室劇で最後まで退屈しなかったのは確かです。 ただし、違和感を感じる部分は多くあったので、 ここの皆さんのご意見は興味深かったです。 特に小栗さんの家元は 「自分のファンレターが原因かもしれない」 といった結論に達したくだりで、 罪悪感を感じるどころか、 「一人だけ蚊帳の外だと思ってたけど、僕も仲間入り」と いわんばかりにむしろ喜んでいるように見えたのは? と思いましたし、厳しく言ってしまえば、 皆さんの言う「オタクの自己満足」かもしれません。 ただし、一年経った時点で5人がそこまで 嘆き悲しむか?といった部分については 素子様命さんが検証してくださったのと同感です。 小栗・小出はもともとそこまでの関係性ではないし、 ユースケも自分勝手とはいえ不自然さもなく、 塚地さんも仲のよかった幼なじみとしては、 「今もミキを思い出しネットに書き込みを続ける」 といったことで特別違和感は感じません。 香川さんの父親が嘆き方が薄いかなと感じたくらいです。 ただ私は皆さんと違う解釈をしたのは、 目に見えて罪悪感を感じている人物。 55キロやせるほど一年間を憔悴して生きた ユースケ・デブッチャーへの 思いやりだったのではないか…というところです。 「あんただけのせいじゃない。 俺たちの連帯責任だよ。 容器に油を詰め替えた俺のせい、 ゴキブリ退治のアドバイスをした俺のせい、 ファンレターを書いた俺のせい、 いや…父親としてふがいない俺のせい、 ミキはヘアヌードに前向きだった。 自殺じゃなくて事故死だよ。 あんたは充分苦しんだ。 もう前を向いて生きてくれ」 確かにミキがかわいそうですが、 死んでしまったミキよりも、 生きているデブッチャーへの男たちの 思いやりだったのではないでしょうか。 私は「自分しか考えないオタクの自己満足」と取るよりも 確かにミキは不幸で哀れだったけれど、 ののしり合うよりも、 生きているユースケの罪悪感を消してあげる 思いやりから出た言動だったと信じたいですね。 あのようなシチュエーションで、晴れ晴れとした心境になるか、という問いです)。 たとえ関わりが薄くても、罪が全くなくても、自分のアドバイスで誰かが死んだら、心に引っかかると思いませんか? ましてや、自分たちが応援していたアイドルだったら、なおさらだと思うのです。 まあ、私が敏感すぎるのかもしれませんが... あと、私がこの作品を好きでないのは、現実にフィードバックできるものがほとんどないことですね。 まだ、笑えればよかったんですけど、私は笑えなかったので。 なぜかというと、被害者はコナンたちと関わりがない(もしくは薄い)ゲストキャラで、どういう人物かよくわからないまま殺されてしまうし、コナンが直接事件にかかわることはありません。 それは、この作品のおもしろさが謎解きにあるからであって、そのために被害者や加害者については観客に、必要以上に感情移入させない仕組みになっているからだと思うのです。 しかしたとえば、コナンと親しい人物(欄や小五郎)が殺される事件が起きて、コナンがいつものように冷静に事件を解決し、ラストで「よかったね」となったら、多くの人は違和感を持つのではないでしょうか? 「それって、違うんじゃない?」って。 そして本作「キサラギ」は、それに近いことをやってしまっているのではないか? と私は考えるのです。 彼らはミキのファンである上に、実際に事故にも(まったく故意ではないが)関わっています。 だから、ラストで「よかったね」となったとき、すごく違和感を持ちました。 ちなみに、私はコメディ映画に関しては、ある程度のご都合主義は許容する主義です。 本作に関しても、「あの日がミキの一周忌なら、あの場にいるべきでない人がいるのではないか?」とか「サラダ油は常温では発火しない」など、俗に言う「ツッコミどころ」がいくつかあると思います。 しかし、コメディであるということを考えると、それらは枝葉に過ぎないので、私は問題にしていません。 ただ、物語の本質に関わる部分や、人間としての言動にウソがあると、私は納得できないのです。 けっこう早い段階で、「この人たち、ほんとうにミキのファンなのかなぁ?」って疑ってしったんですよね。 たとえば序盤で家元がミキに関するコレクションを披露するけど、ただ持っていることを自慢しているようで、ミキというアイドルに対する想いが感じられませんでした。 「彼らがファンであるという裏付けが取れていないのではないか?」というのが、低評価の理由のひとつでもあります。 私はかの宮崎監督アニメだとか、 泣かせの入った恋愛・人情モンがダメですので、 大概の場合、皆が誉めてるのには 乗り損ねている人間です。 (つうか、だいぶ自分の好みも固まっているので、 乗り損ねそうなのは避けてますけど。 ) まぁ皆さん、ここが引っかかって映画全体が楽しめなくなる、 という自分だけのポイントはお持ちのはず。 引っかかりポイントがあると、 「これは作り話」スイッチも入り損ねがちですよね。 残虐描写に引っかかって 画面が見られなくなっちゃう方の多い オカルト・ホラーではまことに良くある話です。 コナンの例を出されていますが、 多くの人が推理モノにおいて 被害者に思い入れずに済むのは、 おうおうにして推理者は被害者と直接的関係性を持たず、 そして主人公がその、 被害者と直接関係性を持たない推理者だからでしょう。 被害者の死に対して泣かずに済む立場の人が主人公で、 鑑賞者はその主人公に主に思い入れて見ることになる。 そういう意味でこの映画は、 推理者が被害者と関係性の濃い者が多いという点において、 「被害者がカワイソウ」という感情を 鑑賞者についつい呼び起こしやすい作りであるとは思います。 ただ、そのあたりをサラッと流して見られる 「これは作り物」スイッチが上手く入った人間が おかしいとまでは思わないでくださいまし。 むぎわら帽子のジミーさんは、 そのあたりは心得られていると思いますが。 話それますが、 わたくしデスノートは ライトというごく普通の学生が 単に頭脳明晰でオヤジが警察関係者という理由で 警察の捜査にずいぶんと深く首つっこめる という点がひっかかりポイントになり、 どうも乗り損ねました。 (アメリカの秘密組織の天才児の方は 「秘密組織だから」でいいんですが。 多くの方は ライト vs L の方がお好きだと思うのですが、 私はライトが成人して警察になった後の話である ライト vs R の方が引っかからずに楽しめますねえ。 ) 乗り損ねてるくせに漫画全部持ってたりしますケド。 (とはいえ、毎回遺体の発見者かよ、 とつっこみ入れてたり。 この作品に手放しで納得できない、 もしくは細かい突っ込みどころは別にしても 根本の人としての心情的に理解できないと感じる方々の 言わんとすることはそうだと思います。 ただ私自身、コナンの例で小五郎や蘭が殺されて、 すがすがしくプラネタリウムを見ていたら 「それは違うんじゃない?? 」と激しく思いますが、 「キサラギ」ではここの方々が挙げている プラネタリウムのシーンに さほど嫌悪感は感じませんでした。 確かに「ミキの近親者たち」としてあの反応はどうか? と言われれば、自然とは言いがたいですし、 自分のアドバイスで親しい人の死を招いたということに なれば、もっと人として罪悪感を感じるでしょうが、 あのシーンでは私は前の意見の通り、 「ちょっとした縁で集まった5人の男たちが、 一年間を憔悴して生きたユースケへの思いやり、共有」 として捉えました。 つまり私は 観客としてよく知らない ミキ視点ではなく、 5人の男視点で見ていたからだと思います。 その点でコナンにおける小五郎や蘭と ミキちゃんを同列には感じられないかな…と思います。 家元のファンとしての姿勢ですが、 芸能人のファンはそもそもある種の幻想を抱いて 疑似恋愛の対象として見ていたり、 コレクターとしての熱心さが勝ってしまう例もあるわけで 特別不自然だとは感じません。 ただし家元がミキちゃん自身のことを考えた 良質なファンかどうかはまた別の問題ですが。 とはいえ、この作品に納得できない皆さんの意見を 理解できないわけではないです。 むぎわら帽子のジミーさんもおっしゃってるように 人それぞれ「いい作品」「好きになれない作品」と感じる ポイントは違うわけですし、 私自身は「キサラギ」をコメディとして笑いのセンスが そこまで上質とは思いませんでしたが、 「2時間まったく退屈しなかった」 「罪悪感に捕われていたユースケに対し、 5人の連帯責任という思いやり」 「ラストでノーテンキなD級感漂うミキちゃんを あえて出すことで、だからこそ感じるもの」 といった点で評価しています。 反面、「ミキちゃんかわいそう」という 心情をまったくフォローしてくれていない という点は納得はできますし、 自分たちが死に関わった罪悪感が ほとんど描かれてなく、良作とはいえないという 意見も納得はできます。 私の場合はそれを上回るものを あの映画から感じたという違いだと思います。 もちろん、その点を責めているつもりはないです。 ただ、私が前回書いたポイントというのは、客観的視点から見た「評価するポイント」という意味だったのですが。 例を挙げると、私は男なので、女性キャラが出てくる映画の方が好みですが、それはあくまでも主観であって、実際に評価する場合は客観的に判断するので、その是非は含みませんよ、という意味です。 本作の場合、ファン5人が全員男性なのは私の好みではないけど、ミキが女性であることを考えると当然だし自然なので、そこは批判の対象にはしていません。 ちなみに私が宮崎駿の作品が好きなのは、主観的な意味合いでは、すがすがしい感動があったり、女性に対する想いがほとばしっていたり、情緒があったりするからです(一部作品は例外)が、客観的な評価としては「現実へのフィードバックができている」「目的が言動により裏付けされている」「人間の生理が描けている」「舞台に存在感がある」などの項目をクリアできているからです。 素子様命さんが書かれている意味でのスイッチの話に戻すと、私は「デスノート」をまったく観ていない(原作も読んでいない)ので、それがどのようなものかわかりませんが、もしコメディならOKだけど、リアル感のあるシリアスなドラマならNGかもしれません。 ご都合主義はコメディ色が強くなるほど許されるものなので。 私ならそう考えますね。 私の場合は「呪怨」に出てくる幽霊が、「白粉を全身に塗った全裸の子供が、監督の指示によりそこに座っている」ようにしか見えないです(笑) まあ、実際そうだと思うんですけど。 私自身、霊感ゼロの人間なので、幽霊全般が怖くないのです。 「オープンウォーター」や「明日の記憶」のような、現実に起こりえる恐怖なら怖いと思います。 ノーマージンさん> 「コナン」の場合は違和感を持つだろうけど、「キサラギ」の場合はそれほど思わない、というのはシリーズものかそうでないところよる違いかと思います。 「コナン」の場合は原作を読んだり、10年もつづいているテレビシリーズや映画を観たりしているので、すでに感情移入できているところが大きいのではないでしょうか? 「キサラギ」の場合、ミキというキャラクターがいまひとつよくわかりません。 序盤、彼女のことをくわしく描写していないのは、たぶん感情移入を阻止するためではないでしょうか。 そういう意味では、この作品でも推理もののセオリーを意識しているのだと思います。 私が前に書いた「彼らのミキに対する情熱が感じられない」というのも、ミスではなくスタッフの意図によるものかもしれません。 ただ、私の場合は、裏付けが取れているかどうかを見るので、そこに気付いてしまったのです。 で、多くの方は書かれている「オダユージ(ユースケ・サンタマリア)に対する気遣い」に注目するので、ミキのことを忘れてしまっているんだと思いますね。 ちなみに私も、ノーマージンさんをはじめとして、この作品を高く評価する人たちの気持ちがわからないではないです。 実際、私が観た劇場では、すごく盛り上がっていたので。 あるカップルは、女性の方が「いつも寝てしまうのに、今日の映画はとてもおもしろかったので寝なかった」と話していのですが、私はその理由がだいたいわかるのです。 このサイトでは、こうした議論になったとき、肯定派と否定派がケンカになることが多いのですが、このスレッドでは気持ちのよいやりとりができたので、その点がとてもよかったと思っています。 参加していただいた方々に感謝します。 一般層に近いファンとアイドルヲタの間には相当な違いがあるのかも知れませんね。 ヲタって何でも楽しもうとする、というか、 わざと偽悪的・露悪的に振る舞い、楽しむふりをして自身の心の傷を和らげようとする、そんなところがあるように思います。 まだ、書き込もうと思っていたこともあるので。 オタクの件ですが、彼らはそういう人たちなのかもしれないけど、私にはちょっと理解できない... どうしても、気持ち悪く感じてしまうのです。 たとえ、自分がそう思っていなくてもです。 他者からの目とはそういうものなので、 誰しも、オタクだと決めて人を見てしまうことがある ということをご理解ください。 まさにマキさんが言っているような意味だと思います。 その友人は私の逆で 「最後までミキちゃんの姿は見たくなかった」派です。 あくまで幻想の憧れのスーパーアイドルとして 描いてほしかったようです。 「オタク」に関しては「他称、映画オタクです」さんに納得です。 レビューを書き込むというのもそうですが、 「一人で映画を見に行く」ことすら「理解しがたい」「変わっている」「オタク」と取られる場合もあるでしょう。 特別映画に興味のない一般の人は、 映画といえば「デートでシネコンの話題のロードショー」しか浮かばないわけで、ほとんど宣伝もされないマイナー映画を単館シアターに一人で行くなんて、よっぽどの変わり者で、それこそ「気持ち悪い」と思われるかもしれませんね。 たとえば、トニー・スコット監督、ロバート・デ・ニーロ主演の「ザ・ファン」という映画がありますね。 メジャーリーグの好きな中年男性が、応援しているチームのある黒人選手にのめり込む話です。 この主人公も、一種のオタクでしょう。 彼の行為はどんどんエスカレートし、犯罪にまで至ってしまうので、気持ち悪いというのを通り越して、恐ろしい... でも、人間という生き物がそういう一面を持っているのは真実だから否定できないし、その映画それ自体も、べつに気持ちが悪いとは思いません。 ふつうに生活を送っている一般人も、熱狂的にあることにのめり込むオタクと呼ばれる人たちも、それぞれに一貫した行動を取るものだと思うのですが、「キサラギ」に出てくる主人公たちにはその一貫性がないので、私にはそれが気持ち悪く感じられたのです。 ここでの「気持ち悪い」という言葉の使い方は、そういうことだったのですね。 てっきり、オタクが気持ち悪いと書いたのかと思ったので それなら我々だって映画オタクだと見なされますと言いたかったのです。 おそらく、マキさんがおっしゃった「オタク」と むぎわら帽子のジミーさんがおっしゃった「オタク」との間に意味の違いがあって それを読んだ私が誤解をしてしまったようです。 私の取り越し苦労でした。 すみません。 とすると、行動に一貫性があるかないかで判断するわけですから 主人公たちがオタクかどうかは関係ないような気がしてきました。 私なんかよりもわかりやすく整理していただいて 痛み入ります。 基本的に、オタクを差別しているつもりはないんです。 欧米では、「オタクはカッコイイ!」という認識もありますしね。 考えてみれば、ビアトリクス・ポターも今で言うところのオタクですね。 でも、「ミス・ポター」が気持ち悪い映画だとは思わないんですよ。 一同、シーンと静まり返る。 「ミキが死んだのは、お前のせいだ」 責任のなすり付け合いがはじまる。 5人、それぞれののしり、殴り合う。 「いや、悪いのはみんなだ!」 と誰かが叫ぶ。 「オレたちみんなのせいで、 ミキちゃんは死んだんだ。 ここにいる全員が罪人だ」 再び、静まり返り、沈黙の末、 別の誰かが口を開く。 「自殺しよう」 「なんだって?」 「オレたちのせいで、ミキは死んだ。 死んで、ミキに詫びよう」 5人、その場で集団自殺を計る。 それから1年後の同日、 宍戸錠がネット仲間を集めてオフ会をしている。 テーマは「1年前に起こった集団自殺の謎を解く」 というもの。 「彼らは如月ミキを追悼していたようだが、 その最中に自殺を図った。 遺書もなく、理由も告げずに死なれてしまった場合、残された近親者はただひたすら自らを責め続けます。 自殺するほど思い悩んでいたのに、なぜ気付いてあげられなかったんだろう? こんなに近くにいたのに、なぜ打ち明けてくれなかったんだろう? なぜ?どうして? もっとそばにいてあげればよかった。 もっとたくさん話を聞いてあげればよかった。 ごめんね、ごめんね。 ・・・こんな言葉ばかりが頭の中をぐるぐる駆け巡ります。 病死や事故死のように簡単には受け入れられないんです。 残された者の傷はずっと癒えることはないんです。 だから一年が経って、それが自殺ではなく単なる事故死だったってわかったら、たぶん私なら心底ホッとすると思います。 確かに、若くして不慮の事故で死んでしまったミキちゃんはかわいそうですし、彼らが多少の責任を感じてしかるべきだとも思いますが、でも焼身自殺ではなかった(ということがわかった)んですよ? ああ、ミキちゃんは生きている間は幸せだったんだなぁって、死ぬ直前までアイドルとして生き抜いたんだなぁ、よかったなぁって素直に思えたんですが・・・。 ミキ主観で見ればミキって恵まれているし幸せです、そしてアイドル(偶像)であるためにファンを大切にした結果不幸にも死んでしまった。 これってあの五人が死の責任背負うべきことなんでしょうか 確かに直接ではないですが死の関与はしています、しかしアイドル如月ミキに支えられていた五人(まして家元に関しては職場でのイジメに耐えさせてくれる大切な支えになっていた)が良いと思って行動したことが「お前が原因だ!」って言われても混乱して言い逃れしか出来ないと思います。 しかも一歩間違えるとナイフで刺されるかもしれない状況ならなおさらではないでしょうか。 個人的にはプラネタリウムのシーンは偶像であったミキが実像に変わることで、本当のミキが与えた影響力を現してると思います。 ミキとのそれぞれの思い出(いちご娘。 のミキが4歳だった頃の回想〜家元の手帳に入ってるミキのカードを見るなど)を写し、五人の推理の結果からミキのアイドルとしての生き様や、ファンに対しての思いやり、人間味が見えてくることでミキがとても素晴らしい人間で、可愛く、幸せに思えませんか? そんなミキが「一周忌」に望むのはきっと悲しまれることじゃなくて、責任を追及することじゃなくて、もっと五人に特にマネージャーのオダに安心して欲しかったんじゃないでしょうか? そう思うと「かわいそうなミキ」は何か間違ってる気がしてしまいました すいません、以上です。 長文失礼しました。 「事実は主観でしかない」というのも大きなテーマだと思います。 導き出した答えが事実なら 結婚を約束している安男との電話で、マネージャーがヌード写真集を勝手に決めたのも嘘で(実はやる気満々)、ごめんねと泣いていたのも嘘泣きだったとしたら、純愛で結婚を約束している安男にとっては相当ショックな事実です。 でも、オダをなぐさめる事で頭がいっぱいで その事をあっさり認めた感じで説得してました。 ミキを愛することだけに凝り固まってる(それこそオタクのような)人達なら、ヌード写真集を、嫌がって泣いていたのが嘘だったのかどうかで 安男さんとマネージャーとで、最後までもめるくだらない話になってたでしょう。 優しさゆえに、自分の感情よりも 目の前にいる落ち込んでいう人をなぐさめる事にみなが必死になっている姿がおもしろかったです。 それに、5人のせいで事故につながったという推論も結構無理やりですし、この5人の心の中でも、自分のせいだと悔やむほど自信を持って確信できる推論ではなかったのだと思います。 (特に家元の手紙の件については例え本当に心の支えだったとしても家元の言うとおり火がまわりにある時に、取りに行こうとまでは思わないと思います。 ) 皆が気を使って、というより空気をよんで納得しているようなふりをしていたのかもしれません。 (事実ラストで、この無理やりな推論がすべて覆されるかもしれないシーンが出てきてるわけですから) ほんの何%あるかもしれない推論のために 自分を恨むのは正しいとは思いませんし それが正しくないということこそがこの5人がこの場で導き出したことだと思います。 「今まで言ったことだって本当かどうか」 「真実は常に主観でしかない」 「人間は皆未知である」という台詞からも この推論が、絶対ではないしこの5人もそうは思ってない事を、あらわしていると思います。 「事実は主観でしかない」というのも大きなテーマだと思います。 導き出した答えが事実なら 結婚を約束している安男との電話で、マネージャーがヌード写真集を勝手に決めたのも嘘で(実はやる気満々)、ごめんねと泣いていたのも嘘泣きだったとしたら、純愛で結婚を約束している安男にとっては相当ショックな事実です。 でも、オダをなぐさめる事で頭がいっぱいで その事をあっさり認めた感じで説得してました。 ミキを愛することだけに凝り固まってる(それこそオタクのような)人達なら、ヌード写真集を、嫌がって泣いていたのが嘘だったのかどうかで 安男さんとマネージャーとで、最後までもめるくだらない話になってたでしょう。 優しさゆえに、自分の感情よりも 目の前にいる落ち込んでいう人をなぐさめる事にみなが必死になっている姿がおもしろかったです。 それに、5人のせいで事故につながったという推論も結構無理やりですし、この5人の心の中でも、自分のせいだと悔やむほど自信を持って確信できる推論ではなかったのだと思います。 (特に家元の手紙の件については例え本当に心の支えだったとしても家元の言うとおり火がまわりにある時に、取りに行こうとまでは思わないと思います。 ) 皆が気を使って、というより空気をよんで納得しているようなふりをしていたのかもしれません。 (事実ラストで、この無理やりな推論がすべて覆されるかもしれないシーンが出てきてるわけですから) ほんの何%あるかもしれない推論のために 自分を恨むのは正しいとは思いませんし それが正しくないということこそがこの5人がこの場で導き出したことだと思います。 「今まで言ったことだって本当かどうか」 「真実は常に主観でしかない」 「人間は皆未知である」という台詞からも この推論が、絶対ではないしこの5人もそうは思ってない事を、あらわしていると思います。 オタクの習性として、足りない設定は、妄想で補完するというものがあります。 故に彼らは、ファンレターを大事にするドジ娘が故に死んだと拡大解釈するのです。 だからこそエースのジョーのラストパンチが含みのあるものとして終わるのです。 でもエースのジョーの言う真実は、認めたくない真実でしょうなあ。 いいじゃないですか。 頭は弱いがファンを大切にするアイドルが居たってことで。 うちらはそれでいい…はずです。 だって臭いも味も無いヴァーチャルですから。 アンチテーゼを皮肉ることこそオタクの誉れですから。 とりあえず、キサラギミキみたいにサービス精神溢るるおなごは、例えヴァーチャルとはいえ大切にしたいものです。 なぜなら、あの火事は事故だからです。 もし私があの場にいても、「死んだのは君たちのせいじゃないよ」と言いいますよ。 そうではなくて、「大切な人が死んだときに、自分の責任だと思い込んでしまうのが、人間という生き物なんじゃないかなぁ」という話なのです。 最近観た映画で言うと、「テラビシアにかける橋」なんかがそうです。 ここで別の作品をネタバレさせるわけにはいかないので、ボカして書きますが、劇中である人が死んだとき、自分のせいで死んでしまった、と口走るシーンがあるのです。 それも私は、その登場人物に責任があるとは、まったく思わないです。 私がもし傍らにいたら、「あなたのせいじゃないよ」って慰めます。 でも、自分のせいではないから、という理由で落ち込まなかったら、違和感を感じませんか? 私もミキは、マイナーながらファンに対して思いやりを持ったアイドルで、幸福な日々を送っていたと思います。 ところが、そんな幸福の日々が「火事」という事故により破壊されてしまった。 それは、悲劇です。 幸福の絶頂にあるときに、とつぜん訪れる死は、悲劇以外の何物でもないと思います。 それをファンのみんなが悲劇だと受け止めないことが、この作品がもっとも不自然な点なのです。 プラネタリウムを見上げて、謎が解けたことに感動するだけで、ミキの死それ自体は蚊帳の外... 心の支えにしていた彼らに、そんな扱いを受けたミキを、私はとてもかわいそうだと思ったのです。 すごく納得できました!なるほど、むぎわら帽子のジミーさんや皆さんの意見がすんなり入ってきた気がします。 やはり人と議論することで映画ってもっと面白くなりますね! 如月ミキの事故死、それに対する死の責任、ミキの死の真相。 謎が一段落着いたときには、如月ミキ本人は蚊帳の外で集まったファンだけが安堵感を得る。 しかしながらこの流れから救われたのは何もファンである五人だけではないと思います。 ミキの気持ちをどう考察するか次第なのでなんともいえないですが、私には明るく頑張ることに前向きな「如月ミキ」が、一周忌記念で集まったファンが落ち込んで思いつめる姿を見たくないと思えます、どちらかといえば最初家元が企画していたような楽しい雰囲気で一周忌を乗り越えていつまでもミキのファンであって欲しいと、そう願うのではないでしょうか もう死んでしまってはいるのですが、如月ミキはこの集まりに少なからず救われている、と私は思っています と、したらやはり如月ミキは幸せな人生を送っている 私の勝手な解釈でもしかしたら気持ち悪いかも知れないですが、何よりこの作品を楽しんで観るには「ミキの気持ちをどう解釈するか」で大きく違ってくると思ってます。 としたら監督の思い通り、または1キャラクター「如月ミキ」に踊らされて、この作品の偶像如月ミキを好きになれればなぁ、と思うのです。 死んでしまって何も言えない如月ミキの気持ちを 都合よく美化解釈して「だから良し」とするのは、 結局ここでずっと議論されている内容から一歩も 踏み出せていないどころか、むしろ思考停止の 後退を見せているのではないでしょうか。 問題は「ミキがどう思っていたか」ではなく、 「ミキがどう思っていようと」のはずです。 ミキではなく五人の覚悟というか責任感の問題。 ジミーさんや私を始め、批判的なスタンスの突っ込みは、 「たとえミキが許してくれても、おまえたちは自分を 許せないはずなのに、なぜプラネタリウム?」 ということなのでは?• 「すべてはオダユージのため」というのは、素子様命さんをはじめとして、何人かの方が書かれていましたね。 しかし、今日初めて会話を交わした男性と、ずっと以前からファンだった女性、どちらに対する感情が優先するかといえば、明らかに後者でしょう。 にもかかわらず、なぜオダユージを慰めることに懸命になるのか? コメディ映画ならではのご都合主義ととれなくもないけど、それを観客に印象づけるには弱いと感じました。 オダが犯人を見つけることにあまりにも躍起になりすぎて、皆が命の危険を感じていたという理由もあるかもしれませんが、それならなおさら火事の原因を作った彼らに復讐心を燃やしかねない危険性もあります(もちろんdookさんへの返信で書いたように、あの火事は単なる事故に過ぎないので、私はそのように受け止めませんが、オダのあのときの精神状態を考えると、こじつけてくる可能性は大いにあります)。 彼らが無理矢理推論を導きだした、という印象は持ちませんでしたねぇ。 なぜなら、メチャメチャ盛り上がっていたし。 「5人が偶然そろわなかったら解けなかった謎だよな」「いや、偶然なんてない。 すべて必然なんだ」というようなセリフがあり、そのあとのプラネタリウムのシーンでも、自分たちが導きだした解答に満足している様子がうかがえたからです。 いちばんラストの、1年後にジョーが推論を覆しているシーンでも、彼らは「ええっ、オレたちの推理は違っていたの!? 」というような驚いた表情に見えましたよ。 もし、きくちよさんが書かれている通り、単なるこじつけだったら、そんな顔はしないのでは? 私も、自分を恨むのは正しいとは思いません。 ても、そう受け取ってしまうのが、人間という生き物だと思うのです。 キサラギミキ結構好きかもさん> 如月ミキをバーチャルな存在としてしか見ていない...そういう割り切り方が気持ち悪いと感じるのです。 彼らにとっては、そう見えたのかもしれないけど、実際には彼女は生きていた人間なのですから。 私も、「頭は弱いがファンを大切にするアイドル」がいてもいいと思いますよ。 私は、ミキの存在自体を問題にしていないので。 あと、バーチャルであってもなくても、彼らがミキを大切にしているようには見えないのですが...• と、こんな感じで前回の書き込みをしました• ただ、そのとき私の方からレスするかどうかはわかりません。 時間がなかったり、気が乗らなければノーコメントとすることもありますが、書き込んでいただくこと自体は、まったくかまわないです。 ミキが「悲しんでいるファンを見たくない」と思うだろうというのは、私もわかるのです。 ただ、「死に行く相手が『悲しんでほしくない』と思っても、自分自身は涙を止められない。 それが、人間なんじゃないかなぁ」と私は思うのです。 たとえば、私が自分のまわりにいる人たちに「オレが死んでも泣かないでくれ。 早くオレのことなんか忘れて、幸せに暮すんだ。 わかったな?」と言って死にますよね。 そのあと、あの世へ行ってから地上を見下ろしたときに、ほんとうに彼らが涙を流さず、楽しそうに葬式していたら、私はすごくショックなんですが(汗) もちろん、いつまでもメソメソされるのは困るけど、かといってすこしも悲しんでくれなかったら、自分は愛されていなかったのかと悩むと思うのです。 浪花のロッキーさん> そうですね。 私も「ミキがどう思っていようと」の方だと思います。 プラネタリウムについては、「冗長」という意見がありましたが、それ以前の問題でしょうね。 そこで自分が楽なように思考停止しちゃうのが オタク的思考の一番ダメなところなんだよね。 「そう言っていただけるのはありがたいけど、 自分が納得できないので何かしら償います!」 ってのが人間の良心の基準だと思うんですよ。 気持ち悪いのは、この作品がこれだけ高評価って ことが象徴してるように、その辺の葛藤に関して、 楽なら楽で気持ちよけりゃいいじゃんって思想が、 この国の悪いけどこんな単館上映の映画を見るような デリケートな、他のどーでもいいエンタメ喜ぶような 層とは一線画してる良識持ってるはずの層に浸透 しちゃってるっていう、倫理レベルの低下なんだねー。 赤面しながら言うけど、思いやりとか温もりはどこに行ったの? 弱者に共感してなんぼのはずの真面目で心優しい映画ファンが 酷い目に遭った対象への同情や気遣いや葛藤ではなく それを眺める自分たちの心の平和の方を優先評価するって、 ものすごくえげつない凄惨な修羅の出来だと思うのよ。 あんたらのその心根こそが地獄をこの世に体現してる っていっても過言じゃないと思うんだけど、その辺どーよ?• その出来事が具体的にどんなものだったのか、後半で明かされますが、彼女はそのことを死ぬ間際まで引きずっている... その悔悟は、人間が持っている良心が生み出したものだと思います。 映画にはウソがあっていいわけだし、ましてやこの作品はコメディなのだから、ご都合主義が多いこと自体はちっとも問題ないではない。 ただ、それが人間の基本的な感情とか、物語の核心部分に及んでくると、受け入れられないですねぇ。 オタク思考に関しては、ちょっとよくわからなくて... 私は「年間200本の映画を観ているのなら、あなたもオタクですよ」と、このスレッドで指摘されたのですが、私がオタクで、家元たちの言動がオタク特有のものなら、私にも彼らがわかるはずだと思うのです。 ちなみに、オタクを主人公にした映画には「電車男」がありますね。 あの映画自体は、私はそんなにいいとは思わなかったけど、主人公の気持ちにはとても共感できるますよ。 あと、この映画を高く評価している人々が全員オタクかというと、たぶんそうではないと思うので、オタク云々はあまり関係ないのではないか? という気がします。 タイトルが『キサラギ』ということに。 この話、脚本はとてもよく出来てると思うんですよね・・・。 うまいなぁ、と。 ただ、私、韓国女優イ・ウンジュさんのファンだったために、『2月に』『自殺』『ヌード』『物入れ』というキーワードが次々出てくるたびに、もう本当に胸が苦しくて・・・。 似すぎてて。 偶然だと思うんですけどね・・・。 最初の『ぱ〜っと楽しみましょ』から、『・・・楽しめないんじゃないかなぁ』と思ったし、 私は1年目も悲しかった為)最後の歌い踊るシーンは、多分笑う所なのでしょうが、かわいい女の子の姿に涙が。 こういったことが無かったら、楽しめる映画だったと思います。 途中はかなり笑ったし、『おぉ』と思うところもたくさん。 かなり、個人的な感想ですね。 楽しみに行ったはずが、ちょっとズーンとして帰ってくることになってしまいました -o-。 もうちょっと人の命は大切に扱わないとね・・・。 如月ミキのようにアイドルとかではなく生まれたときから一緒に居た、大切な人です。 そのことを聞いたとき、一番に思ったのが 「くやしさ」でした、何故、もっと毎日会いにいかなかったのか、もっと一緒にいなかったのか。 こんなに身近で死を連想することが初めてだったので、本当に怖かったです。 それを踏まえて、如月ミキの死は、家元はまだしも他の四人はもっと、悲しんでもおかしくないですね。 自分たちなりのやり方でミキの死の真相に対してもっと何かしてあげてもよかったと思いました。 ただ、まだ引っかかるのがプラネタリウムのシーンなんですよ、なんでオダは急にプラネタリウムを切って、次の追悼式は無しにしよう、と提案したんでしょう?また五人で楽しみながら追悼しようとしたら、この提案はありえないとおもうのです。 私は、そのシーンに違和感を感じて勝手に推理して「ミキがかわいそう」に異を唱えたのですが、 やはりあのあとオダはなにかしらの責任をつけたんでしょうか? あの場でプラネタリウムを見て勝手に死の真相に決着をつけて罪を清算しようとせず、それぞれのやり方で責任をつけられるように、だとしたらこの作品の五人も思いやりややさしさがある良識ある人たちであったのではないか、と思います。 今回この作品には色々と勉強させられました。 他人と真っ向から意見を交じあわせながら、映画について、見識が変わりました。 もういちど今まで見てきた作品を勉強し直ながら再勉強していきたいと思います。 長文失礼しました。 指摘されてはじめて気がつきましたが、「如月」は旧暦の2月のことを指していたのですね。 まあ、コメディらしい設定ですね。 イ・ウンジュが自殺したニュースは、当時私もショッキングでした。 ただ、彼女のファンではなかったので、それほど引きずらなかったのですが。 映画と似ているのは、やはり偶然でしょうね。 もし、その事件を参考にしていたら、タチが悪すぎます... 私も見終わったとき、ズーンとなりました。 観ているとき、私は心の中で「もし、この映画がハッピーエンドで終わるなら、じつはミキが生きていた、という展開しかあり得ないだろう」と踏んでいたので、ハッピーエンドなのに死んだままで終わったのには、呆然としてしいましたね。 dookさん> そんなことがあったのですか... 大変な経験をされたのですね。 一命は取り留めたのでしょうか? どのような状態にあるのかわかりませんが、病気やケガなら、早く回復されるとよいですね。 身近な存在だった、というのは、この映画に例えるとミキと安男の関係に近いのではないかと思います。 「くやしい」というのは、よくわかりますよ。 私の場合、人ではないけど、愛犬が死んだときに同じことを思いました。 オダがプラネタリウムを切って提案したシーンですが、私はそれを覚えてないのですよ。 もし、再鑑賞する機会があったら、注意して観てみますね。 私もこの作品を通じて、いろんなお話ができてよかったです。 私は他の作品の掲示板でもいろいろ書き込みしていますので、機会があれば、またお目にかかりましょう! で、今日見させていただきましたが、おもしろかったです。 皆さんの言う「違和感」も理解できないことは無いのですが、オダがプラネタリウムのスイッチを切ったというのが結論じゃ無いでしょうか。 一人一人にスポットを当てたので楽しそうな回想シーンで終わっていますが、これ以上見たときに如月の死んだ前後に思いが届いてしまう。 オダは如月の自殺の責任も他殺の可能性も一番悩み考えていた人間です。 自分と同じ過去に囚われた人間になって欲しくない、後は各々個人で区切りをつけるために夕焼けがきれいだと話題を振って、涙を拭いたのではないでしょうか。 宍戸錠は結論を有耶無耶にするだけの存在ですし、あれはあれで良いのかなと。 ただ一視聴者として考えた時、そういう方向に思考が行かないようにする為、敢えて「ミキ」というパーソナリティを表に出さないように演出されているとは考えられませんか?事実、最後の最後になるまでミキの顔すら出さないようにしているし。 その辺の感じ方の違いがそのまま意見の違いになってるのかなぁと思いました。 あと若干話はずれますが上で浪花のロッキーさん達が仰っているような「オタク」に対する侮蔑的思考は如何なものでしょう。 「オタクはこういうもんだろ?」的なステレオタイプな思い込みが非常に不快です。 私も「キサラギ」を今晩テレビで観ましたが、なかなか良くできた良い作品だと思いました。 問題になっているプラネタリウムのシーンも、特に「酷い奴らだ」とは感じませんでした。 なぜかと言いますと。 (このスレで同じ内容が既出でしたら御免なさい。 長いスレなので全部を読んではいません) 彼らは元々、ミキの死を本当に悼む気持ちがあるから集まった人々です。 ミキのことを「かわいそう」と私たちに思わせるような奴らなら、始めからあの場に来ないでしょう。 では、彼らはなぜやってきたのか? それは(家元を除く)彼ら全員の中に「ミキの死は自分の責任ではないか?」という自責の念があったから、だと考えます。 特に元マネージャーのオダさんは、その自責の念から逃れたいがために「ミキ他殺説」なる説まで作り出し、犯人への復讐を誓うことで罪の意識から逃れようとしていたようにさえ見えました。 さて、このオダさんの「他殺説」によると、ミキは「殺された」ことになります。 「理由はともかく、ミキは何者かによって黒こげにされ殺された」と言う説なんです。 ある意味で、そう主張することこそ「ミキがかわいそう」ではあるのです。 それはともかく、話が進むうちにこのオダさんの説は「自身の罪悪感逃れのためではないのか?」と見破られ、実は「オダさんこそ、ミキにヘアヌードの仕事を受けることを迫り、彼女を心理的に追いつめ、挙げ句自殺に追い込んだのだ」という自殺説が浮上します。 「ミキは誰かに心理的に追いつめられ、黒こげになって自殺した」という説です。 この説もやっぱり「ミキはかわいそう」なんです。 そして再び話が進み最終的に、 「ミキは誰にも憎まれておらず、誰にも追いつめられたりもせず、ファンからの手紙を持ち出そうとして、事故死したのだ」という事故死説に落ち着きます。 なるほど、これならば誰も罪悪感を感じる必要がなく、むしろミキの死を美化できます。 ミキは、殺されたり、自殺したと言うのに比べれば、それほどはかわいそうではなくなります。 確かに、 「誰も責任を感じずに済む結論に落ち着く事に違和感を感じる」 という理屈は、誠にごもっともでありまして、私にも理解はできます。 しかし、彼らがそのような結論に達したのは、無意識的に罪悪感から逃れたいという責任回避的心理も働いたかもしれませんが、意識的、あるいは第一義的には 「ミキが何者かの暴力で理不尽に殺された」 あるいは 「誰かに心理的に追いつめられて自殺した」 という「死の真相」の方が、「遥かにミキがかわいそうだから」という故人を悼む気持ちから出たものではないでしょうか? すくなくとも私にはそであると思います。 ほとんど嬉しいとさえ感じてしまうかもしれません。 そのような人の心理は想像できないでしょうか? プラネタリウムのシーンはそう思ってみると、たぶん違和感がなくなると思います。 彼らはミキの死を一時たりとも悼まなかったことのない人々です。 1年も経過しているのに、未だに彼女の死を巡って、怒鳴りあったり殴り合ったりするような人々なのです。 ですから、ミキの死が事故死であって欲しいと考え、殺されたり追いつめられての死ではなかったと信じられたことを「思わず喜んでしまった」と、私は見ています。 そしてそのことが、彼ら自身の無責任な「罪悪感逃れ」に見えてしまい、不快だと感じる人が出てしまったのだということも理解できます。 しかし更によくよく作品を見ますと、事故死と信じても、まだ彼らは「それでも自分が〜していれば…」という言葉を述べ、故人を悼む気持ちや自責の念を引きずっているのが分かります。 それに比べて。 そんなことよりも、もっともっと私が腹立たしいと感じるのは、現実の方です。 この映画など全然ましだと感じます。 例えば私が、中学時代の同級生の訃報に触れ、通夜にお宅に伺ったりしますと、ほとんどの場合、私の見る弔問客達の多くが、その場を同窓会か、あるいは仕事の取引の場の延長か何かと勘違いしているかのように振る舞っているのを目の当たりにすることが多いのです。 違和感どころか、強い憤りを感じることがしばしばです。 そんな私が見ても、この映画の登場人物達は、そんな人達とはほ全然違って、故人を悼む心を強く持ち、その責任を引き受けようという潔い人達であると、しっかりと見えます。 むぎわら帽子のジミーさんの違和感が少しでも少なくなると良いと思い、書かせて頂きました。 長々と失礼いたしました。 私もこの映画を、ミキがかわいそうと見た者です。 5人の登場人物たちの感情に違和感も感じましたし、ラストのプラネタリウムの回想やダンスも「うーん」という感じでした。 ただ、それが一気に変わったのは、最後の最後で宍戸錠が出てきたシーンです。 「自殺でも事故でもない、他殺だ」 はっきり言い放ったところで、 5人の中に真犯人がいるんだと思った瞬間 私なりの解釈では 「あーだから違和感を感じるのか。 この人たち、誰も真実を言ってないのかも。 」や 「悲しみの薄い、あの人が犯人なのかも」 など、色々な推理がわいたからです。 つまり、真犯人がいる推理をさせるために あえて5人の違和感を作っているのではないでしょうか。 そこから考えると、私がファンだったらそんなことはしない、 あの人の反応はおかしい。 怪しいなど感じ コメディっぽくしてるけど笑えないと疑い、そこから謎解き思考に入れば 私は興味深い作品として見れるんじゃないかなあと、勝手ながら感じました。 いずれにしても、ミキがかわいそうには変わりないので 真犯人や謎解きは関係ないよと考えれば、あまり意味のない見解になってしまうので残念ですが…• 各自の顔のアップで感じられます。 「なぜ、死んだんだ」「俺のせいで・・」まさに、そんな展開になりそうなところをオダユージが断ち切ってますね。 結局のところ、そっちの描写をしっかり描いてしまうと、この映画のスタイルが異なるものになるからじゃないのかな?なんて思いました。 「オタクはこういうもんだろ?」的なステレオタイプな思い込みが非常に不快です。 思い込みじゃないだろ、ちゃんとスレ読めっての。 おれがステレオタイプに嵌め込んでる訳じゃないべ。 ちゃんと具体的な応酬があって引き出された見解だわさ。 あんたらオタク連中が、誰に言われたわけでもないのに 判で押したように同じ反応しか示さないだけのことだろ。 これがおれの思い込みにしか思えないなら、あんたは 自分を相対化して哂う余裕もないオタクってことだよ。 文句いうならおれじゃなくてお仲間の方に自重促すのが 先だって。 根本から順番を間違ってるってーの。 まあ、ネット弁慶の話題はいいとして・・ 結局のところ、「登場人物がミキの死亡事故に関わったのに嘆き悲しまないのが気に入らない」と言うことが否定派の主張のようですが 各々の行動はそれぞれミキに対してまったく悪意の無い行為から生じ、それらが偶然積み重なって死亡しただけです。 それに加えて最終的にはサラダ油と洗剤を間違えて撒いたと言うミキの行動が原因で死亡しています、これで責任の重さに嘆けというのは無理があるでしょう。 >それがどうして、プラネタリウムの星空を見上げたくなるような清々しい気持ちになるのか、理解できないです。 この映画を見て、そのような見解が(嘆き悲しまないのはおかしい)ほとんど出ていず多くの評価をされているということが全てです。 嘆き悲しまないから不自然で作り物のようだというならば観客は台本どおりに反応しているのでしょうか。 あの反応はありえるということの説明はこれで付いているので主論は終わりましたが、一応心理的な部分を書いておくと、最初に書いたとおり実際には責任はないようなもので、ファンなら悲しむべきと言う意見もありますが、それは求めすぎです。 悲しんで欲しいという気持ちが先行しているから出る言葉です、責任が無いなら自分を責める理由もありません。 もしこれが、原因不明の焼死だったなら話は違いますが、もうひとつ忘れてはいけないのは、この結論に達することが出来なければ、「仕事に疲れて自殺した」と言う結論で終わっていたことです。 それを避けて真実に辿り着けたことを喜ぶのは不自然ではないでしょう。 (オチで否定されていますが) 更に言えば、そもそも5人はこの説をそこまで信用していないということです。 あくまでマネージャーがミキを追い詰めたことによって自殺したという結論に達することを避けるために打ち出した案で、本来ならそれで説明も付くのです。 まあ、どんな作品にも賛否両論あるのは当たり前なのでわざわざレスする必要はありませんが、意外に意見が偏っていたのでレスさせていただきました。 ネタとして優秀。 道端のウンコが公衆衛生説いてるみたいなもんだよw• みんなが悲しんだりしない理由として、私なりの考えがあるので書き込ませていただきます。 彼らはアイドルの死についてさまざまな推理を交わし全員が納得する結論をだします。 すると、途中どんなことがあってもスッキリするもしくは興奮すると思うんです。 そのため、罪悪感や悲しみを感じなかったのではないでしょうか? そして、プラネタリウムを見て頭が冷えてそういったことに気づく前にオダがお開きにしたのだと思います。 そもそもこの作品は叙情的なものを追求する作品じゃなかった気が。 わかりやすいキャラ立てとしてスーパーアイドルとそのファンを持ってきただけなので、同じ構図が作れるなら別にアイドルとアイドルオタじゃなくてもいいと思うんだけど…。 それなのになぜオタクだから云々という話になっているのだろうか?? あと一部見苦しい書き込みがあるのですが、どんどん説得力がなくなってます。 上の方に、この作品が評価されてるので映画を観る人の倫理が低下していると書かれてるのもなんだかなあ。 人は死ぬと星になるってよく言うしw なにより 映画の最初の方に 家元のお宝に星空シリーズとかの写真集?があって そこでミキがプラネタリウムを持っている写真もあって (だからファンの家元がプラネタリウムを持ってたのかな?) 壁に映る星を見ながら 故人との思い出に浸っているのではないでしょうか?清々しい気持ちじゃないと思いますよ• ある時ある場所で正しいとされていた価値観が別の時や場所で弾劾の対象となることは珍しくありません。 また「五人がミキの死に対してあっさりしすぎている」というようなことも仰っていますが 人間にはどんなに苦しいことに遭遇したとしても それを良い方に受け取らないと生きていけないというようなことが確実に存在します。 現にあの五人は一年間の間苦しみ続け 真実が明らかになる直前まで互いに「お前のせいだ」というようなやり取りを繰り返していました。 そこでミキの死が自殺でなく事故だったという衝撃的な事実に対して本能的に「もうそろそろいいか」と いう気持ちになるのは人間としてとても自然な反応だと私は思います。 またハッピーエンドにするにはミキが生きてたことにするしかないというような言い方もされていますが 現実に愛する人を無くした人はそれでも生きていかなければならず、その為になんとしてでも良い方に考えるということが許されないのならば もうその人は死ぬしかないのです。 自分の罪を真っ直ぐ受け止めるという生き方は誰にでも出来るものではなく、ましてはこの五人は直接ミキを殺めたわけでもなければこの会合で明らかになった自分の責任についてはなんとか事実を受け入れています。 ここからさらに「もっと罪悪感を感じるべき」と言って責めるのはあまりに酷ではないでしょうか? おそらくむぎわら帽子のジミーさんはとてもまじめで責任感のある素晴らしい人間なのでしょうが 全ての人があなたのように生きられるとは思わないで下さい。 とここまで書いたところで誰も見ていないでしょうね ついさっきテレビでこの映画が放送されてるのを見てつい興奮してしまいました 我ながら馬鹿をやってると思います それでは• 新年早々キサラギやってたんで観賞しました。 私は悲しむ気持ちは沸いてきませんでした。 一年前の出来事でずっと引きずっている方も少ないのではと思います。 そもそも悲しむことをミキちゃんが望んでいないことを5人が一番理解しているのではないでしょうか? 上記の言い訳かもしれませんが…• まとめてレスさせていただきます。 オダユージが彼らのことを考える以前に、彼ら自身が気づかないのはヘンなのではないかと。 うまく演出でごまかそうとしているけど、私は根本の人間関係が描けているかどうかをしつこく観るので、そこに気づいてしまったんですよ。 あと、今まで書きませんでしたが、「オタクだから」という理由付けは、私も不快だし、そもそも関係ないのですよね。 オタクもひとりの人間であることに変わりはないので。 とてもうれしいです。 たしかに「他者に殺される」とか「自殺した」というのは、言葉では言い尽くせないくらい、痛ましい死に方だと思います。 しかし、事故死とはいえ、前向きに芸能活動していた女性が、つまらないことで死んでしまい、しかもファンの言動がそれに関わっていたというのは、もう気持ち悪くて仕方ないです。 少なくとも、うれしいとまで感じないです。 -------- 注・以下「ボーン・スプレマシー」の終盤の展開に触れています -------- たとえば、「ボーン・スプレマシー」に「ロシアの政治家とその妻を殺した主人公が、その娘に詫びる」というシーンがあるのです。 この事件は一般的には、「妻が夫を殺し、そのあと自分も自殺した」と扱われていて、娘も(おそらく)そのように受け取って生きてきました。 それを、主人公が「じつは殺したのは自分だ。 スパイとしての仕事だったんだ」と告げる訳です。 この場合、どちらも酷く悲しい出来事に変わりはないですが、相対的にどちらが悲しみの度合いが小さいかというと、後者の方でしょう。 前者だと、「母親は父を殺した殺人犯で、ふたりの間に自分の知らなかった不和があった」ということになるわけですから。 最後には、悲しそうに涙を流していました。 それは、彼女が主人公の気持ちを察したからではあるのですが、どちらにせよ両親が死んでしまった事実は変わらないからだとも思うのです。 -------------------------------------------------------------------------- あと、私には家元たちが当初からミキの死を悼んでいるようには見えなかったです。 序盤でオダも怒ってましたけど、彼らはふつうにオフ会気分でしたよね。 まちがっていたら申し訳ないです) それから、現実のお葬式を例に挙げられている件ですが、それをここで持ち出されても仕方がないと思います。 娯楽性の高い作品(あくまでも娯楽映画です)では、人間愛は現実よりオーバーに表現されるので、映画の演出として表現されたときに現実通りだと逆に違和感を抱いてしまうからです。 そういうわけで申し訳ないのですが納得できませんでした。 でも、私のことを思って書き込んでいただけたことには感謝いたします。 ありがとうございました!! なるほど、そのような解釈もあるのですね。 もし、つぎ鑑賞する機会があったら、そのことを考えながら観てみます。 だから推理メインの展開にしたいのであれば、彼らの設定をファンではなく、推理オタクということにして、ミキに対して感情を持たない人たちにした方がよかったんじゃないかと思うわけです。 そうではなくて、「責任がないのは理屈ではわかっているのだけれども、感情的にそう受け取ってしまうのが、相手に対する愛であり、人間という生き物なんじゃないかなぁ」という話なのです。 たとえば1作目の「スパイダーマン」で、「主人公が泥棒を見逃すという意趣返しをしたために、そのあとで主人公のおじさんがその泥棒に殺されてしまう」という展開があるのです。 主人公はその自分の行動を悔いて、やがて街を守るヒーローとして立ち上がることになるのですが、もし主人公が「たしかに泥棒の道を譲ったのは事実だけど、おじさんを殺した責任は僕にはないよ」とけろっとしていたら、観客は皆、違和感を抱くでしょう。 そういう話なのです。 この展開なら「仕事に疲れて自殺した」の方が、私にはまだましですよ(自殺を肯定しているわけではありません。 あくまでも相対的な話です)。 ちなみに、意見が偏っているのは肯定派の方々だと思うのですよね。 これだけ多くの人から高い評価を得ているわけですから。 私が見に行った映画館でも大爆笑の嵐だったんです。 でも、「どうしてこの展開で笑えるの?」というのが私の意見で、それに同意してくれているのは、このスレッドに投稿いただいたうちの、さらにその一部の方々だけなんですよ。 全体から見れば、すごく少ないのです。 死因によっては、そうでない展開もあり得ると思うのですが。 にもわかかわらず、この設定ではそうならざるを得ないところを、そうでないように描いている。 そこに不自然さを感じました。 なので、「同じ構図を作れるなら、アイドルとそのファンでなくてもいい」という意見には賛成です。 事実を悟ったときの家元たちの反応と、その後の気分なのです。 また、罪悪感を持つことを強制しているわけでもありません。 人間誰しもが持っている当たり前の感覚として、不自然すぎると言っているのですよ。 ひとつ例を挙げますが、最近「赤い糸」という映画を観ました。 そして、主人公は同じクラスのみんなから、「その責任はお前にある」と責めらてしまいます。 しかし、私はそうは思わないです。 誤解をして、勝手に飛び降りたのは、その友達なのですから。 その件で主人公が責められるいわれはないし、主人公を責めるのはまさに酷というものでしょう。 でも、主人公はなぜだか責任を感じてしまう。 それが、人間誰しもが持っている、当たり前の感情だと思うのです。 また、ポジティブ思考を否定しているわけでもありません。 たとえば、前に例に出した「いつか眠りにつく前に」や「テラビシアにかける橋」がそうです。 これでいいのではないでしょうか。 その悔恨が理由で死ぬ必要なんて、まったくないですよ。 ちなみに私はまじめでもないし、責任感もない、つまらない人間です。 そんな私でも、自分のアドバイスで誰かが死ぬことがあれば、必要のない心の痛みを感じてしまう。 そんな人間の性はまちがいなく誰にでも(もちろんEDさんにも)絶対あるはずですよ。 また、5人の出した結論は「アイドルとして追い詰められてセミヌード写真集を出さなければいけなくなったことに絶望して自殺した」よりはマシな結論です。 更に、この結論はあくまで推論であり、確定したわけでもなんでもない(加担したかもしれないし、してないかもしれない) この3点を踏まえると、悲しまなかったことに人間性がどうのと言い出すのは筋違いで誤った判断だということが分かります。 たとえばもし自殺説が正しいとしたら、結局それは、ファンレターを送り続けてプレッシャーを与えてしまった家元さんや人気を出そうと無理矢理色んな策を打ったマネージャー、写真集を出すことを止めなかったやっくんは、事故死説が正しいよりも嘆き苦しむことになります。 何故なら、自殺説の場合の方が、直接的に、あるいは大きく関わっているからです。 そもそも、何らかの形で関わったと言っても、最終的には「キャンドルを倒してしまって火事が起きた」のであり、明らかに5人は事故死説が正しかったとしても、ごく薄く間接的に関わっただけの話で、それを理由に嘆くほど関わったとは言えない。 >スパイダーマンの例え つまり、その例ほど深く関わっていないと言っているんです。 しかも、そのケースより悪い想定をしていたが、結論としては違った、というところが抜けています。 言わば「自分がビルを突き破った時に巻き込んで殺してしまった」と思っていたら「逃がしてしまった泥棒が殺してしまっていただけだった」となり、最悪の結論よりはマシになって、少し安堵したような状況です。 しかしそれは更に、そこでその泥棒を捕まえていれば死ななかったのだから、かなり直接的に関わっているが、今回の件は、例えばファンレターを送っていただけで、それを抱きかかえて死んでしまっただけであったり、ゴキブリは洗剤をかければ死ぬよ、とアドバイスしただけであったりと、明らかに話が違います。 そして更に決定的なのが、別にこの結論は5人が話し合って出した推論であり、確定すらしていないのです。 >自分のアドバイスで誰かが死ぬことがあれば、必要のない心の痛みを感じてしまう この言葉そのものは正論ですが、あなたはその範囲が広すぎると言っているのです。 あなたが今日散歩をしていれば、トラックに轢かれた子猫を助けることが出来たかもしれません。 推測が完成した時点で、彼らはそれが真実だと受け止め、プラネタリウムの星空を仰いで満足感に浸っているし、1年後にジョーが別の推論を披露したときに、驚いた表情をしていることからも、彼らは自分たちの推測を事実だろうと思い込んでいた(彼らの中では真実として存在していた)ことが明らかです。 もし、彼らが自分たちが導きだした結論を、数ある中のひとつの推論としてしか捉えていなかったら、満足感に浸ったりすることはないだろうし、ジョーの意見を驚きを持って受け止めることはしないはずです。 さらに、書かれているように、事故死より自殺の方が彼らの責任度合いが高かったとしても、序盤の(オダユージも指摘した)横断幕を垂らしたり、喪服を着ていないなど、本気でミキ死を痛み、誠実に弔おうとする様子がなく、楽しそうにオフ会を催そうとしているあたり、とても彼女の自殺を自分の責任として重く受け止めている様子がありません。 自殺したのは自分たちのせいだと感じ、それが事故死だとわかったときに重荷が軽減されたという展開にするのであれば、序盤はもっと重く描かれるべきだと思うのです。 素子様命さんなど、何人かの方が指摘された通り、たしかにこの作品は、ミキそのものがどうかということよりも、オダユージが向ける嫌疑の目を、いかに家元たちがそらし、殺人事件ではなかったと説得させるかがメインの展開になっています。 ですから、彼女の死については二次的な描写にならざる得なかったというのは、わからないではないのです。 しかし、それなら何も、最初の方に書いたように、家元たちをミキのファンという設定にする必要はなく、推理オタクという設定にして、必要以上に感情移入させない方法もとれたわけですよ。 しかし、彼らをミキのファンという設定にした以上、それがこの作品の大前提になっているわけですから、ファンとして彼女のことを特別な人間として慮ったり、気に留めたりする描写はほしいわけです。 どうして、死んでしまったことに変わりはないのに、プラネタリウムを見上げる気分になれるのか? 事件の謎が解けたという理由だけでは説明できないです。 結局のところ、冤罪にならずに済んで胸をなで下ろせる状況になったから、プラネタリウムを見上げる気分になれたとでもいうのでしょうか。 でも、それだったら、結局ミキのことはどうでもよくて、自分の保身しか考えていないことになり、私としてはやはり気持ち悪いのです。 つぎに、私が例に挙げた「スパイダーマン」の、ピーターの意趣返しが、結果として殺害事件につながった件についてなのですが、これは、通りすがりさんが書かれている「何らかの形で関わっただけなら、人は多くの殺人に加担している」に対しての一例であって、比較の問題は含んでいません。 あなたは、「人間、何らかの形で殺人に関わっているから、いちいち悲しんだり心を痛める必要はない」という立場をとられているわけですよね? ピーターのケースでも、まさか逃がした泥棒がおじさんを殺すとは予想できなかったわけです。 たしかに度合いは「キサラギ」のケースとは違うかもしれませんが、直接的だとはまったく思いませんし、「法律的には罪に問われないことを、自分としてはなぜだか罪に感じてしまう」という意味では同じですよ。 それに、推論であるということに、とてもこだわっておられますね。 何度も書きますが、それはまた別の問題であって、罪の意識を持つ持たないの話とは関係ないです。 たとえ推論でも、そういう可能性あるなら、私は気になって仕方ないですけどね。 「えっ! もしかして、自分のあのときの行動が死につながったの?」みたいに思いますよ。 それに、「スパイダーマン」の件でも、推論に近いものがあります。 ピーターはおじさんが殺されるところを見ておらず、観客も殺害シーンは見ていないのです。 警察が追っているから、あの男が犯人だろうと思って追跡し、捉えますが、同時に近い場所でも別の殺人事件が起こっていて、犯人を取り違えていたなんてことは十分起こり得ます。 たとえ推論であっても、その可能性が導きだされた時点で、罪の意識を持ってしまうものなのです。 これで納得されなければ、別の例を挙げます。 最後に。 ちょっと気になる部分があるので、お尋ねしたいのですが、最初の書き込みであなたは、「どんな作品にも賛否両論あるのは当たり前ですが、意外に意見が偏っていたのでレスさせていただきました」と書かれていましたよね。 ということは、否定的な意見に対しても、寛容な態度をとられている方だとお見受けしたのですが、そのつぎの書き込みでは「悲しまなかったことに、人間性がどうのと言い出すのは、筋違いで、誤った判断だということが分かります」と、私の意見を完全否定されています。 賛否両論あってもいいと書かれているのに、否定論を否定してくるというのは、意味が分かりません。 正直、すこし不快に感じてしまいました。 できれば、ご説明願いたいです。 「キサラギ」は大好きな映画で、DVDも買い何度も観ています。 初めは私も、ジミーさんが言われるように「ミキがかわいそう」と思ったこともありました。 まだ若いのに、なんともお粗末な事故で(推測ですが)黒こげになってしまうなんて…。 自分の好きなアイドルなんかに当てはめて考えたらとても悲しい気分になります。 ただ、正直ジミーさんのように「彼らは人間として、もっと責任を感じてしかるべきだ」とまでは思いませんでした。 なんでだろう…。 何度も観たはずなのに、その部分に一度も引っかからなかったのは。 皆さんが言われるように、直接関与している要素が少ないから、1年という年月が立っているから…などいくつか考えられるものはあります。 単に、作品に対する自分の見方が浅かったと言われればそれまでなのですが、たぶん作品自体の作りとしてもそこに深く感情移入させる作りにはなっていないからなのでしょうか。 で、おそらくそのへんのことが一番わかるのが皆さんが言われているプラネタリウムのくだりだと思うのですが、私はジミーさんが言われるような「清々しい気分で納得したように星空を眺めていた」様には見えず、きっとあの場面で、皆のあの見上げた表情の裏には色々な思いがあったんじゃないのかなと思うのです。 「顔で笑って心で泣いて」ではないですが、心の中ではきっと自責の念を抱いている人物もいたんじゃないでしょうか。 あの場面は音楽のせいもあってか、確かに清々しく過去を回想しているだけにも見えてしまいますよね。 でも、プラネタリウムを見始めたときの外の天気と終わった後の夕日を考えると、相当長い時間皆はプラネタリウムを見ていたような気がして。 きっと色々考えていたんじゃないかと…。 このへんはホントに受け手の勝手な解釈ですが。 だからこそ、この映画は最後のオチは無いほうが良かったと思います。 あの後、彼らは一体どうなったのか…前向きに生きていけたのか?それともやっぱり自分の責任を感じ、そんなに幸せになれなかったんじゃないのか?とか、あれこれ想像できたほうが面白かったんじゃないかと。 最後に。 ここの掲示板を見て、色んな人の色んな考えが知れてとても良かったです。 きっとここを見てなかったら一方通行的な見方でしかこの映画を見れてなかったと思います。 つたない文章でのカキコミ、失礼いたしました。 いま、時間がないので、手短かに書きますが、私は「彼らは人間として、もっと責任を感じてしかるべきだ」とは、ぜんぜん思っていません。 そうではなく、「責任を感じる必要がまったくないにも関わらず、なぜかそのように受け取ってしまう。 それが人間という生き物じゃないのかなぁ」という話なのです。 この点を誤解されてしまうと、ここでの議論は成り立ちません。 どうぞ、ご理解ください。 読み込みが浅くてすみませんでした。 ただ、よく見ると彼らは実際、劇中で何度もミキの死を嘆いていますし、まったく責任を感じる必要のないことを悔いていたりもするんですよね。 その部分を感じ取るか取らないかどうかはやっぱり個人差になってしまうのでここでこれ以上議論することはできないんだなあと思います。 それぞれ感受性や思考も違いますしね。 自分はもう何十回とこの映画を観てますが、観るたびに新しい発見や、新しい感情が湧いたりします。 映画って1回みただけじゃわからないものも多いし、結構細かい部分は忘れてしまったりするものですよね。 そのときの体調や気分でも捉え方が変わるし、同じ映画でも、5年後10年後と歳を重ねてから観るとまったく受け取り方が変わったりもします。 ジミーさんも、もしこの映画を1度しか観ていなかったり、しばらく観ていなかったら、もう一度じっくり観てみるのもいいんじゃないでしょうか。 嫌いな映画をまた観るというのは難しいかもしれませんが…。 もしかしたら新しい発見があるかもしれません^^• 回答がずいぶん遅くなってすみません。 以前、別の方にも書いたのですが、私には彼らがミキの死をそれほど嘆いているようには思えませんでした。 シナリオや演出以前に、この設定であの結末に持って行こうとしているところに無理があると感じました。 たしかに、書かれているように、人によって感じ方には個人差があると思います。 具体的に例を挙げると、たとえば「リメンバー・ミー」という韓国映画があるのですが、こ主人公が後半で、ある事実がわかってから取る行動があるのです。 その件について「なぜ彼女は未来を変えようとしないのだろうか?」という批判をしている人がいたのですが、私はその主人公の気持ちがすごくわかるのです。 彼女はいじけているのですよね。 しかし、私自身がそういう性格だから感情移入できたわけで、「なぜ未来を変えようとしないのか?」と疑問を投げかける人がいるのもわかるのです。 これは、受け取り方に個人差がある、ということだと思います。 しかし、「キサラギ」の場合、正直なところ、私から見ると、これが個人差なのかな? と疑問を持ちました。 人は誰でも、不必要な責任を感じてしまうものであるし、それが愛だと思うのです。 個人差があるから意見が分かれるというなら、そうなるはずです。 しかし、そういった批判がないということは、「愛を持っているが故に、不必要な責任を感じてしまう」ことが普遍的な感情である、と一般的に認知されているからではないでしょうか? もちろん私は、この作品において「愛がもたらす不必要な責任」をテーマにするべきだと意見しているわけではありません。 むしろまったく逆で、そういった感情を抱かせない方向に話を持って行かなければならないのに、結果的に感じなければ納得できないシチュエーションを描いてしまっているところに問題があるのではないか? と指摘しているのです。 だから(最初に話がもとるのですが)、「愛がもたらす不必要な責任」の必要性を感じさせない展開にするのであれば、オチをブラックユーモアにするとか、あるいは家元たちを推理オタクという設定にして、ミキとは何の関わりもない人たちということにした方が、この映画はもっともっと楽しめる作品になったんじゃないかなぁ、というのが、私の意見なのです。 ここで議論していて、どうしてもその提案が無視されてしまうのが、私には歯がゆかったです。 「もう一度観てください」というラッキーチャッピーさんのご意見なのですが、たしかに何度か観ているうちに理解できる作品はありますよね。 私もできればそうしたいのです。 しかし今、状況的に映画を観る気分になれないのと、仮に観たとしても、ここでの議論の歯がゆさが思い出されて正常に観ることができないと思いますので、しばらくはやめておきます。 これは、映画生活に参加されているみなさんへのお願いなのですが、私も映画ファンですから「自分の好きな作品を悪く言われたくない」という気持ちはとてもよくわかるのです。 でも、私はこの作品を貶めようとしているのでなく、改善案を提出するという前提で欠点を指摘しているわけですから、もうすこしポジティブに受け止めていただきたかったです。 ざっと拝見して思ったことを。 むぎわら帽子さんや、この映画に批判的な方々のおっしゃることは良くわかりましたし、お気持ちも良く判りました。 ただ、「人間は本来こうじゃなくちゃいけない」という偏った信念のようなものが、窮屈にも思えました。 愛する者の死に責任を感じてしまう者もいれば、感じない者もいます。 それは人それぞれであり、オタクがどうのとか人間的に欠陥があるとかっていうものではありません。 この映画に嫌悪感を抱くものもいれば、どうとも思わないものもいる。 それ良いんだと思いますよ。 (ちなみに、僕はどっちかというと違和感を持ったほうです。 ) むしろ、人それぞれという考えを拒否することの方が危険な感じがします。 世の中にはいろんな人がいるんです。 この掲示板の意見の二分っぷりがそれを如実にあらわしていると思いますよ。 >愛を持っているが故に、不必要な責任を感じてしまう」ことが普遍的な感情である ということは真実だとは思います。 ただ、それは一つの理想論でしかないとも思うんです。 自分がん?と感じたところは以下です。 『そこが上手く行っていないのが、この作品が失敗しているところだと思うのです。 』 失敗というのはどうなんだろう? 『私は「人間とはこうでなければならない」とは決めつけているつもりはないです。 また、罪悪感を持つことを強制しているわけでもありません。 人間誰しもが持っている当たり前の感覚として、不自然すぎると言っているのですよ。 』 誰しもが持っている当たり前の感覚と言っていることが、こう感じなければ普通じゃないよと言っているのと同意では? 『私はこの作品を貶めようとしているのでなく、改善案を提出するという前提で欠点を指摘しているわけですから・・・』 欠点という書き方が、、、 いろんな考え方、受け取り方があると思うと書かれている割に、自分以外の考え方を拒絶するような書き方をしてるなぁと感じます。 そこに反応している方も多いんじゃないかと。 サイトの存在を忘れていましたがふとした拍子に思い出したので書き込みを。 ずいぶん前のことのように思いましたがあれから4ヶ月しか経ってないんですね。 >むぎわらさん >彼らは自分たちの推測を事実だろうと思い込んでいた(彼らの中では真実として存在していた)ことが明らかです。 明らかではありません。 登場人物はこの推論を導いたあとに「推論かもしれない」「まだ何か隠してる奴はいないのか?今日言ったことだって本当かな」とそれを疑うような発言をしています。 全員かどうかは確認不可能ですが、少なくとも5人全員が推論を事実だと思い込んでいたということは前述の発言からして「明らか」などとは言えないでしょう。 >もし、彼らが自分たちが導きだした結論を、数ある中のひとつの推論としてしか捉えていなかったら、満足感に浸ったりすることはないだろうし、ジョーの意見を驚きを持って受け止めることはしないはずです。 推論の一つではあるが有力な説だと思っていただけでしょう。 しかしそれが真実だと決まっているわけではありません。 そもそも、驚いたことと推論は無関係でしょう。 本来であればミキは自殺したことになっているわけで、そこに鍵を持ってきて真相は他にあるなどと言われれば驚くに決まっています。 つまり、ジョーの意見を驚きを持って受け止めたからといって推論を正しいと信じ込んでいることにはなりません。 >楽しそうにオフ会を催そうとしているあたり、とても彼女の自殺を自分の責任として重く受け止めている様子がありません。 楽しそうにオフ会を催そうとしていたのは、自殺が自分の責任だと思っていない段階での話です。 ただアイドル業に疲れて自殺したと思っている状態の家元さんが楽しそうに追悼しようと思ったことと、自殺を自分の責任として重く考えていないかどうかは関係のない話ではないでしょうか。 >自殺したのは自分たちのせいだと感じ、それが事故死だとわかったときに重荷が軽減されたという展開にするのであれば、序盤はもっと重く描かれるべきだと思うのです。 そういう展開にすべきだと言ったわけではありません。 強い罪の意識から開放されてほっとしたことや悲惨な自殺ではないと発覚したことが、最後にプラネタリウムを見たり少しでも関わっていることへの罪悪感から意識が遠ざかる要因の一つになったと言っているだけです。 >家元たちをミキのファンという設定にする必要はなく、推理オタクという設定にして 私があなたや批判派の意見を見ている限りでは「人の死を推理の道具にしている映画なんて最低だ、そんな推理オタクを絶賛する者も人間性が疑わしい」などと言いそうでなりませんが・・。 >ファンとして彼女のことを特別な人間として慮ったり、気に留めたりする描写はほしいわけです。 追悼会を開いている時点で彼らにとってミキは特別な人間であると思いますが。 >どうして、死んでしまったことに変わりはないのに、プラネタリウムを見上げる気分になれるのか? 悲惨な自殺ではなく、類まれなる偶然の積み重ねと天性のおっちょこちょいによる事故死だったからです。 >冤罪にならずに済んで胸をなで下ろせる状況になったから、プラネタリウムを見上げる気分になれたとでもいうのでしょうか。 その見方はどうかと思います。 「冤罪にならなかったから」ではなく「追い詰められて自殺したのではなかったから」です。 >たとえ推論でも、そういう可能性あるなら、私は気になって仕方ないですけどね。 「えっ! もしかして、自分のあのときの行動が死につながったの?」みたいに思いますよ。 >それに、「スパイダーマン」の件でも、推論に近いものがあります。 ピーターはおじさんが殺されるところを見ておらず、観客も殺害シーンは見ていないのです。 スパイダーマンは見ていないので知りません。 あなたの文章がそう取れたのでそのまま転用しただけです。 >たとえ推論であっても、その可能性が導きだされた時点で、罪の意識を持ってしまうものなのです。 前にも書いたとおり、その言葉そのものは正論でしょう。 しかしあなたはその範囲が広すぎると言っているのです。 >これで納得されなければ、別の例を挙げます。 そういう意味で、その発言に対し「考えすぎだ」などと言うことは多分ないでしょう。 まあ、見ていないのでわかりませんが。 >賛否両論あってもいいと書かれているのに、否定論を否定してくるというのは、意味が分かりません。 賛否両論あってもいいですが、見た人間や作った人間の人間性について言及し批判するのハ映画への否定意見ではなく単なる人格攻撃です。 >正直、すこし不快に感じてしまいました。 できれば、ご説明願いたいです。 ミキが事故死したことについて罪の意識に嘆き苦しまなければ人間性が駄目だと言われるほうが不愉快です。 ミキの気持ちを考えるのもいいですが、この映画を評価している沢山の人間にも配慮しましょう。 個人差があるから意見が分かれるというなら、そうなるはずです。 私にしたレスではありませんが気になったので指摘します。 あなたはこのレスの部分で「そんなに簡単に割り切れるのであれば(愛を持っているが故に不必要な責任を感じてしまうという感情が普遍的でないならば)」前述した二つの映画は批判されているというレスですね。 この発言は次のあなたの発言を元にやはりあなたがキサラギに対して持っている感想がおかしいのではと言うことが出来ると思います。 >しかし、そういった批判がないということは、「愛を持っているが故に、不必要な責任を感じてしまう」ことが普遍的な感情である、と一般的に認知されているからではないでしょうか? 「愛を持っているが故に、不必要な責任を感じてしまうことが普遍的な感情である」というのが正しいならば、キサラギが絶賛されているのはおかしいはずです。 そういった感情が普遍的な感情ではないか、その感情はキサラギとは無関係かのいずれかであるはずです。 あるいは、あなたは必要以上に責任を感じてしまう加害妄想を持っているのかもしれません。 >ゲルググ氏 >愛する者の死に責任を感じてしまう者もいれば、感じない者もいます。 それは人それぞれであり、オタクがどうのとか人間的に欠陥があるとかっていうものではありません。 愛する者の死に自分が関与していたら責任を感じない人間などいないでしょう。 この作品の状況下で嘆き苦しむ必要はないと思うかあると思うかというだけです。 それは、あの状況を嘆くほどに関与していたと取るか否かということに集約されます。 >人それぞれという考えを拒否することの方が危険な感じがします。 世の中にはいろんな人がいるんです。 この掲示板の意見の二分っぷりがそれを如実にあらわしていると思いますよ。 なら最初から議論などする必要はありません。 価値観は人それぞれなんだから言い合いはやめましょうなどとでも言い出すつもりでしょうか。 議論にキリが無いのはまさにそこに問題があるからだと思うんですが…。 まさにそのとおりです。 だって映画評論じゃないもん、この議論。 だって映画評論じゃないもん、この議論。 そういう話ですか、それを理由にもうやめましょうというのなら言い分はわかりますがw これ以上続けたところで、ミキを可哀想と思わないなんて非情!酷い!おいしいスイーツがまずい!というようなことを延々言われたところで肩をすくめるしかないのは事実です。 申し訳ありませんが、今日募金をしなかったことでアフリカの子供たちが何人か水が飲めずに苦しんでいることを嘆き苦しむほど自意識過剰ではありませんので。 そして、自分はこれが愛だと思う、そう思わない人間は愛がない。 と決め付ける人間は自己愛にまみれているだけで他者への愛がないことに気付いているのでしょうか。 所詮、価値観の押し付けでしかないのです。 それこそ、所持金の全てを募金しているから私の方があなたより人間に対して愛がある。 と言っているのと何も変わりません。 条件が厳しければ、あるいは実行が難しいことをしているほど偉いなどというルールはありません。 何を持って愛とするかなんて人それぞれに決まっています。 ただ一つ言えるのは、自分の愛の定義を他人に押し付ける人間は愛がないということでしょうね。 あるいは、他者と比べて自分は愛情が深いという陶酔に陥っている、素晴らしき自己愛を持った人間なのかもしれません。 引っかかる箇所って人それぞれですね。 自分は基本的にひねくれてるんで みんなが絶賛する映画とかケチつけるし、ストーリー納得いかないっていうタイプですのでよくわかります。 このブログは基本的に否定意見なので、あえて肯定する人もいますよ、と書いてみたり。 嫌がらせとかじゃなくて、意見なんて人それぞれだってことを少し書いてみました。 通りすがりでいろいろすいません。。 そうじゃないと、見て不快になったりします。 世の中には基本的にはいい人ばかりと信じたいけれど、 いろんな人がいる。 ということでしょう。 えっと この議論は肯定派と否定派に分かれてて 否定派は アイドル如月ミキの死に関して追悼会に集まった 5人のファン(というか近親者)の行動原則に、 リアリティを感じられないから 良い作品とは感じられなかったということを言っているんですよね それで、その中の一部はそういった行動に嫌悪感すら感じるというわけですよね まず当たり前の話ですが、他人が感じた良い悪いは個人の感じた結果なのでとやかく言うつもりはないです。 ただこのスレを読ましてもらって思ったことを書かせてもらいます。 まず、死についての反応は観る人間の体験に大きく由来しているのではないでしょうか?僕自身、物心がついてから近親者が死んだという経験が無い為、ここで指摘されている事に思慮が回らずこの映画を肯定的にとらえていました。 なので家元以外のキャラクターの行動がリアリティに欠いたものなのかは判断できません。 ただ創作物としてキャラクターのとった行動はこれでよかったと思っています。 ここで議論されている事は、「子供向けの勧善懲悪のアニメで悪の組織に対しての大義を求めていること」と一緒だと思うからです。 そのシークエンスがあることで作品に深みは出るかもしれないが、ないことで駄作と認定するには至らないと思います。 次にこの作品のメインキャストの役柄がアイドルのファンである必然性についておもったことを書かせてもらいます。 僕が作品の鑑賞をした時に重要なファクターだと思ったのは死の意味です。 「当人は自身のアイドル活動に関して否定をして自殺したか?」というのがファンの目線として重要だったと思います。 なので、実質「如月ミキを懐かしむ会」から死の真相を迫る話し合いに発展したのだと思います。 そう考えれば話の結末として、事の真相に決着をつけた後に回顧することはおかしいとは思えませんでした。 なので、キャラクターがとった行動に対して別に嫌悪感も感じませんでした。 ちなみにファン心理として言わせてもらえば家元の反応は十分にリアリティがあるように思います。 僕自身ZARDというミュージシャンのファンでしたが(唯一発売したらCDを買うミュージシャン)彼女の死に対してのとらえ方に否定派の方々のような意見を求められても困ります。 最後に この映画を肯定的におもう観客の多さから日本の映画を憂うのは間違っていると思います。 単純にターゲットとしている層が違うから、死に対してのスタンスの軽さを問題にする作りになってないからです。 小栗旬、小出恵介がメインキャストなのは明らかに重厚な単館映画向け作品として作ってないのでは無いでしょうか。 僕はこの作品を「ポップな12人の怒れる男」だと思っているので黒澤映画「生きる」のような読後?観にならないかったことがとてもよかったと思っています。 映画評論から、人間の死への価値観まで様々な方向に話が進んでいて読んでいてとても興味深かったです。 なので、読んでいて自分が思ったことを言いたいと思います。 まず、僕はこの映画を3回見ていますが、プラネタリウムの場面への違和感は特に感じなかったタイプです。 ジミーさんの仰るとおり、人間は負うことのない責任を負ってしまうものだと思います、それは普遍的とまではいかなくても、多くの人間がその感情を持っている、と考えています。 しかし、僕が映画を見ていて主人公たちに否定的にならなかったのは、多分、主人公が悲しんでいる、というか彼らそれぞれが複雑な感情を含んでいる、と見えたからです。 少なくとも推理に満足している、清清しい・・・のようには感じませんでした。 これは憶測でしかありませんが、もし、ジミーさんと同じように彼ら4人の行動、言動がミキの死に対して不謹慎(悲しみの感情がみえない)という風に映っていたのならこの映画はこれほど高評価にならないと思います。 確かに父である香川さんの行動は今思えば軽いような気がします、しかし映画全体の雰囲気、バランスによってそれが気にならなかったのだと思います、点で見ればおかしな点は多々ありますし、僕自身なぜ彼らの行動に違和感感じなかったか、について、この場面が00だから、という風に説明する事は難しいです。 しかし、あくまで映画として2時間通しで見た上でどう感じたか?が僕は重要だと思うんです。 この作品は含みや観客側が想像する割合が大きいと感じました、なので個々の捉え方の違いによって皆様のように様々な感想がでると思います、でも映画の評価として登場人物の行動への倫理的な評価も必要だとは思いますが、それ以前に登場人物たちの行動がどのように観客に伝っているか、伝えられているか、が大きく評価に関連していると思います。 なので、僕はこの映画を評価します。 1年間、彼女を愛しながら失ってしまった悲しみを背負いながら生きてきた人達です。 彼らが『オタク』であるとともに、如月は作中何度も言われているように『アイドル』です。 作中でアイドルは『虚像』とも語られています。 特に家元に強く言えることですが、彼にとって今一番悲しいことはなんでしょうか。 この映画の彼らにとっての危機は、『アイドル如月ユキ自身がいなくなってしまうこと』です。 彼女が死んだという事実は1年間、彼らなりに受け止めてきた事実であり、ただ彼女が『アイドル』で有り続けていることが彼らにとっての支えなのです。 それが失われてしまうことが彼らにとってこの映画の中で直面する危機だと考えます。 謎が解けていくに従って、その『アイドル』像が崩れる危機に何度も直面します。 最終的には、彼女は彼らにとって『アイドル』でい続けたこと、つまり彼らの危機を拭い去ってくれたのです。 この先、レビューで触れられた原因を少しでも作ってしまったことに苛まれることがあっても、『アイドル』としてい続けてくれる安堵感にあの場は包まれるのも違和感がないと思います。 それにスタッフは彼女の顔を隠し続けることによって『虚像』であることも主張し続けてますし。 逆に否定派の方はオタクの気持ちを理解しきれてないのかなぁと思いました。 リアリティがないとか、悲しみ・悔悟が浅すぎるとか、全く考えてもみませんでした。 私がこの作品を肯定できるのは、5人の気持ちに共感できるからです。 ファンの立場からすれば、応援していたアイドルが自殺するのと事故死するのとどっちが精神的に楽でしょうか?私の感覚としては、事故死の方が楽です。 幼馴染や男友達 雑貨屋 、生き別れの父親からしても、同じだと思います。 「焼身自殺よりかは事故死の方が楽」という考え方です。 マネージャーとしては、自分のせいで自殺したのではないと考えることによって救われるでしょう。 集まった5人は、「自分の抱いていたイメージの中でのアイドル もしくは、人間 らしからぬ」焼身自殺という衝撃的な死に方に納得ができず、受け入れられずにいたのだと思います。 その思いを1年間も抱えながら生きてきて、焼身自殺ではなく事故死、「いかにもアイドル如月ミキらしい不運な」事故死という結論が出て、みんなが救われたのではないでしょうか? 結局、プラネタリウムを見るシーンで清々しさが感じられたとすれば、それは如月ミキが焼身自殺するような自分の「イメージと違う」人間ではなく、最後まで「イメージ通りの」アイドルだったということが分かったからではないでしょうか。 もちろん、その清々しさは一時のものかもしれません。 その後で「自分のせいだ」という後悔が襲ってくるかもしれません。 でも、5人の中での人間としての如月ミキのイメージは守られたのです。 5人にとって、それほど嬉しいことはないのではないでしょうか。 そのような見解、自分は思いつきもしなかったので。 ですが読んでいるうちに超個人的意見ではあるのですがこう私は感じたのです。 ファンや家族、友達、恋人にとって、愛している人が亡くなった時に何を1番求めるか。 それは「その愛する人が幸せに最期を迎えられたかどうか」ではないでしょうか。 彼ら5人が推理を始めた時「この話はやめよう」と言いあっていました。 これ以上に心に秘めていた失った悲しみや絶望に効く薬があるでしょうか? けれど先ほどのご意見にありました疑問の回答を名乗るには本題に入っていませんね。 本題に入りましょう。 ですがこちら、ご意見によってはとてもいやな後味になるかもしれない考えですのでご了承ください。 確かに彼ら1人1人に「自分が行ったことによりミキちゃんが亡くなったと」いう後悔もあるでしょう。 しかし考えてみてください。 もし自分がそのような状況におちいります。 愛する人は自分が行ったことが一端となり亡くなった。 だがしかし「他の人」が行った「愛ある行動」も一端となって亡くなったようだ。 それならばきっと、自分がしてしまった後悔にあたる行為はさほど大きいものではないのではないか。 なぜならば「4人もの人達」から「愛ある行動を受けていたのだから」。 」 そう。 精神的な方面の話になりますが、とりわけ日本人は「たとえ愛あるものだとしても自分が行った過ちにはひどい後悔の念に襲われ」やすいと思います。 ですが同じような状況の過ちでも「他人が行った愛のある過ちには寛容を覚えやすい」と思うのです。 しかも自分以外の「他人」がこの場合「4人」にもなりますからね。 これは要は「他人がした「寛容のできる」過ちと自分がしてしまった「過ち」は同じではないか」と自分の後悔ある過ちを寛容できる過ちと同等化して、寛容したのではないか、ということです。 まぁつまり自分1人が間違えたらすごく恥ずかしくても大勢と一緒に間違えたらそうでもない。 そういう様なことではないかと。 長々言いましたが結局の私の個人的意見はこのようなものです。 多人数の愛と思いやりの積み重なった不幸な事故によって一人の人間が悲惨な最期を遂げた、というこの劇中で書かれた出来事を単体で取ってみた場合、 それは非常にブラックではありませんか? また如月ミキというアイドルが若くしての焼死という、肉体的に非常に存在感のある残酷な死を遂げており、 更に最後の最後で顔を出してしまうという演出の結果、せっかくここまで顔の描写を避けることで 虚像のアイドルという概念、幻想としてのみ存在していた彼女が、この演出で 明らかな身体性を帯びてしまったことは明らかな演出ミスであると断言できます。 顔のない存在であった、言ってしまえば物語を動かすための道具でしかなかった彼女に ここで明確な人格が与えられてしまうのです。 彼女如月ミキは、なんだかよくわからない「いたらしい」アイドルではなく、 存在する一人の人間になります。 これはキャラクターにとっての視点ではなく、観客にとっての視点です。 いまのいままで、誰かの語りのうえでしか存在できなかった彼女が、ライブといういわば「私たち観客がよく知っているふつうのアイドル」の構図を固定カメラで撮られることで、 一瞬ではありますが、彼女が「現実に存在しているかもしれないアイドルであり、一人の人間」として機能してしまうのです。 キャラクターの考えについて述べると更に長文になってしまいますので、ここでは述べませんが、 上記の機能が果たされたあとも、そのうえで彼女の死を「軽いもの」と扱い続ける映画それ自体に、他の方の言葉の繰り返しになりますが、 私はどうしようもない気持ち悪さを感じてしまいました。 つまらない事故かぁ。 そーかなぁ。 どんな事故ならつまらなくないんだろ。。。 事故や、病気、あるいはその外。 人の死なんてつまらないもんですよ。 感動的な死なんてむしろリアルじゃないんじゃないかな。 投稿者様はそういう人間のリアルな心理描写が気になるっておっしゃるけど、自分も経験から一周忌ならこんなもんじゃないかなって思いますよ。 (市川中車はさすがに実家帰るか、墓参り行けよ、とは思いますが。。 ) 今生きてる5人がそれぞれの大切な人(アイドル)の死に向き合い、また決別し新しい一歩を踏み出した、かも。 っていうエンディングは悪くなかったかなぁ。 最後は蛇足だけど。 笑える部分も多分にあったしね。 この映画低評価な人って人の死について理想持ちすぎなんじゃないかな。 もしくは大事な人の死に遭遇したことないのかな。 どんなに大事でも一年過ぎて自分責めれるくらい人間高潔に出来てないよ 笑• きっと、誰も見てないのかもしれないですね。 でも、まとめてみなさんの意見を拝読させていただき、迷走しつつも、本題をという気持ちがひしひしと伝わってきて楽しかったです。 個人的にはアイドルと言うモノは身近な様でいて。 実は遠くて。 故にコアなファンは胸に虚像を抱いたまま。 個人としての死もアイドルとしての死も、受け入れていない部分があって。 だから浮かれた追悼パーティとか、企画してみたり。 結果は違っていきましたが。 プラネタリウムはその虚像の象徴で彼女の人となりを表したもので。 5人の持っている彼女のイメージが間違いではなかった、と言う表現でしかなかったように思いました。 彼等の受容段階の一歩を表す表現でもあると感じました。 苦しむのはきっとこれから、です。 ミステリーで被害者をかわいそうと思うのは、自由だし。 構成を疑問に思っても、いいんじゃないかなぁ。 各個人が感じる違和感は、あくまで、個人のものなので。 この映画が見せたかったものはなんなのか? 監督、脚本の意図は? と考えると、完全ではない完成品かと。 今時でも良くある形。 この映画がハッピーエンドとして見えたのでしたら、それは驚きです。 一貫して悲劇しか描かれてないので、ね・・・ 悲劇をどの様にミステリーとして伝えるか、と言う手法としては良作 ハッピーエンドにほんとに見えるんですか?• これだけ多くの人から高い評価を得ているわけですから。 私が見に行った映画館でも大爆笑の嵐だったんです。 全体から見れば、すごく少ないのです。 もし、再鑑賞する機会があったら、注意して観てみますね。 返信を投稿• ゴキブリを退治する方法を教えてもらい台所用洗剤を撒いたのが、じつは食用油で、疲れた果てたミキはマネージャーに「もうダメ」と間違い電話をして、そのまま寝てしまう。 「事故死」という結論でした。 もし、私が安男だったら、「あんなアドバイスをしなかったら、ミキは死ななかったかも?」とか、あるいは家元だったら「ファンレターを出さなければ、彼女は逃げられていたかも?」と悔悟の念にとらわれると思う。 でも、私としては「あんなつまらない死に方をして、ミキがかわいそう」という印象の方が強いです。 私がミキのファンだったら、絶対そう思います。

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映画家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。ロケ地・撮影場所(榮倉奈々目撃情報アリ)

妻 が 死ん だ ふり を し てい ます ロケ 地

あらすじ [ ] 1722年、9人の皇子達による皇位争い「 ()」の末、がの後を継いだ。 それは清の第5代皇帝・雍正帝の時代の幕開けと同時に、皇帝の寵愛を巡る妃嬪たちの激しく哀しい諍いの始まりでもあった。 の娘・甄嬛()は秀女に選出され、後宮入りする。 そこは皇帝の寵愛を巡り、皇后と大将軍の妹・が勢力を二分する女の嫉妬と陰謀が渦巻いていた。 後宮で平穏な暮らしを望む甄嬛だったが、皇帝から寵愛を受けることにより華妃とその一派から激しく嫉妬され、冷酷な罠を仕掛けられる。 数々の危機を乗り越える甄嬛だったが、失うものも多かった。 やがて身も心も疲れ果て後宮を後にする。 外の世界で待ち受けていたのは、皇帝の弟・果郡王との安らぎのひととき。 甄嬛は真の愛を手に入れるが、それは新たな悲劇の始まりでもあった。 果郡王の訃報を知った(のちに生存が判明する)彼女は、報復のためそして、果郡王の子を産み守るため、再び後宮へ戻った。 そこで目にしたものは、相も変わらず激しい諍いを繰り広げる、妃嬪たちの姿だった。 皇后の陰謀で窮地に立たされた甄嬛だったが、逆に彼女から後宮の実権を奪うことに成功する。 だが、皇帝の疑心は果郡王へとむかう。 甄嬛は身の証として果郡王を毒殺することを命じられる。 自身の盃に毒酒を注ぐ甄嬛だったが、果郡王は盃を自らすり替え毒酒を飲み干し息絶えた。 復讐を心に決める甄嬛。 やがて皇帝は病に倒れ、最期の時を迎えた。 枕元で甄嬛は、亡き沈眉荘が産んだ公主が温侍医の子であることを告げ、止めを刺す形で死に追いやった。 皇后は皇太后の遺書が公開され、辛うじて廃后を免れたが、雍正帝の信頼を失い、一生を宮で終える。 新皇帝の即位で、「聖母」の称号を得た甄嬛。 長くつらい諍いから解放され、平穏な日々を送る。 清朝側室制度 [ ] 清朝における側室の順位は、以下のようになっている。 皇貴妃(定員1人)• 貴妃(定員2人)• 妃(定員4人)• 嬪(定員6人)• 貴人(定員なし)• 常在(定員なし)• 答応(定員なし)• 官女子(定員なし) 登場人物 [ ] この節のが望まれています。 子女:実子:朧月公主(父は雍正帝、敬妃に扶託)、六阿哥弘曕、靈犀公主(実父は果親王) 養子:四阿哥弘暦(実母は宮女、のちの乾隆帝)、静和公主(沈眉荘と温実初の子) 主人公。 莞の封号は故・の愛称である「菀菀(菀と莞は同音)」に由来する。 容姿、性格が似ている主人公と純元皇后を重ねていた皇帝から寵愛を受け、皇帝からは「嬛嬛(ケイケイ)」と呼ばれる。 登場初期では後宮の残酷な争いに衝撃を受け病気と称して引きこもっているが、一度皇帝に認識させられると破格の待遇で侍寢前に貴人に昇格する。 その後第一子を妊娠するも華妃の虐待をきっかけに流産してしまう。 華妃の死後、再び懐妊。 妃冊封儀式の際、皇后の策略により純元皇后の衣装を着てしまったことで皇帝の怒りを買い、昇格を白紙にされ禁足させられる。 皇帝は自分を純元皇后の代わりとしか視てないことに失望、朧月公主を出産後公主を敬妃に扶託し出家、廃妃とされる。 だが出家先にも皇后の手が及んでおり、痛めつけられた上に山奥の庵に追い出される。 庵では果郡王と結ばれ妊娠するが、前後して果郡王が死去の報をきかされる。 さらに恵嬪により父親が病で危ないと知らされた甄嬛は、子供と家族を守り果郡王の報復を行うため、宮廷に戻る決意をする。 皇帝が自分を忘れずにいる事を利用し来訪を誘導、腹の子を来訪で懐妊した皇帝の子と偽る。 その結果鈕祜禄(ニオフル)甄嬛と名を改め第四皇子・弘暦の母として後宮に戻る。 寧嬪がけしかけた猫襲撃を利用し早産のタイミングで双子を出産。 貴妃に封じられる。 再び寵愛を得た後は皇后側と水面下の攻防となる。 皇后側の祺貴人から温医師との密通を訴えられ、「後宮裁判」となる。 この際、いったん窮地に陥るも機転を利かせ、逆に祺貴人を冷宮へ追いやる。 しかし、この後宮裁判は、雍正帝に弘曕の父親についての疑いを芽生えさせることにもなった。 4度目の懐妊は不安定だが、これを利用し、流産を皇后の仕業と見せる事に成功、皇后は謹慎処分になる(その後の皇后との攻防は皇后の項を参照)。 後宮の第一人者となり平穏もつかの間、かつて果郡王と山奥で助けたジュンガル部の新ハーンが停戦の条件に甄嬛の嫁入りを要求。 雍正帝の疑心が再燃する。 果郡王の対応で皇帝は二人の仲を問いただすに至る。 続く果郡王の出兵で、疑惑を深めた皇帝は三年後、果親王の処分を実行。 身の証として甄嬛自身で果親王に毒薬を飲ませるよう命じる。 甄嬛は自らの盃に毒酒を注ごうとするが、それに気付いた果親王は盃をすり替え服毒、死去。 この殺害の報償に「副」の位を賜る。 皇帝への復讐を心に秘め、志を同じくする寧嬪が薬物を使用するのを黙認、皇帝を衰弱させる。 ついに病にたおれた皇帝が弘曕の血液を再度調べさせた事を聞き、今しかないと決意、寧嬪と連携して皇帝を死に追いやる。 養子・乾隆帝の即位で、「聖母」の称号を得る。 同じ選秀で選ばれ入宮。 同時期に入宮した6人の内一番早く皇帝の寵愛を受ける。 またその温和な性格より将来の後宮をまとめることを期待される。 しかし、この寵愛が華妃の嫉妬を生み、真夜中に呼び出され、灯りを減らされた室内で書類を書き写させられた上、宮からの帰り道に池へ突き落とされたり、妊娠してないにもかかわらず妊娠を偽装され皇帝の怒りを買い、答応へ格下げられてしまう。 さらに追い討ちをかけるように、華妃の陰謀で疫病に感染。 一時重体に陥るが、温太医の治療により回復。 数々の酷い虐待を受けた事からのちに、「(華妃から)数々の仕打ちを受けたからこそ、私も鬼になれたのよ」と振り返っていた。 偽の報告をした医者の白状により貴人へと復位するが、この時の心の傷が癒えず、皇帝への不信感から仲は冷え切り、中後半期までほぼ皇帝と接触がなくなる。 代わりに病気の太后のもとに通い世話をするとともに、太后の助けを借りながら甄嬛を助ける。 唯一頻繁に顔を合わせる温太医に恋心を抱き、年答応が起こした碎玉軒放火事件で火傷を負った際、火傷を治す薬湯を処方されたが、温太医に会いたいためわざと火傷の治りを遅らせ、後に酒がはいった勢いで結ばれ妊娠。 すぐに皇帝とも機会をもうけ皇帝との子供を妊娠したと偽装する。 甄嬛の双子が雍正帝の子供ではないとする事件が発生した際に温太医が自宮をはかったことに気を失いそのまま破水。 今際の際、彼女に「皇后と陵容に気をつけるように」と言い遺し、靜和公主を産むものの死去。 のちに地府(長官)へ昇格。 )であるが、もとは香料を扱う商人。 子女:なし。 (流産1回) 家柄の低さに引け目があり、また容貌も皇帝の目には止まらなかったが、太后の一言と髪の花にとまった蝶が皇帝の興をさそい後宮入りを果たす。 甄嬛の妹分として甄嬛を慕い、その美声を駆使して一時皇帝の寵愛を得るが、同時に華妃からは甄嬛一派の一員として敵視され、皇帝と過ごす華妃に妓女扱いで歌での奉仕を強要される。 その褒美として与えられた玉を使った呪いの人形を隠し持っていたことを皇后に見つかり弱みを握られる事になる。 重ねて父親が県令の汚職連座で投獄された際、皇后の口添えで父が助かったと考えたため、皇后の一派となる事を決心。 特技の香料調合を用いて皇后の陰謀の実行・幇助役を務める。 皇帝の前では甄嬛と「姉妹同様」として付き合い続けるが、裏では様々な策を弄する。 複数回にわたる流産促進、恵貴人との離反策、その他多数。 また、甄嬛の父が収監された牢に病を感染させたネズミを放つ等、その家族に対しても害をおよぼした。 密かに媚薬を用い皇帝の寵愛を得続けるが、皇后によって、伽の翌朝には必ず避妊薬を服用させられていた為、子はいない。 父親の公金横領が発覚、その救済を皇后に嘆願し策として懐妊を促す薬を服用し妊娠するが、飾られたユリの花に吹き付けられた媚薬成分に反応した皇帝の夜伽を受け入れて流産。 また皇貴妃の調べで皇帝に対し禁じられた媚薬入りの香を使用した事が発覚。 それを皇帝に報告する場でかつて熹妃へ送った軟膏にの成分が含まれている事も暴露される。 媚薬の件では流産に同情気味であり穏便だった皇帝も、長年姉妹の情を裏切り続けていた腹黒さを目の当たりにして激怒、奉仕人無しで宮に監禁されてしまう。 その後、宮を訪れた甄嬛に今までの自分の経緯を話した後、杏仁を大量に摂取し「皇后、皇后殺皇后(つまり、皇后が皇后を殺すという意味)」という謎の一言を遺し自害する。 子女:なし。 (流産1回) 皇帝から最大の寵愛を受ける後宮の実質的権力者。 太監の周寧海を用いて邪魔する者を次々と迫害していくなど寵愛を得るために手段を選ばない。 兄である年羹堯の兵力を警戒している皇帝と皇太后により、懐妊しないようにひそかに麝香が大量に配合された歓宜香という皇太后手製の香を特別に賜っている。 それが原因で妊娠できなくなっていることを華妃は知らない。 過去の流産も、同様の理由から皇帝と皇太后のひそかな指示により、当時華妃の親友であった端妃が協力したのであるが、これを端妃の単独犯と思い込んでいるため、端妃に仕返しとして紅花を飲ませて妊娠できない体にし、その後も虐待し続ける。 豪奢を好み万事に派手なため、倹約令の出た後宮で資金調達の為に兄年羹堯への口利きと引き換えに大金を得るという収賄をしている。 皇帝皇后の不在中、妊娠中の甄嬛に「流産しない程度の刑罰」を与えたつもりだったが流産を引き起こしたため、残酷とされ一時封号を剥奪・降格させられる。 まもなく復活するが、年羹堯失脚後に甄嬛の策略により曹貴人よりすべての悪事が告発され、首領太監周寧海が慎刑司(使用人の刑罰を司る部署)での拷問の末にこれまでの悪行の数々を告発したことにより答応に格下げされる。 甄嬛に復讐するためその宮殿に放火を図るも、それを逆利用した甄嬛と眉荘により大火事になり重罪に問われた。 結果冷宮に送られ皇后により自死を下される。 最期まで皇帝の愛情を信じていたが、冷宮を訪ねた甄嬛から「年一族ゆえに寵愛を示し利用しながらも妊娠を許さなかった事実」を知らされ、悲しみのあまり泣き叫びながら部屋の壁に自ら頭をぶつけて死亡。 子女:大阿哥(夭折) 養子:弘時(第三皇子、実母は斉妃) 表向きは理解ある公正な後宮の主として振舞う一方で、裏では自分の地位を守るために手段を選ばない。 息子が夭折した際に、姉を寵愛していた皇帝より見向きもされなかったことに嫉妬し、妊娠した自分の姉(純元皇后)を殺害に追い込んだが皇帝には知られていない。 実は庶出である事に、コンプレックスを抱いている。 華妃死後は後宮で圧倒的な権力を保持、第三皇子の生母である斉妃を策略により自死に追い込み、自らが第三皇子の母となり皇太后の位置をねらうも、第四皇子の方が英明な事を知り毒殺しようとするが失敗。 甄嬛回宮後は甄嬛との争いを激化させ、祺貴人を使って「後宮裁判」を引き起こすが失敗し、その後懐妊した甄嬛の策にはまり危害を加えたとされ謹慎処分を受ける。 たまりかねた侍女の剪秋が太監の江福海と共謀し独断で甄嬛と第六皇子の毒殺を謀り、その取り調べ中に過去の悪事(妃嬪が産んだ皇子たちを殺害等)がすべて明るみに出る。 特に「純元皇后の毒殺」に激怒した皇帝により廃后および冷宮送りにされそうになるが、竹息(後述)が持参した太后の遺書と純元皇后の死後の遺言により廃后は免れる。 ただ、自身がこれまでに賜った宝印・宝冊を没収された上「朕と皇后は死んでも見(まみ)えぬ」と事実上の離別を言い渡された。 物語終盤、皇帝が病に倒れ「お見舞いに訪れたい」と要望するも、それすら拒絶された。 皇帝が崩御した後、泣き暮らしていたことから目を患っている事が明らかに。 乾隆帝の即位式の直後、皇太后(甄嬛)から「あなたは妃嬪の墓に入れる・名前は記録(歴史書)に残さない」と告げられ、彼女が帰った後「滑稽だわ! 」と号泣し翌日目を開けたままで死んでいるのが発見される。 武家豪族の家柄を鼻にかけ選秀前から傲慢な態度である。 選秀女の際、彼女にお茶をかけてしまった安陵容を執拗に虐待する。 入宮後は勢力関係を見誤り、華妃をないがしろにする態度を取る。 初めての皇后への挨拶の際、華妃により「一丈紅」を賜り下半身不随になる。 その後は冷宮に送られ物語には登場してこない。 (沈貴人のセリフに出てくる)(流産1回) 甄嬛入宮時点で、皇帝からの寵愛はあるが流産直後の設定。 甄嬛入宮後は中後半期まで出番は少ないが、後宮にあって珍しく率直な人物として描かれる。 華妃が曹貴人からこれまでの悪事を暴露され、捨てセリフを吐いて景仁宮から出て行った後に「長年、のさばってくれたものね」と憤っていた。 出家前の冷遇されていた時期にも、甄嬛と挨拶を交わす等、立場で態度を変えない人柄である。 甄嬛回宮後、甄嬛に棋の横暴を訴えて助力を求め、甄嬛は情報整理後に欣貴人に味方することを決める。 以後、甄嬛派の一人として甄嬛を支えて行く。 甄嬛との策略で病気を自称していた祺嬪が宮女・太監たちに暴力をふるう現場に皇帝を連れていき暴力を目の当たりにした皇帝により祺嬪は降格、入れ替わりに儲秀宮の主位となり管理を任される事になった。 実家を通じ安嬪の父親の不正を皇帝に訴えるにあたっても、そのタイミングを甄嬛に相談していた。 最終回には宮中で余生を送る姿を見せる。 子女:なし。 (流産歴もなし。 ) 年羹堯排斥後に功臣の娘として入宮。 父は年羹堯排斥に功績があった瓜爾佳鄂敏。 当初は甄嬛を慕うとみせて碎玉軒に引越までするが次第に態度を変え、甄遠道が鄂敏に陥れられ罪人となって以降は皇后派として甄嬛に敵対する。 使用人への暴力的な面を皇帝に目撃され「主位に値せず」と貴人に降格、謹慎となる。 謹慎を解かれ皇后の指示を受け「後宮裁判」を引き起こすが敗れ冷宮に送られる。 生家の瓜爾佳氏が失脚し、雨の中冷宮から脱走。 皇后に助命を懇願しようとするが皇后は黙殺し、養心殿まで走りたどり着き皇帝に家族の助命嘆願をするが皇帝は聞き入れず、彼女の命だけは奪わず庶人にする決定をした。 直後に蘇培盛の指示で宦官たちから蹴り殺されて死亡。 養子:温宜公主(実母は曹貴人) 最古参妃。 華妃に自分の子供を堕胎させられる薬を飲まされたと勘違いされ、迫害を受け続ける。 物語初期では常に病気療養中として表に出てこない。 華妃への復讐に純元皇后に似た甄嬛を利用し、かつ擁護しながら華妃を孤立させていく。 華妃の死後は甄嬛派の一人として数々のシーンで主人公を擁護し窮地を救う。 華妃が死後に賜った諡号が「敦粛(「敦」とは「穏やか」という意味)」であったことから、「皮肉な諡号ね」と生前の彼女の気性の激しさを振り返っていた。 敬妃同様、子供がなかったため曹貴人の死後。 温宜公主を自らの養子に。 陵容の懐妊後、敬妃や他の妃嬪と共に昇格し側室第一位の皇貴妃に昇格する。 直後、陵容の流産で不審を抱き、調べたところ、彼女がかつて熹貴妃に送った怪我を治すに、強力なの成分が含まれている事を突き止めた。 皇帝が病に倒れた直後、連日看病していた。 皇帝の死後皇貴太妃になるが、再び病がちになり温宜公主に看病されている事が敬貴太妃から明かされた。 養子:朧月公主(実母は甄嬛) 温厚で慎ましやかだが芯の強い女性。 皇帝も一目置いている。 子供がなかったため、甄嬛が出家した際にその女児(朧月公主)を預かり実の子のように育てる。 甄嬛が宮廷に復帰後、朧月がなつき離れないこともあり情が移り、皇后の策略で甄嬛と仲たがいさせられそうになるがその後、熹妃に「華妃が突出しないよう、均衡を保つため妃の位を賜っていた。 皇帝からの寵愛を受ける事も無く、淋しかったが、朧月がいたおかげで、幸せだった」と寵愛されなかった淋しい日々と朧月への愛情を涙ながらに訴えた。 窮地を脱し更に寵愛を得た甄嬛により、罪を許された上で公主が成人するまでの教育も依頼され、甄嬛への忠誠を誓う。 以後は甄嬛の片腕として貴妃に封じられ共に後宮管理を任され、敵対する皇后を失脚へ追いやる手助けを行う。 ) 第三皇子弘時の生母。 視野が狭く愚か。 一時寵愛を失った莞貴人を血がでるまで殴らせるなど虐めるが、寵愛を回復した際すぐに謝罪に向かうなど軽率な言動が目立つ。 第三皇子が皇帝になった際に太后になるという野望を抱くが、その考えを皇后に知られる。 皇后の暗示の下、当時寵愛を受けていた寧貴人に棗の汁物を届けて妊娠できない体にするが、皇帝に露見。 皇后に助けを求めるが、知らぬふりをされ第三皇子を巻き添えにしないため自ら首を吊り自害する。 ) 温宜公主生母。 華妃派の一人。 前半では華妃派の頭脳とみられており、献策をすることで華妃派を支える。 甄嬛が華妃の虐待により堕胎後、最大の寵愛を得る甄嬛に脅され、甄嬛への忠誠を誓う。 年羹堯失脚後は華妃の悪事のすべてを告発し、死に追いやる直接の原因となる。 その功績を評価され嬪に昇格する。 後に、華妃の処遇をどうすべきか尋ねられた際、殺すべきと述べ皇帝と太后にその冷徹さを警戒され、密かに少しずつ毒を盛られ、毒殺される。 甄嬛と皇帝との雪の大晦日・紅梅園での出会いを目撃、甄嬛になりすまして一時寵愛を得る。 その後、甄嬛に対して傲慢な態度を取っていたところを皇帝に咎められ、官女子に降格。 甄嬛に恨みを抱き、華妃の手下として甄嬛に薬物を盛る工作をするが、発覚。 甄嬛が、素知らぬふりで紅梅園の話をし、皇帝になりすましがばれて自死を賜った。 最終的には小厦子の手で絞殺され死亡。 (流産歴不明。 ) 華妃派の一人。 余答應に指示を出し甄嬛を毒殺しようとするが、余が処刑され、その黒幕を引きずり出そうとする甄嬛の策略(亡霊騒動をでっち上げた)にはまり冷宮送りにさせられる。 後に冷宮で気が狂い、ボロボロの姿で割れた鏡をのぞき込みうっとりする様子が描かれる。 富察貴人(富察儀欣) 演 - 居住宮殿 - 富察貴人 子女:なし。 (流産1回。 ) 満軍旗出身。 入宮当時は周りと距離を置き無関心を装っていたが、同時期に入宮した6人の内一番早く子供を宿し傲慢な態度を顕す。 皇后の策略により安陵容の撒いた香によって凶暴になった猫に飛びつかれ、流産してしまう。 以後は寵愛を失った甄嬛を虐めるが、再度寵愛を得た甄嬛に呂皇后の人豚の話を例えにあげて脅され、恐怖のあまり気が狂いその後物語に一度も出てこない。 (流産歴もなし。 ) 元果郡王の侍女。 甄嬛の3番目の妹に目をつけた皇帝の注意を逸らすため、果郡王の側福晋になっていた浣碧により送られる。 皇后が催した、三阿哥の福晋(清代で夫人の称号)選びのための公開お見合い当日、彼に見初められ後日求愛されるも拒絶する。 後に、三阿哥の恋文が見つかり無実を訴えるが、三阿哥の面子を守る皇帝により皇子を誑かした罪により死を賜る。 (斉妃から届けられた、棗の汁物を飲んだため妊娠できない体に。 ) 元は円明園の馬馴らしで、幼少の頃命を救ってくれた果郡王のことを一途に慕っている。 縛られる事を嫌う自由きままな性格であり、うわべだけの付き合いを嫌うために礼儀知らずと映り、他の妃嬪たちからは煙たがられている。 自身の宮では、鳥や猫を山ほど飼育している。 雍正帝に見初められ後宮入りするも、自分の意志を全く無視して後宮入りさせた皇帝を嫌っており、笑顔も見せない。 そのため、皇帝からは「傲慢で冷淡」と言われていた。 夜伽の際は自ら避妊薬を飲んで妊娠しないようにしていた。 斉妃から届けられた棗の汁物を、怪しいと知りながらあえて飲んで、妊娠できない体になった。 中秋の宴の際、中座した熹貴妃と果郡王のやりとりを立ち聞きしていて、嫉妬のあまり甄嬛を殺害しようとするが、甄嬛の腕に果郡王から贈られた貴重な珊瑚の腕輪を発見、果郡王が熹貴妃に真の愛をささげている事を悟り、その場から引き下がる。 「後宮裁判」の際、窮地に立たされた熹貴妃を救うため、浣碧たちを手助けした。 終盤、夏刈(後述)が第六皇子の血液を採取しているところを目撃。 慌てて第六皇子と公主を保護し、貴妃に報告。 双子が果郡王の忘れ形見である事を知り、驚くと共に貴妃への協力を誓う。 果郡王を第一に考えており、果郡王の毒殺を甄嬛に命じた皇帝を殺害するため毒薬を飲ませ殺し、新帝の即位後。 自らも自害する。 年羹堯が失脚していく過程で、兄である年羹堯を擁護するために華妃よりさし向けられて皇帝の寵愛を得て答応になる。 答應になったあとも、華妃にそれまで通り仕える忠義者でもある。 年氏が降格した時に官女に戻った。 甄嬛と同じ宮殿に住み、甄嬛を姉のように慕う。 17歳を迎えた冬。 ついに皇帝と侍寝した。 甘いものが好きで天真爛漫。 昇位を控えていたが、華妃と年羹堯部下との間の賄賂の話を聞いてしまい、周寧海により溺死させられる。 没後、仕えていた宮女が「泳ぎの得意な小主が、溺死するはずがない」と甄嬛に訴えた。 貞嬪 演 - () 居住宮殿 - 貞嬪 第56話から登場の嬪。 皇后派で祺嬪の手下。 康常在とともに寵愛を失った安陵容を虐待する。 康常在と共に陵容の宮へ押しかけ、「魔よけだ」と称してお札を張ったり清めと称して水をかけたりなど、いやがらせを実行する。 後宮裁判の際には祺嬪に同調した発言をする。 結局、甄嬛の子供たちに関する無責任なうわさをまき散らしたとされ、減給処分される。 康常在 演 - 居住宮殿 - 康常在 第56話から登場の常在。 皇后派で祺嬪の手下。 貞嬪と行動を共にする。 離宮の部屋で皇帝と寛いでいた答応の内の一人と思われる。 皇帝が病に倒れた直後、侍衛と私通していて、情事の最中。 たまたま宮を通りかかった敬貴妃と欣嬪に見つかり不義が発覚。 即刻捕らえられ、謹慎処分に。 病床の皇帝の怒りを買い、死罪を言い渡された。 清皇族 [ ] (愛新覚羅胤禛) 演 - 早逝した、 純元皇后(先述)を深く愛しており、亡き后に良く似ている甄嬛を見初め、寵愛する。 だが妃に昇格する儀式で純元皇后の衣装を着た(皇后の策略に、気付かなかった)甄嬛に怒り、禁足とする。 その後、甄嬛とは疎遠になっていたが、果郡王が戦場で死亡した(のち、生存が判明)事がきっかけで後宮に戻った、甄嬛に熹妃の位を与え、再び寵愛する。 幼い頃、母后と隆科多(後述)が密会している所を目撃。 その事が原因で心に深い傷を負い、そのため不義には厳しく、厳罰も辞さない。 物語後半、貴妃と果郡王(後述)の関係を疑い、夏刈(後述)に調べさせた上で果郡王を毒殺させた。 その後、第六皇子が亡き果郡王の子である事を確信。 その直後、病に倒れた。 危篤状態に陥り、密かに果郡王を愛していた寧嬪から止めを刺す役目を託された貴妃に「いくら(皇帝が)憎いとは言え、温侍医の子である静和公主は立派に育てます。 眉荘さんも、草葉の陰で喜んでいる事でしょう。 」と静和公主の出生の秘密を明かされ、激怒。 彼女に止めを刺される形で憤死した。 (烏雅成璧) 演 - 皇帝の母。 皇后とは同族で叔母。 皇后のこれまでの所業を知っているが、一族の名誉の為に黙って庇っている。 高齢のため、病気がちで臥せっている事が多く、恵貴人がしばしば通って世話をしている。 甄嬛が甘露寺でつらい日々を送っている事を恵貴人から知らされ、自分の宮女・竹息を寺へ遣わせた。 昔、皇帝の「叔父」(実は嫡母の弟)で長年の功臣・隆科多(後述)と密かに結婚の約束をしていた。 選秀女の直前に隆科多から「皇帝(当時 )は青色がお嫌い」と言われ、青色の衣装を着て宮女選びに挑んだが、実は康熙帝は青色が好きだったため、心ならずも妃嬪に選ばれてしまう。 しかし、いよいよ二人の仲を疑う皇帝に隆科多が粛清される事態になり、差し入れを装い幽閉された隆科多を密かに訪問、毒殺する事で口を封じ潔白を証明した。 毒殺されそうになった、第四皇子・弘暦に助けを求められ自身の宮に匿い、犯人は皇后だと確信。 「このままでは、子供たちが減る一方だ」と危機感を抱き、皇帝を呼び出す。 この未遂事件で「第四皇子には母親が必要だ」と甄嬛を呼び戻しその任に当てる事を示唆する。 同時に殺人未遂の黒幕でもある皇后には暗にやり過ぎぬよう釘をさす。 「後宮裁判」からしばらくして、危篤状態に。 隆科多の件や皇弟たちへの非情な仕打ちを皇帝に対して恨みながら、この世を去った。 雍正の十七番目の弟。 甄嬛を一途に愛する皇子。 甄嬛が甘露寺に出家した際に手助けを行う。 その後甄嬛と結ばれ子供を授かるが、それを知らないまま、川で船が沈没し、朝廷には死亡したと伝わる。 これをきかされた甄嬛は、悩んだ末、後宮へ戻ることを決心するが、実は沈没自体がジュンガル部の策略であり、その際にジュンガルに捕えられて生存していた。 果郡王がジュンガルから逃げ出し、甄嬛に再会した時には、すでに後戻りできない所となっており、甄嬛のお腹の子供の父親が自分だとは知らされないまま、別れる事になる。 最期は二人の仲を怪しんだ雍正帝により、甄嬛はその手で果郡王に毒酒を飲ませ潔白の証とするように命じられる。 この時、甄嬛は自らが毒を呑むように酒を注いだのだが、これに気づいていた果郡王は甄嬛を守って毒の入った方の酒杯をのみ干し愛を貫き死亡する。 慎貝勒(愛新覚羅允禧) 演 - 康福震 第二十一皇子。 皇宮に来たばかりの熹妃の妹・玉嬈と思いを寄せ合い嫡福晋として迎える。 彼女との間には娘しか生まれておらず、果親王の遺児・元澈を養子に迎えることに。 演 -王民 皇帝の弟。 皇帝の弟。 皇帝との仲は良好でしばしば宴席に呼ばれている。 皇帝の没後、葬儀にて貴妃が遺言を代読する事に不満を露わにし、允禧と言い争いに。 先帝に最も寵愛されていたが、宮廷から出て出家している。 甄嬛が出家して甘露寺に移った時に知り合う。 お茶をごちそうになった際、彼女が皇帝から下賜された長相思の元の持ち主である事を知る。 糸が切れた事を知り、修理を申し出た。 果郡王の死(のちに生存が判明)を聞かされ、食事を取る事も出来なくなり、さらに甄嬛から「允礼の復讐のために、皇宮に戻る」と聞き、ショックを受けるが、亡き息子の遺児を守るため甄嬛の決意を受け入れる。 孟靜嫻 演 - 居住宮殿 - 果郡王側福晋、沛国公の女、元澈の生母 果郡王に想いをよせており沛国公の希望もあって、側福晋となる。 果郡王との子供を授かるが、皇后の侍女の剪秋が甄嬛とその皇子を殺害するために入れた毒を飲んでしまい命を落とす。 甄玉嬈 演 - 、声優 - 居住宮殿 - 慎郡王嫡福晋 甄嬛の3番目の妹。 性格は豪胆で率直。 容姿も美しく甄嬛より純元皇后に似ており、皇帝に妃嬪になるように求められる。 しかし、当時後宮内で親しくなった慎郡王允禧と思いを寄せ合っており、皇帝の申し出を断る。 その後正式に慎郡王嫡福晋として嫁ぐ。 果郡王の没後、孟氏が産んだ元澈を引き取り育てている。 懸命にアタックするが高飛車な性格や子供が嫌いなことで選ばれることがなかった。 剪秋から「まずは側女からはじめてみては?」と勧められるが、皇后が嫁いだ当初に側福晋だったことを挙げ不満を露わにして断ったことが、皇后の怒りに触れ、今度は第四皇子・弘暦の側福晋候補に挙げられた。 後に乾隆帝の即位で妃となり、皇后(富察氏)と共に皇太后の元へ挨拶に伺った。 皇后から皇后の姪との縁談を薦められるが、父帝の妃嬪である瑛貴人に恋をしてしまい、恋文を渡そうとしていた事が発覚。 その事が原因で、瑛貴人は死罪を賜り自身は長子という事で罪を免れたが、父帝からの評価が下がる事に。 その後弟の弘暦の言葉に乗せられ、父帝に不遜な八皇弟や十四皇弟を許すよう懇願。 父帝の怒りを買い、嫡出皇子の身分を剥奪され「八皇弟の息子にする」と命じられてしまい、皇位継承から外されてしまう。 早くに母親と死別。 そのため皇帝からはあまり省みられず宮廷ではなく離宮である圓明園で淋しい生活を送る。 避暑のため皇帝たちと圓明園にやって来た甄嬛と知り合う。 成長後皇帝に認められるため学問に励んでいたが、彼の英明さを警戒した皇后から毒入りの粥を送られ代わりに食べた宮女が落命し、あわてて恵嬪を通じ皇太后に助けを求める。 甄嬛の回宮後、甄嬛の実子という扱いになり甄嬛の養育を受けることになる。 甄嬛を慕っていた弘暦は、甄嬛を守り従うことを誓う。 甄嬛の子ということで雍正帝からも目をかけられるようになり、その才能を認められる。 成人後乾隆帝として即位。 弘曕(愛新覚羅弘曕) 甄嬛の子。 第六皇子。 実は果郡王との不義の子。 霊犀と双子。 腕白で機転が利く。 成長後凝暉堂に住み、弘暦が皇帝に即位後皇太后である甄嬛の「果親王の跡継ぎとなり」という提案を承諾し、のち親王の爵位を与えられる。 朧月公主(愛新覚羅綰綰) 甄嬛の長女。 一時期、後宮を去った甄嬛に代わり敬妃に養育される。 甄嬛回宮後も敬妃になつき離れないため、その後も敬妃の元で暮らしている。 甄嬛の策略で皇后が甄嬛に手をあげる現場を目撃し、皇帝に証言。 謀らずも、皇后の失脚の片棒をかつぐことに。 温宜公主(愛新覚羅良玉) 曹貴人の娘。 父帝の没後、再び病を患い寝たきりになった養母の端皇貴太妃を看病している事が敬貴太妃から明かされた。 静和公主 沈眉荘の娘。 眉荘亡き後は、熹貴妃の養女に。 霊犀公主(愛新覚羅韞歓) 甄嬛の次女。 貴妃が果郡王との間に儲けた、双子のうちの娘。 物語終盤、雍正帝の命を受けた夏刈から双子の兄弟である第六皇子の血液を採取された時、一緒に眠っていたが偶然目撃していた寧嬪に保護された。 侍女 [ ] 崔槿汐 演 - 甄嬛の侍女。 後、蘇培盛夫人 甄嬛が入宮時より献身的に仕える掌事宮女。 後宮に仕え始めた頃は衣服を洗濯する部署に配属され、真冬に手が凍傷になりかけた際に、たまたま側を通り掛かった純元皇后が槿汐を哀れに思い、後に別部署に配属させた。 その事から純元皇后に恩を感じており、容貌が似た甄嬛に忠誠を誓う。 後に甄嬛が出家する際もついていき、その忠誠心と能力から甄嬛の片腕的存在。 甄嬛が後宮に戻る際、かつて太監の長である蘇培盛より求婚を受けていたこともあり、それを受け入れることで裏から甄嬛の後宮への再入宮を支える。 再入宮からしばらくして、敬妃の密告で蘇培盛との仲が発覚し、皇后により慎刑司へと収監され苦役を科されていたが、端妃の口添えにより放免。 皇帝にも蘇培盛との仲を認められたため、甄嬛が双子を出産後、正式に蘇首領太監と結婚。 その後も、甄嬛の下で仕えている。 浣碧 演 - 甄嬛の侍女。 実は甄嬛の腹違いの妹であるが、母親が罪人の娘なので公にはされていない。 姉妹でありながら、待遇が違うことに対して不満を持っている。 それを曹貴人に付け込まれて甄嬛を裏切る。 しかし父親が甄嬛に実の妹であることを話していたと知り、同時に皇帝に見染められた場合のリスク、将来の為の配慮等、姉の深い思いやりを聞いてからは献身的に甄嬛を支える。 果郡王に恋心を寄せている。 皇帝が「側室にしてやろう」ともちかけたが、浣碧は「思い人がいる」と辞退した。 その後、皇帝の宴席で浣碧が酌をしたタイミングで果郡王の懐から秘蔵の袋が落ちる。 中身は甄嬛の切り絵で、果郡王の恋心が露見する危機となる。 その際 自らが果郡王の想う女性だと名乗り出て、果郡王の側福晋の座を得る。 この事件で浣碧は両者を庇ったようにみえる。 が、袋を落としたのも浣碧の故意かもしれない(のちの寧嬪のセリフより)。 事実は不明。 嫁入りの際、正式に甄嬛の2番目の妹になり、鈕祜祿玉隱に改名。 果郡王に嫁いでからは、清涼台にある邸を取り仕切る。 皇帝の目にとまった熹貴妃の3番目の妹から皇帝の関心をそらすため、郡王邸に仕える侍女(瑛貴人)を皇帝に差し出す。 果郡王が亡くなり、出棺の直前に「私を捨てて逝かないで!」と叫び、号泣しながら棺に頭をぶつけ、後を追うように亡くなった。 流朱 演 - 甄嬛の侍女 甄嬛に幼い頃より仕える侍女。 入宮時も従う。 活発な性格で甄嬛を献身的に支え、姉妹同然の待遇で仕えている。 後に甄嬛が禁足の際、意識を失った甄嬛に医師を呼んでもらおうとして、護衛兵の刀に身を投じた。 その深手により死亡。 剪秋 演 - 楊凱淳 皇后の侍女。 皇后に仕える侍女。 忠誠心が強く、情報収集が早い。 妃嬪達も一目置く皇后の右腕。 終盤、貴妃が流産した件で皇后が謹慎処分を受けた際、「主(あるじ)がこれほどまでの辱めを受けるのは、許せない」と言って太監・江福海(後述)に「鶴頂紅(砒素華)」を調達させ、甄嬛とその息子を毒殺しようとする。 料理が運ばれる途中で呼び止め毒を盛るという「捨て身の毒殺手段」に出るが、果郡王側福晋・孟氏が先に毒を口にして死亡。 皇帝の前に連行された際、爪に仕込んだ同じ毒で自害しようとしたが、寧嬪に気付かれて果たせず、慎刑司で拷問を受ける羽目になった。 慎刑司では針刑などの拷問を受けたが、皇后への忠義をつらぬき口を割らなかった。 もっとも彼女が苦しむ様子におびえた江福海が全部白状してしまったので、無駄に痛い思いをした事になる。 寶鵑 演 - 梁芸馨 安陵容の侍女。 安陵容に仕える侍女。 彼女が入宮した当時から、献身的に仕えている。 貞嬪と康常在から虐待を受ける陵容を守り、泳嬉の訓練にも付き添う。 安の悪事露見の際「使用人のうち、親しいものは死罪」と命じられた事から、死罪になったと思われる。 佩児 演 - 翟蓓蓓 欣貴人の侍女。 元は甄嬛の下で仕えていたが、後に欣貴人の侍女に。 だが、儲秀宮の主位である祺嬪の虐待に遭い、腕を負傷。 甄嬛の出家後、共に彼女の元で宮女をしていて、陵容の下へ移った菊青(後述)が亡くなった事を明かした。 菊青 演 - 李夢洋 安陵容の侍女。 元は甄嬛の下で仕えていた。 陵容の身を案じた甄嬛が陵容の許で仕えさせた。 甄嬛の出家後、しばらくして亡くなる。 凧児(前述)が「遺体を確認したら、毒殺されていた」と言っているので 安の指示で毒殺されたと推測される。 景泰 演 - 祺貴人の侍女。 向かいの宮から水を撒いた、欣貴人の宮女に対し「悔しかったら、陛下を取り戻してみたら?」と侮辱。 孫竹息 演 - 田淑梅 皇太后の侍女。 長年皇太后に仕える侍女。 恵嬪から「莞嬪が甘露寺でつらい日々を送っている」と聞いた皇太后から、彼女の元へ遣わされる。 皇太后が密かに隆科多を訪問するときにも、付き添った。 皇帝との仲が冷えたままの恵嬪を案じた、皇太后の命で恵嬪に酒を差し入れした。 熹貴妃と第六皇子毒殺未遂事件直後、皇后が皇帝から召喚され言い争いの末、皇帝が「冷宮送りにする」と書に認めていた最中、養心殿を訪れ、故・皇太后の遺書を持参。 「鳥粒那粒氏を廃してはならぬ」という遺詔を代読。 「皇太后の遺言を、無視してはなりません」と皇帝を諌め、皇太后の後を追わなかったのも、この遺言のためだったと告白した。 さらに、純元皇后の遺言にも「妹(皇后)を大切にするように」とあった事から、純元皇后のためにも皇后を許すように諭した。 玢児 演 - 李群 熹貴妃の実家で仕えていた侍女。 かつて貴妃の実家に仕えていたが、甄家没落後は祺貴人の実家に買い取られ、祺貴人の使用人の妻となる。 後宮裁判では祺貴人に暴力で脅され、熹貴妃に不利な証言をさせられるが、強要であったことがわかり、温情がかけられ罪に問われなかった。 後に果郡王の側福晋として嫁ぐ浣碧の侍女となる。 斐雯 演 - 程楠 熹貴妃の侍女。 双子出産後、窓を開け放していたことを咎められ、皇帝に口答えしたために罰を受けた。 不満を見透かした皇后により、剪秋を通じて貴妃を裏切る様に仕向けられる。 後宮裁判では温実初と貴妃に私通があるかのような不利な証言をする。 貴妃の潔白が証明され、清白と共に死罪となった。 茯苓 演 - 馬千芳 恵貴人の侍女。 円明園で眉荘に仕えた侍女。 実は曹貴人(または華妃)の手下。 皇帝が眉荘の元を訪れた際、皇帝の目の前をコソコソ横切ってわざと捕えられた。 その際「眉荘の妊娠は偽装であり、月事(月経)で汚れた下穿きを隠せと証拠隠滅を命じられた」と嘘を証言した。 手先になった茯苓自身は死罪。 如意 演 - 汪晴 敬貴妃の侍女。 敬貴妃と共に庭を歩いている最中、第三皇子・弘時が瑛貴人に迫っている所を目撃し、貴妃の命で2人の様子を調べ報告。 数年後。 雍正帝が病床に臥している最中に、孫答応が侍衛と密通していた事を小允子を通じて貴妃に報告してきた。 太監 [ ] 周寧海 演 - 華妃の太監 片足が不自由。 華妃の手足となり、華妃の寵愛の敵となるものを抹殺、傷つけていく。 最後慎刑司で拷問を受け、華妃の行ってきたことのすべてを自供する。 蘇培盛 演 - 雍正帝付き首領太監 長年雍正帝に仕える太監。 時には、皇帝を諌める発言をする事も。 後に甄嬛の侍女崔槿汐と通じ、再入宮を手助けするが、敬妃の密告により情事が発覚。 彼女と共に捕らえられ、慎刑司へと送られるが、端妃の口添えで放免。 再び皇帝の首領太監として仕える事に。 釈放後。 熹妃出産の後、皇帝に認められ正式に夫婦となる。 小允子 演 - 甄嬛の太監 甄嬛入宮時より仕え、元碎玉軒の碎玉軒首領太監・康祿海が冷遇される甄嬛の下を去った際も残る。 功夫の使い手でもあり、以後甄嬛を裏で支える。 寧嬪からの知らせで、第六皇子の血液を採取していた夏刈を口封じのため、殺害した。 江福海 演 - 劉洋 皇后の太監 長年皇后に仕える太監。 のち、慎刑司に捕らえられ、拷問の末、これまで皇后が行ってきた悪行の数々を自供する。 小厦子 演 - 李璐兵 皇帝の太監 蘇培盛の弟子。 冷宮で自分を侮辱した余答応を弓の糸で処刑する。 夏に、養心殿の外で蝉がうるさく鳴いているため、 皇帝が執務に集中できない事から蘇首領太監から「蝉を捕まえてまいれ」と指示を受けた。 第74話では、果郡王の死後。 貴妃に皇帝からの聖旨を読み上げる役目を果たした。 小楽子 演 - 第三皇子・弘時の太監 物語後半から登場。 弘時に仕えている。 弘時が恋の詩を口ずさんでいるのを見て、相手が瑛貴人とは知らずに「手紙を送ってみては?」と助言した。 だが、この事が原因で瑛貴人が「皇子を誘惑した」として、死罪を賜る事に。 侍医院 [ ] 温実初 演 - 張曉龍 侍医 甄嬛を一途に愛しており、宮女選びの直前。 告白するが、「兄として慕っている」と断られた。 全編通して、献身的に甄嬛を助ける。 医者としても優秀で疫病を沈める薬の調剤にも成功しており、侍医院を統括する存在になっていく。 沈眉荘が火傷を負った際、甄嬛が陵容から贈られた軟膏を貸してくれたと聞き、成分を調べたところ、大量の麝香が含まれている事を突き止めた。 甄嬛は温のことを兄と慕っているが、果郡王と結ばれた際の嫉妬により甄嬛への想いが本物であることに気づき、以後は警戒されるようになる。 流産事件後精神病になっていた沈眉荘を診察していく中で沈より好意を抱かれ、酒が入った状態ということもあり結ばれ子供を授かるが、事の重大さに青ざめる。 甄嬛の産んだ双子は温実初の子供であると主張された際、血液を調べるために用意された水にが含まれている事を確認。 さらにその嫌疑を晴らすため自宮(自己去勢)を行う。 一命を取り留めるが、以後一線からは身を引く。 恵妃の死後、酒びたりの生活を送るようになり、熹貴妃から叱責された。 熹貴妃の懐妊で、再び現場復帰し貴妃が第4子を懐妊した際、前回の出産(双子)の時に体力をかなり消耗しており、懐妊に適さない体調である事を指摘。 事実を知った彼女から、胎児を流産するための薬を処方するよう頼まれた。 衛臨 演 - 秦一銘 侍医 温実初の弟子。 温が自宮後、侍医の長として甄嬛の策略の手助けを行う。 陵容の懐妊で、彼女の宮で焚いている香の成分を調べたところ、等母体に害を及ぼす成分が含まれている事を突き止めた。 熹貴妃に、「おそらく流産の兆候が、表れているでしょう」と報告。 毒殺未遂事件では、毒見した果郡王側福晋・孟氏が吐いた吐瀉物を調べ、貴妃母子の食事に毒が盛られていた事を突き止めた。 廷臣・その他 [ ] 演 - 孫寧 華妃の兄。 戦功により、皇帝の信任を得るが次第に傲慢な態度を取る様になり、ついには周囲から告発されてしまい、皇帝の兄弟である敦親王と共に、粛清の対象に。 敦親王から送られた密書に書かれていた、皇位を奪うように頼んでいた内容が皇帝の逆鱗に触れてしまい、ついに将軍から門番へと降格処分を受ける。 その後、自害を命じられ、この事が華妃及び実家である年一族の没落への発端に。 演 - 張毅 皇帝の嫡母の弟、皇太后の幼馴染であり愛し合っていた。 長年の功臣だったが、やがて粛清の対象になる。 その事を知った皇太后は、密かに面会するが、実は数十年前の宮女選びの件で彼女から恨まれていた。 皇太后から差し入れとしてふるまわれた酒に毒を盛られ、毒殺された。 甄遠道 演 - 甄嬛の父。 娘を宮廷に上げるが、後に瓜爾佳氏の罠に嵌り、一時は失脚する。 流刑地で病に倒れ、放免後は都で療養生活を送る。 甄嬛の回宮後。 復帰し、娘達と再会。 皇帝から「典儀」の地位を賜る。 瓜爾佳顎敏 演 - 馬維福 祺貴人の父。 甄嬛の父・遠道と共に、年将軍粛清に携わっていた。 後に年氏を称える書物の件で、遠道を失脚させ罪人に追い落とす。 甄嬛回宮後「後宮裁判事件」で娘が冷宮送りとなった後、自らも失脚。 その後。 牢獄に入れられ自害。 顎敏の死後、一族の成年男子は死罪・女子は使用人に落とすなどの過酷な刑罰を処された。 安比槐 演 - 安陵容の父。 長年、県の次官を勤めていたが現在は府の地府(地方(府)の最高長官。 現在でいえば都道府県。 )を勤めている。 元々はを扱う商人の出身。 そのため、娘の陵容も香を扱う事に長けている。 瓜爾佳氏の失脚と同時期、自身が80万両もの銀子を着服していたことが発覚。 皇帝の怒りを買い、罷免・投獄された。 陵容の懐妊・昇格で恩赦を賜り、故郷で隠居させてもらえる事になったが、陵容が自身の宮に監禁され恩赦を取り消された後。 処刑された。 演 - 王彪 皇帝の重臣。 長年、雍正帝に仕える重臣。 政務で皇帝を支えるが、物語終盤の皇位継承問題で、第六皇子を皇太子に就ける事に反対。 貴妃が一時廃妃となり、甘露寺にいた事を持ち出し「幼帝の後ろ盾となり、朝廷を我が物にするのは必至でしょう」と訴え、「皇太后の器ではない」と述べた。 夏刈 演 - 孫渤洋 皇帝の密偵 皇帝に仕える密偵。 「粘竿処・ 血滴子(けってきし)」(皇帝の命で、主に密偵や暗殺を行う機密機関)の一員。 物語終盤、雍正帝の命で果郡王が宛てた手紙を押収し、手紙に貴妃への事伝てが記してあったことから、貴妃が果郡王の暗殺を命じられるきっかけに。 その後、第六皇子の血液検査を再度行うよう命じられ、貴妃の留守中。 第六皇子と公主の宮へ忍び込み、第六皇子の血液を採取。 たまたま通りかかった寧嬪に目撃されその直後小允子に殺害された。 摩格 演 - 李泓瑞 ジュンガル部の新ハーン(国主)。 熹貴妃が甘露寺にいた頃、果郡王と共に助けたジュンガル部(現在の方面)の男。 彼女に興味を抱くが手当てを受けた後、立ち去った。 彼女が回宮してから数年後。 新たなハーン(国主)として即位し、雍正帝に謁見。 歓迎の宴席で自国にて作らせた玉石の輪飾りを贈り、皇帝が「輪を外した者には褒美を与える」と廷臣などに外させるが、誰も外す事が出来ず、機転を利かせた貴妃が朧月に割らせ、気分を害した。 貴妃が中座してすぐ、甘露寺にいた頃、果郡王と恋仲だった事をほのめかし、貴妃に接近。 宴の後。 皇帝に「熹貴妃を嫁がせれば、兵を引き上げる」と交換条件を提示。 その事が原因で、貴妃は果郡王との仲を疑われる事に。 甘露寺 [ ] 静白法師 演 - 趙千紫 甘露寺の監寺。 のちに彼女が病に倒れた時に、「を患った」と言いがかりをつけ、甘露寺を追い出し、凌雲峰禅庵へと移した。 甄嬛が熹妃として回宮する事になり、出立する日。 監寺の更迭を言い渡され、盗みを疑った戒めとして「板打ち20回」の刑を科された。 その後、祺貴人の陰謀に加担し、舌を切り取られた上偽の証言をした罪で死罪に処された。 静岸住職 演 - 海燕 甘露寺の住職。 甘露寺の住職。 温厚な性格だが気が弱い。 莞嬪が出家して、寺で暮らすことになり心配りをするが、静白たちが甄嬛一行を寺から追放する事を阻止する事が、出来なかった。 のちに熹妃として回宮し出立する日、彼女が書いた写経を下賜された。 他の尼僧たちが甄嬛達につらく当たっていたが、唯一親身に接していた。 のちに、格下げされた静白に代わって監寺に就任。 静白が棋貴人の陰謀に加担した際、浣碧と小允子たちに請われ、熹貴妃側の証人として皇宮へ出向いた。 スタッフ [ ]• 原作 - 流瀲紫• 監督 - 鄭暁龍• 音楽 -• オープニングテーマ「紅顔劫」• エンディングテーマ「鳳凰于飛」• - 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• この項目は、に関連した です。

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家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。:ロケ地情報・御殿場ロケ作品

妻 が 死ん だ ふり を し てい ます ロケ 地

未見の方は読まないでください!) 高く評価されている作品なので、批判するのにかなり勇気がいるんですが、どうしても納得できないので、投稿しました。 結局のところ、彼ら5人が導きだした如月ミキの死亡原因は、自殺でも他殺でもなかった。 ゴキブリを退治する方法を教えてもらい台所用洗剤を撒いたのが、じつは食用油で、疲れた果てたミキはマネージャーに「もうダメ」と間違い電話をして、そのまま寝てしまう。 ところが睡眠中にアロマキャンドルの火が油に引火して火事になり、逃げる際に大事にしていた家元のファンレターが入った箱を取ろうとして避難できなくなり、その場で焼死体として発見される。 「事故死」という結論でした。 たしかに自殺や他殺も、ファンである彼らにとっては、たいへんショッキングな出来事でしょう。 しかし、ヘアヌード写真集の出版に意欲的なタイトルを用意するなど、芸能活動に前向きだった彼女が、こんなつまらない事故で死んでしまうというのも、同じくらいショッキングだと思いませんか? しかも、その事故にファンである彼らがかかわっているというのも、(故意ではなかったにしても)気持ちが悪い。 もし、私が安男だったら、「あんなアドバイスをしなかったら、ミキは死ななかったかも?」とか、あるいは家元だったら「ファンレターを出さなければ、彼女は逃げられていたかも?」と悔悟の念にとらわれると思う。 それがどうして、プラネタリウムの星空を見上げたくなるような清々しい気持ちになるのか、理解できないです。 スタッフの意図としては、「そこは笑い飛ばしてほしいんだよな...」というところかもしれません。 でも、私としては「あんなつまらない死に方をして、ミキがかわいそう」という印象の方が強いです。 私がミキのファンだったら、絶対そう思います。 もし、どうしても「ミキが死んだという事実は変わらないけど、結末は笑えるものにしたい」というなら、ブラックユーモアにするとか。 せめて彼ら5人がミキのファンではなく、何の関わりもない人たちにするとかでないと、あの結末は受け入れられません...• 長生きして大往生したご老人の思い出を 遺族が笑顔でしみじみ語り合うならともかく 黒こげの焼死体を前に同じ感慨に耽れるのかと。 とにかくこの思慮の足りなさが不快で不快で、 おまえら最低だなーというのが私の印象 だったので、なぜ今年ベスト1扱いなのか 大袈裟にいうと日本の映画評論も映画ファンも ここまでみっともなく、ひどくなってるのかと、 もう救いようがないところまでレベルが 落ちちゃってるとしか思えなくなっていました。 気持ち悪い作り手が気持ち悪い観客に 向けて作って気持ち悪い自画自賛が 循環して満足度1位ですよ。 ああ気持ち悪い。 分かりにくいというかなんというか、察することが出来ない人は置いてきぼりですね〜. うれしいです! どうしてこの内容で笑えるのか、私には不思議だったので。 ただ、誤解がないように書いておきますが、私は人の死を笑いのネタにすること自体は別に構わないと思っています。 「ドッヂボール」で、ある人物が死ぬシーンがありますが、そこは爆笑してしまいましたからね。 本作の場合、なぜ笑えなかったというと、主人公たちの言動に違和感を感じたからなのです。 彼らがミキのファン(実際には、ただのファンではなく近親者もいる)で、あのような死亡状況なら、彼女の死を嘆くのが当然だと思うのです。 だから、私が「ミキがかわいそう」と思ったのは、正確には、「主人公たちがかわいそうだと思うべきところを、そう受け取らなかったので違和感を感じ、自分が彼らの代わりにミキをかわいそうだと思ってしまった」というところでしょうか。 たとえば結論が出た後で、「ミキちゃんが死んだのは、お前が余計なアドバイスしたからだ!」とか「ファンレターを出したからミキは死んだんだ。 お前が悪い!」とか、責任のなすり付け合いになって、その様子を観客が笑い飛ばすなら、まだわかるかなぁ、という気がします。 どうしても主人公たちが納得する展開にしたいのなら、ファンのオフ会にするのではなく、推理小説愛好会の集まりにするとか。 彼らはミキのファンではなく、何の関わりもない人物で、話題がいつしか聞いたこともない無名のアイドルの自殺について推理し合う展開になる、というなら、必要以上に感情移入する余地がなくなるので、それなら私も納得できるかと思います。 人一人の死に対してあまりに底が浅いというか、ブラックユーモアになり得るほどセンスも説得力もないんです。 「おれとキサラギ」の特別な関わりは主張したいし正当化したいけど責任や罪悪感は帳消しにしたいというアンビバレンツが、見ていてどうも居心地が悪いというか恥ずかしい。 その鼻持ちならない無責任な価値観を肯定してあげてるから評判がいいんですよ、オタク的な価値観の人々には。 HUさんは最後にアンチテーゼを見ているけれど、そんなもんでフォローできるほど微妙なもんではなかったのは映画を見れば分かるはずで「察することができない」のはむしろ普通なんです。 これを「察しろ」というのはそのまま「オタクの自己満足」というか甘えに過ぎないわけで、HUさんの内面というか「そういうことを言われるとむかつく」側のちょっと恥ずかしい立ち位置をひけらかしてるに過ぎないw つまり死んじゃったミキより自分たちのミキに対するスタンスの保持の方が大事なだけです。 結局オタクというのはそういうスタンスの人々だということで、それをこういう形で商売にして賛同を得るくらいにマーケットとしては大きいということでしょうね。 個人的にはとても受け容れられないし、不愉快以外の何物でもありませんが、まあキャパが増えればクオリティーが落ちていくのは仕方ないですよねw• どんなに悲しんでも彼女は帰ってこないと悟った上で、でも彼女が何故自殺してしまったんだという思いだけが彼らの中に溜まっていたという感じじゃないかと思うのですが。 何の関係もないただのファンならともかく、五人が五人ともミキとの特別な関係や事情は意識していて、少なからずその死に責任を感じていたはずではないですか。 その五人がいわゆる一般のファンのようにミキの死を過去として受け容れているというのでは、あまりに気持ちの使い分けに節操がないでしょう。 むしろそれを受け容れられないからイベントに集まったはずなのに、ミキの死を美化することで自分たちの罪悪感を軽減して満足してしまいミキの死そのものは自己満足のための材料としか思えないものであったことに違和感が生じているのでは?例えとして適当かどうかは分かりませんが、例えば借りた車で事故を起こして死んでしまった人がいたとして、車を貸した人が「あのとき車を貸していなければ」と罪悪感を感じるならまだ分かるし、自分を責めるなとフォローもできるし、逆におまえのせいだと罪をなすりつけるのもありでしょうが、車を貸した人が事故死した人のことを「あいつは運転が下手だったからなあ」としみじみ語っていたら、無責任とは言わないまでも、それをこの状況で言うのは違うというか、おまえが言うなと感じる人はおおぜいいると思うんです。 ブラックユーモアの確信犯というのではなく、単にロジックやTPOの上でデリカシーと説得力に欠けているだけです。 この作品のファンがサウスパークやチームアメリカなどを見たときのようにブラックで面白いとニヤニヤしているわけではないということは、多くのレビューから伝わってきます。 どなたも死の真相とされるものが感動的であることに満足しているわけです。 しかしジミーさんご指摘のようにこれがミキの死に直接関わっていない人たちが推理してこの真相なら違和感は感じないでしょうが、自覚のあるなしに関わらず自分たちが原因となっている五人が自分たちのやってしまった役割は棚に上げて真相のみに満足してほのぼのするというのは安藤工務店さんのきつい言い方を借りるなら「オタクの自己満足」ということになってしまうでしょう。 脚本はよく練られたものではありますが謎解きの理屈あわせに奔走するあまりモチベーションというか意識の部分でかなり幼稚な感性を露呈しているように思います。 あるいはその理屈あわせの先に真実ではなく願望充足しかないようなうそ寒さを覚えます。 気持ちよく満足できることだけが最上のエンターテインメントだという勘違いが制作者にも観客にもはびこってしまっているのではないでしょうか• 私もほしさんと同じように思えるのです。 時間の癒し効果ってすごいものです。 彼らも事件当時はそりゃ人生断ち切られたかのように嘆き、彼女の悲惨な死に方に身を切られるような苦痛を覚えたことでしょう。 50キロ以上やせるほどね(笑) けど1年もたてば慟哭の時は終わってますよ。 身内でも一周忌の法要は悲しみより懐かし話ですもの。 彼らも(ユースケ以外は)盛り上がろうと集まってるんだし。 彼女の死の真相(と思えるもの)がああいったものであっても後悔めいたものはあっても、責任感じて・・・というふうにはならないのが自然じゃないかな。 あの後皆と別れて一人になった時には、もしかしたらもう少し悔いの度合いが強くなるかもしれないけど。 あの場面では、彼らの気持ちは、「まったくミキって奴はあんな死に方して! どこまでもドジでバカで、僕らのことを大切に思ってくれてて、ほんとにほんとにどうしようなく可愛い奴なんだから!!大好きだぁ!」 可哀想とかより愛おしさの方が勝ってたんじゃないでしょうか。 一周忌だからって悲しみや苦悩が蘇ることはあってもほのぼのした話にはなりづらいと思うよ。 しかも真相にいたって分かったのは、ミキを死に誘導したのは明らかに自分たちの関与だということじゃん?ほのぼのしかけていても現実突きつけられるっていうか自分たちでパンドラの箱を開けちゃった衝撃とか罪悪感はほのぼのなんか吹き飛ばすほどすごいと思うよ。 自分たちが殺しちゃったのと変わらないんだもん。 法的なあれこれはおいといても、道義的にはかなりキワキワだと思うよ。 それを棚に上げて、 「まったくミキって奴はあんな死に方して! どこまでもドジでバカで、僕らのことを大切に思ってくれてて、ほんとにほんとにどうしようなく可愛い奴なんだから!!大好きだぁ!」 という愛おしい気持ちになること自体がミキの死に関与したことへの責任感というか罪悪感からお手軽に都合よく自己解放の自己陶酔し過ぎしょ、とジミーさんや安藤工務店さんや未婚女性さんは繰り返し言ってるわけで、いーとしのエリーさんのご意見は批判的な人たちのそうした疑問や不満に答えているのではなく、同じ事をもう一度おさらいしているだけでループになりかけてて、あんまり前に進んでいないと思う。 不謹慎なようだけど、キサラギミキを実際に急逝したアイドルやアーティストに置き換えれば、五人の真相を知ったときの反応がいかに不自然でトホホなものか、よく分かると思う。 デフォルメとかブラックユーモアならまだ分かるんだけど、なんでこんな話で清々しい、いい話っぽいラストなのか、そしてなんでそれをおかしいと思わないのか、本当理解できない。 って 心に残っちゃいますよ。 そこんとこ、 映画が拾ってくれていない、 というのがひっかかりますよね。 やっぱり。 この映画は、1年たってもその死を乗り越えられない マネージャー:ユースケサンタマリアの悔恨をベースに、 それを解きほぐしていく構成になっていると思います。 自殺の原因が自分だったかもと考えることに耐え切れず、 他殺の可能性を追求し始める。 自分勝手な責任転嫁ではありますが、 心理状況として不自然なものではありません。 小出・小栗は元々関係性が薄く、 その死を乗り越えるのが早くても 責められるものではないでしょう。 好きなスターの死に置き換えてみましたけど、 私実際そんな経験ありますが、 がくっとはきましたが、泣きもしなかった程度でした。 (きっとものすごく冷酷な女なのかもな。 ) 顔見知りの近所の人が急逝したケースを考えても、 泣き崩れるほどなのはごく近しい身内だけなものです。 塚地さんとの関係はどの程度だったのか分かりませんが、 所詮結婚未満の関係の場合、 ありゃもう別の人と結婚なんですか? というのは現実世界でも良くあること。 人は忘却機能によって精神の安定を保って 生を継続することができるのであり、 忘却機能が上手く働かない場合、心の病になるのですから、 これを責めてはいけない。 しかし、ここに一人 「悲嘆の度合い」が薄すぎる人がいる。 香川さん演ずるところの ストーカーまがいのファン実は父親です。 実はほとんど才能がない彼女を スターにしてやりたかったマネージャー:ユースケが、 彼女が紛れも無く誰かのスターであったことに 心慰められるのは「アリ」だと思います。 しかし父親は よほど冷酷無比の父親で無い限り 「生きていてくれさえいれば良い」というのがフツーのはず。 で、おかしいなと思っていたら、 この香川さんの役は映画化にあたって 設定変更がなされているそうなのです。 映画のオチに関わる部分なので詳しく書かれていませんが、 それは「父親」という設定が追加されたことを 指しているのだな、と思われます。 これに関しては、舞台版の ストーカーまがいのファンのままの方が 良かったのではないか?とは思っています。 最後のエースのジョーが出てくるシーンは、 「皆で悔恨を痛み分けして、 はいそれで良しみたいな生ぬるいことでいいの?」 というアンチテーゼというか エクスキューズであることは確かなのですが、 伝わりづらいかもしれませんね。 元々私は推理に結論がついてからの部分 (特にプラネタリウム)については いたずらに冗長だと思っているクチなので、 あのあたりをバサッとケズってしまい、 香川に父親設定を付加しないようにすると、 自己陶酔がひど過ぎるという意見が出るのを 防げたかもしれません。 今日、東京旅行を終えて帰ってきたばかりで、一週間ぶりに映画生活にアクセスしたので、すぐにレスをお返しすることができません。 申し訳ありませんが、みなさんの投稿をじっくり読んでから、後日お返事します。 それまでしばらくお待ちくださいませ。 真相にいたる部分に文句があるわけではなく、その真相を受けてからの五人の反応を描く部分が「いたずらに冗長」というのはすごく頷けます。 それまでの展開を考えたら逆にあそこで清々しい気分にならず、ジミーさんのいうように醜い責任のなすりあいになったり、あるいは空しさばかりが残って呆けたように静かに終わる方が説得力があるような気がします。 その空しく引いた空気の中にキサラギ・ミキの能天気な歌声や映像が流れるエンディングなら、皮肉なカウンターとなって効果的だし、私もここの満足度同様に評価するでしょう。 しかし実際にそんなオチなら、ここの評価はもっと微妙なものになっていたでしょうが(苦笑)• たしかに、この作品はメインであるサスペンスについて、伏線を張ったり、つじつま合わせに一生懸命になってしまい、人間関係がおざなりになっていると感じました。 ただ私は、映画というのは(どんなにバカバカしいコメディであっても)文学と同じく人間の真実を描くものだと思っているので、その部分で違和感があると、謎解きがいくらよくできていたとしても、受け入れられないのです。 素子様命さんの分析に沿うと、この作品はマネージャーであるオダユージがミキの死の真相について、「彼女は殺されたのではないか?」という疑問を持っており、最後にそれが解消されてハッピーエンドになる構造を持っています。 しかし、そのようなエンディングに持って行くためには、彼女の死が「警察が断定した自殺説」「オダユージが思い込んでいた他殺説」よりも、みんなが「それなら仕方がない」と納得できる死に方である必要があると思うのです。 いちばんいいのは、ちとせさんが触れられている「天寿を全うした」というものです。 人間はいつか死ぬのだから、これなら納得できます。 しかし、まだ若いミキにはそれはあり得ない。 あとは、病死や事故死などが考えられますが、前者はサスペンスにはなりにくいし、実際に採用された後者は、ただの事故死ではなく、何らかの形で自分たちが関与しているという、気持ちの悪い展開でした。 「これでは彼らファンには納得できないのが、ふつうなのではないか?」というのが、私の疑問なのです。 たしかに、家元やスネークは関与は薄いし、責められるものではありませんね。 しかし、このケースでは「罪がなくとも呵責に苦しむのが人間なんじゃないかな?」と考えるのです。 何年か前に地下鉄で火災が発生し、多くの人が焼死する事故が外国でありました。 その犠牲となったある女性は、ふだん地下鉄を利用しないのに、その日たまたま地下鉄に乗ったために、事故に遭って死んでしまったのです。 彼女が地下鉄に乗った理由は、恋人に勧められたから。 その勧めた男性は、テレビの取材で「僕が『地下鉄に乗れ』なんて言わなかったら、彼女は死ななかったかも」って、嘆いていました。 しかし彼は、事故が起こるのを知らなかったわけだから、罪はまったくないし、責められるものではありません。 でも、そのように罪の意識を感じてしまうのが、人間だと思うのです。 上の例と違って、本作の場合は恋人ではなくファンなので、泣くところまではいかないと思います。 でも、もし私が家元だったら「あんな手紙を送らなきゃ、ミキちゃんは死ななかったかも」と(まったく罪がないのにもかかわらず)心の中で後悔すると思います。 それが、人間っていう生き物なんじゃないかな... で、ほしさんやエリーさんが書かれている「時間が経っていたから」という理由なのですが、たしかに時間の経過によって過去の悲しみが癒されるのは自然なことです。 でも、過去の出来事でも新事実が発覚した場合、話は変わってくると思うんですよ。 その新事実が判明してから時間が経過すれば、癒されたり、見方を変えて理解を深めたり、ということはあると思いますが。 * ちなみに余談ながら、私のこの作品の評価は低いです。 理由はいくつかあって、まず私は自分の中に「映画を評価するポイント」というものをいくつかを持っているのですが、本作がそれをクリアできていなかったためです。 それから、彼ら5人がミキに近しい人物だったり、もしくは警察関係者である設定が、ふつうのファンがミキの死を推測する話だと思っていた私には、つまらなく思えました。 そういう立場の人たちなら、推理するのが簡単になり、どうにでも話を作れてしまうからです。 あと、映画が全体的に幼稚ぽく感じましたね。 いい年をした大人が、ロリータ・アイドルのファンで、しかも死んだ理由がゴキブリ退治で洗剤とサラダ油を間違えるとか... リュック・ベッソン製作のお馬鹿映画の、推理の部分を緻密にした程度の映画だなぁ、という感想です。 以上のような理由で、私はこの映画を好きになれなかったのですが、素子様命さんやekoekoさんのように本作を高評価されている方が、ミキの死をどう受け止めていたか、その一端を知ることができたので、ここでのやりとりは私としては満足です。 そのとき、「泣いている香港のファンがいた」と報道された記憶があります。 でも、書かれているように、そんな展開にしたら、たしかにこれほどウケなかったでしょう。 そういう意味で、この作品は「完成度よりも観客に迎合することを選んだ失敗作ではないか?」という疑問を私は持ちました。 コミック原作の安易な映画化が多い中、 オリジナルの密室劇で最後まで退屈しなかったのは確かです。 ただし、違和感を感じる部分は多くあったので、 ここの皆さんのご意見は興味深かったです。 特に小栗さんの家元は 「自分のファンレターが原因かもしれない」 といった結論に達したくだりで、 罪悪感を感じるどころか、 「一人だけ蚊帳の外だと思ってたけど、僕も仲間入り」と いわんばかりにむしろ喜んでいるように見えたのは? と思いましたし、厳しく言ってしまえば、 皆さんの言う「オタクの自己満足」かもしれません。 ただし、一年経った時点で5人がそこまで 嘆き悲しむか?といった部分については 素子様命さんが検証してくださったのと同感です。 小栗・小出はもともとそこまでの関係性ではないし、 ユースケも自分勝手とはいえ不自然さもなく、 塚地さんも仲のよかった幼なじみとしては、 「今もミキを思い出しネットに書き込みを続ける」 といったことで特別違和感は感じません。 香川さんの父親が嘆き方が薄いかなと感じたくらいです。 ただ私は皆さんと違う解釈をしたのは、 目に見えて罪悪感を感じている人物。 55キロやせるほど一年間を憔悴して生きた ユースケ・デブッチャーへの 思いやりだったのではないか…というところです。 「あんただけのせいじゃない。 俺たちの連帯責任だよ。 容器に油を詰め替えた俺のせい、 ゴキブリ退治のアドバイスをした俺のせい、 ファンレターを書いた俺のせい、 いや…父親としてふがいない俺のせい、 ミキはヘアヌードに前向きだった。 自殺じゃなくて事故死だよ。 あんたは充分苦しんだ。 もう前を向いて生きてくれ」 確かにミキがかわいそうですが、 死んでしまったミキよりも、 生きているデブッチャーへの男たちの 思いやりだったのではないでしょうか。 私は「自分しか考えないオタクの自己満足」と取るよりも 確かにミキは不幸で哀れだったけれど、 ののしり合うよりも、 生きているユースケの罪悪感を消してあげる 思いやりから出た言動だったと信じたいですね。 あのようなシチュエーションで、晴れ晴れとした心境になるか、という問いです)。 たとえ関わりが薄くても、罪が全くなくても、自分のアドバイスで誰かが死んだら、心に引っかかると思いませんか? ましてや、自分たちが応援していたアイドルだったら、なおさらだと思うのです。 まあ、私が敏感すぎるのかもしれませんが... あと、私がこの作品を好きでないのは、現実にフィードバックできるものがほとんどないことですね。 まだ、笑えればよかったんですけど、私は笑えなかったので。 なぜかというと、被害者はコナンたちと関わりがない(もしくは薄い)ゲストキャラで、どういう人物かよくわからないまま殺されてしまうし、コナンが直接事件にかかわることはありません。 それは、この作品のおもしろさが謎解きにあるからであって、そのために被害者や加害者については観客に、必要以上に感情移入させない仕組みになっているからだと思うのです。 しかしたとえば、コナンと親しい人物(欄や小五郎)が殺される事件が起きて、コナンがいつものように冷静に事件を解決し、ラストで「よかったね」となったら、多くの人は違和感を持つのではないでしょうか? 「それって、違うんじゃない?」って。 そして本作「キサラギ」は、それに近いことをやってしまっているのではないか? と私は考えるのです。 彼らはミキのファンである上に、実際に事故にも(まったく故意ではないが)関わっています。 だから、ラストで「よかったね」となったとき、すごく違和感を持ちました。 ちなみに、私はコメディ映画に関しては、ある程度のご都合主義は許容する主義です。 本作に関しても、「あの日がミキの一周忌なら、あの場にいるべきでない人がいるのではないか?」とか「サラダ油は常温では発火しない」など、俗に言う「ツッコミどころ」がいくつかあると思います。 しかし、コメディであるということを考えると、それらは枝葉に過ぎないので、私は問題にしていません。 ただ、物語の本質に関わる部分や、人間としての言動にウソがあると、私は納得できないのです。 けっこう早い段階で、「この人たち、ほんとうにミキのファンなのかなぁ?」って疑ってしったんですよね。 たとえば序盤で家元がミキに関するコレクションを披露するけど、ただ持っていることを自慢しているようで、ミキというアイドルに対する想いが感じられませんでした。 「彼らがファンであるという裏付けが取れていないのではないか?」というのが、低評価の理由のひとつでもあります。 私はかの宮崎監督アニメだとか、 泣かせの入った恋愛・人情モンがダメですので、 大概の場合、皆が誉めてるのには 乗り損ねている人間です。 (つうか、だいぶ自分の好みも固まっているので、 乗り損ねそうなのは避けてますけど。 ) まぁ皆さん、ここが引っかかって映画全体が楽しめなくなる、 という自分だけのポイントはお持ちのはず。 引っかかりポイントがあると、 「これは作り話」スイッチも入り損ねがちですよね。 残虐描写に引っかかって 画面が見られなくなっちゃう方の多い オカルト・ホラーではまことに良くある話です。 コナンの例を出されていますが、 多くの人が推理モノにおいて 被害者に思い入れずに済むのは、 おうおうにして推理者は被害者と直接的関係性を持たず、 そして主人公がその、 被害者と直接関係性を持たない推理者だからでしょう。 被害者の死に対して泣かずに済む立場の人が主人公で、 鑑賞者はその主人公に主に思い入れて見ることになる。 そういう意味でこの映画は、 推理者が被害者と関係性の濃い者が多いという点において、 「被害者がカワイソウ」という感情を 鑑賞者についつい呼び起こしやすい作りであるとは思います。 ただ、そのあたりをサラッと流して見られる 「これは作り物」スイッチが上手く入った人間が おかしいとまでは思わないでくださいまし。 むぎわら帽子のジミーさんは、 そのあたりは心得られていると思いますが。 話それますが、 わたくしデスノートは ライトというごく普通の学生が 単に頭脳明晰でオヤジが警察関係者という理由で 警察の捜査にずいぶんと深く首つっこめる という点がひっかかりポイントになり、 どうも乗り損ねました。 (アメリカの秘密組織の天才児の方は 「秘密組織だから」でいいんですが。 多くの方は ライト vs L の方がお好きだと思うのですが、 私はライトが成人して警察になった後の話である ライト vs R の方が引っかからずに楽しめますねえ。 ) 乗り損ねてるくせに漫画全部持ってたりしますケド。 (とはいえ、毎回遺体の発見者かよ、 とつっこみ入れてたり。 この作品に手放しで納得できない、 もしくは細かい突っ込みどころは別にしても 根本の人としての心情的に理解できないと感じる方々の 言わんとすることはそうだと思います。 ただ私自身、コナンの例で小五郎や蘭が殺されて、 すがすがしくプラネタリウムを見ていたら 「それは違うんじゃない?? 」と激しく思いますが、 「キサラギ」ではここの方々が挙げている プラネタリウムのシーンに さほど嫌悪感は感じませんでした。 確かに「ミキの近親者たち」としてあの反応はどうか? と言われれば、自然とは言いがたいですし、 自分のアドバイスで親しい人の死を招いたということに なれば、もっと人として罪悪感を感じるでしょうが、 あのシーンでは私は前の意見の通り、 「ちょっとした縁で集まった5人の男たちが、 一年間を憔悴して生きたユースケへの思いやり、共有」 として捉えました。 つまり私は 観客としてよく知らない ミキ視点ではなく、 5人の男視点で見ていたからだと思います。 その点でコナンにおける小五郎や蘭と ミキちゃんを同列には感じられないかな…と思います。 家元のファンとしての姿勢ですが、 芸能人のファンはそもそもある種の幻想を抱いて 疑似恋愛の対象として見ていたり、 コレクターとしての熱心さが勝ってしまう例もあるわけで 特別不自然だとは感じません。 ただし家元がミキちゃん自身のことを考えた 良質なファンかどうかはまた別の問題ですが。 とはいえ、この作品に納得できない皆さんの意見を 理解できないわけではないです。 むぎわら帽子のジミーさんもおっしゃってるように 人それぞれ「いい作品」「好きになれない作品」と感じる ポイントは違うわけですし、 私自身は「キサラギ」をコメディとして笑いのセンスが そこまで上質とは思いませんでしたが、 「2時間まったく退屈しなかった」 「罪悪感に捕われていたユースケに対し、 5人の連帯責任という思いやり」 「ラストでノーテンキなD級感漂うミキちゃんを あえて出すことで、だからこそ感じるもの」 といった点で評価しています。 反面、「ミキちゃんかわいそう」という 心情をまったくフォローしてくれていない という点は納得はできますし、 自分たちが死に関わった罪悪感が ほとんど描かれてなく、良作とはいえないという 意見も納得はできます。 私の場合はそれを上回るものを あの映画から感じたという違いだと思います。 もちろん、その点を責めているつもりはないです。 ただ、私が前回書いたポイントというのは、客観的視点から見た「評価するポイント」という意味だったのですが。 例を挙げると、私は男なので、女性キャラが出てくる映画の方が好みですが、それはあくまでも主観であって、実際に評価する場合は客観的に判断するので、その是非は含みませんよ、という意味です。 本作の場合、ファン5人が全員男性なのは私の好みではないけど、ミキが女性であることを考えると当然だし自然なので、そこは批判の対象にはしていません。 ちなみに私が宮崎駿の作品が好きなのは、主観的な意味合いでは、すがすがしい感動があったり、女性に対する想いがほとばしっていたり、情緒があったりするからです(一部作品は例外)が、客観的な評価としては「現実へのフィードバックができている」「目的が言動により裏付けされている」「人間の生理が描けている」「舞台に存在感がある」などの項目をクリアできているからです。 素子様命さんが書かれている意味でのスイッチの話に戻すと、私は「デスノート」をまったく観ていない(原作も読んでいない)ので、それがどのようなものかわかりませんが、もしコメディならOKだけど、リアル感のあるシリアスなドラマならNGかもしれません。 ご都合主義はコメディ色が強くなるほど許されるものなので。 私ならそう考えますね。 私の場合は「呪怨」に出てくる幽霊が、「白粉を全身に塗った全裸の子供が、監督の指示によりそこに座っている」ようにしか見えないです(笑) まあ、実際そうだと思うんですけど。 私自身、霊感ゼロの人間なので、幽霊全般が怖くないのです。 「オープンウォーター」や「明日の記憶」のような、現実に起こりえる恐怖なら怖いと思います。 ノーマージンさん> 「コナン」の場合は違和感を持つだろうけど、「キサラギ」の場合はそれほど思わない、というのはシリーズものかそうでないところよる違いかと思います。 「コナン」の場合は原作を読んだり、10年もつづいているテレビシリーズや映画を観たりしているので、すでに感情移入できているところが大きいのではないでしょうか? 「キサラギ」の場合、ミキというキャラクターがいまひとつよくわかりません。 序盤、彼女のことをくわしく描写していないのは、たぶん感情移入を阻止するためではないでしょうか。 そういう意味では、この作品でも推理もののセオリーを意識しているのだと思います。 私が前に書いた「彼らのミキに対する情熱が感じられない」というのも、ミスではなくスタッフの意図によるものかもしれません。 ただ、私の場合は、裏付けが取れているかどうかを見るので、そこに気付いてしまったのです。 で、多くの方は書かれている「オダユージ(ユースケ・サンタマリア)に対する気遣い」に注目するので、ミキのことを忘れてしまっているんだと思いますね。 ちなみに私も、ノーマージンさんをはじめとして、この作品を高く評価する人たちの気持ちがわからないではないです。 実際、私が観た劇場では、すごく盛り上がっていたので。 あるカップルは、女性の方が「いつも寝てしまうのに、今日の映画はとてもおもしろかったので寝なかった」と話していのですが、私はその理由がだいたいわかるのです。 このサイトでは、こうした議論になったとき、肯定派と否定派がケンカになることが多いのですが、このスレッドでは気持ちのよいやりとりができたので、その点がとてもよかったと思っています。 参加していただいた方々に感謝します。 一般層に近いファンとアイドルヲタの間には相当な違いがあるのかも知れませんね。 ヲタって何でも楽しもうとする、というか、 わざと偽悪的・露悪的に振る舞い、楽しむふりをして自身の心の傷を和らげようとする、そんなところがあるように思います。 まだ、書き込もうと思っていたこともあるので。 オタクの件ですが、彼らはそういう人たちなのかもしれないけど、私にはちょっと理解できない... どうしても、気持ち悪く感じてしまうのです。 たとえ、自分がそう思っていなくてもです。 他者からの目とはそういうものなので、 誰しも、オタクだと決めて人を見てしまうことがある ということをご理解ください。 まさにマキさんが言っているような意味だと思います。 その友人は私の逆で 「最後までミキちゃんの姿は見たくなかった」派です。 あくまで幻想の憧れのスーパーアイドルとして 描いてほしかったようです。 「オタク」に関しては「他称、映画オタクです」さんに納得です。 レビューを書き込むというのもそうですが、 「一人で映画を見に行く」ことすら「理解しがたい」「変わっている」「オタク」と取られる場合もあるでしょう。 特別映画に興味のない一般の人は、 映画といえば「デートでシネコンの話題のロードショー」しか浮かばないわけで、ほとんど宣伝もされないマイナー映画を単館シアターに一人で行くなんて、よっぽどの変わり者で、それこそ「気持ち悪い」と思われるかもしれませんね。 たとえば、トニー・スコット監督、ロバート・デ・ニーロ主演の「ザ・ファン」という映画がありますね。 メジャーリーグの好きな中年男性が、応援しているチームのある黒人選手にのめり込む話です。 この主人公も、一種のオタクでしょう。 彼の行為はどんどんエスカレートし、犯罪にまで至ってしまうので、気持ち悪いというのを通り越して、恐ろしい... でも、人間という生き物がそういう一面を持っているのは真実だから否定できないし、その映画それ自体も、べつに気持ちが悪いとは思いません。 ふつうに生活を送っている一般人も、熱狂的にあることにのめり込むオタクと呼ばれる人たちも、それぞれに一貫した行動を取るものだと思うのですが、「キサラギ」に出てくる主人公たちにはその一貫性がないので、私にはそれが気持ち悪く感じられたのです。 ここでの「気持ち悪い」という言葉の使い方は、そういうことだったのですね。 てっきり、オタクが気持ち悪いと書いたのかと思ったので それなら我々だって映画オタクだと見なされますと言いたかったのです。 おそらく、マキさんがおっしゃった「オタク」と むぎわら帽子のジミーさんがおっしゃった「オタク」との間に意味の違いがあって それを読んだ私が誤解をしてしまったようです。 私の取り越し苦労でした。 すみません。 とすると、行動に一貫性があるかないかで判断するわけですから 主人公たちがオタクかどうかは関係ないような気がしてきました。 私なんかよりもわかりやすく整理していただいて 痛み入ります。 基本的に、オタクを差別しているつもりはないんです。 欧米では、「オタクはカッコイイ!」という認識もありますしね。 考えてみれば、ビアトリクス・ポターも今で言うところのオタクですね。 でも、「ミス・ポター」が気持ち悪い映画だとは思わないんですよ。 一同、シーンと静まり返る。 「ミキが死んだのは、お前のせいだ」 責任のなすり付け合いがはじまる。 5人、それぞれののしり、殴り合う。 「いや、悪いのはみんなだ!」 と誰かが叫ぶ。 「オレたちみんなのせいで、 ミキちゃんは死んだんだ。 ここにいる全員が罪人だ」 再び、静まり返り、沈黙の末、 別の誰かが口を開く。 「自殺しよう」 「なんだって?」 「オレたちのせいで、ミキは死んだ。 死んで、ミキに詫びよう」 5人、その場で集団自殺を計る。 それから1年後の同日、 宍戸錠がネット仲間を集めてオフ会をしている。 テーマは「1年前に起こった集団自殺の謎を解く」 というもの。 「彼らは如月ミキを追悼していたようだが、 その最中に自殺を図った。 遺書もなく、理由も告げずに死なれてしまった場合、残された近親者はただひたすら自らを責め続けます。 自殺するほど思い悩んでいたのに、なぜ気付いてあげられなかったんだろう? こんなに近くにいたのに、なぜ打ち明けてくれなかったんだろう? なぜ?どうして? もっとそばにいてあげればよかった。 もっとたくさん話を聞いてあげればよかった。 ごめんね、ごめんね。 ・・・こんな言葉ばかりが頭の中をぐるぐる駆け巡ります。 病死や事故死のように簡単には受け入れられないんです。 残された者の傷はずっと癒えることはないんです。 だから一年が経って、それが自殺ではなく単なる事故死だったってわかったら、たぶん私なら心底ホッとすると思います。 確かに、若くして不慮の事故で死んでしまったミキちゃんはかわいそうですし、彼らが多少の責任を感じてしかるべきだとも思いますが、でも焼身自殺ではなかった(ということがわかった)んですよ? ああ、ミキちゃんは生きている間は幸せだったんだなぁって、死ぬ直前までアイドルとして生き抜いたんだなぁ、よかったなぁって素直に思えたんですが・・・。 ミキ主観で見ればミキって恵まれているし幸せです、そしてアイドル(偶像)であるためにファンを大切にした結果不幸にも死んでしまった。 これってあの五人が死の責任背負うべきことなんでしょうか 確かに直接ではないですが死の関与はしています、しかしアイドル如月ミキに支えられていた五人(まして家元に関しては職場でのイジメに耐えさせてくれる大切な支えになっていた)が良いと思って行動したことが「お前が原因だ!」って言われても混乱して言い逃れしか出来ないと思います。 しかも一歩間違えるとナイフで刺されるかもしれない状況ならなおさらではないでしょうか。 個人的にはプラネタリウムのシーンは偶像であったミキが実像に変わることで、本当のミキが与えた影響力を現してると思います。 ミキとのそれぞれの思い出(いちご娘。 のミキが4歳だった頃の回想〜家元の手帳に入ってるミキのカードを見るなど)を写し、五人の推理の結果からミキのアイドルとしての生き様や、ファンに対しての思いやり、人間味が見えてくることでミキがとても素晴らしい人間で、可愛く、幸せに思えませんか? そんなミキが「一周忌」に望むのはきっと悲しまれることじゃなくて、責任を追及することじゃなくて、もっと五人に特にマネージャーのオダに安心して欲しかったんじゃないでしょうか? そう思うと「かわいそうなミキ」は何か間違ってる気がしてしまいました すいません、以上です。 長文失礼しました。 「事実は主観でしかない」というのも大きなテーマだと思います。 導き出した答えが事実なら 結婚を約束している安男との電話で、マネージャーがヌード写真集を勝手に決めたのも嘘で(実はやる気満々)、ごめんねと泣いていたのも嘘泣きだったとしたら、純愛で結婚を約束している安男にとっては相当ショックな事実です。 でも、オダをなぐさめる事で頭がいっぱいで その事をあっさり認めた感じで説得してました。 ミキを愛することだけに凝り固まってる(それこそオタクのような)人達なら、ヌード写真集を、嫌がって泣いていたのが嘘だったのかどうかで 安男さんとマネージャーとで、最後までもめるくだらない話になってたでしょう。 優しさゆえに、自分の感情よりも 目の前にいる落ち込んでいう人をなぐさめる事にみなが必死になっている姿がおもしろかったです。 それに、5人のせいで事故につながったという推論も結構無理やりですし、この5人の心の中でも、自分のせいだと悔やむほど自信を持って確信できる推論ではなかったのだと思います。 (特に家元の手紙の件については例え本当に心の支えだったとしても家元の言うとおり火がまわりにある時に、取りに行こうとまでは思わないと思います。 ) 皆が気を使って、というより空気をよんで納得しているようなふりをしていたのかもしれません。 (事実ラストで、この無理やりな推論がすべて覆されるかもしれないシーンが出てきてるわけですから) ほんの何%あるかもしれない推論のために 自分を恨むのは正しいとは思いませんし それが正しくないということこそがこの5人がこの場で導き出したことだと思います。 「今まで言ったことだって本当かどうか」 「真実は常に主観でしかない」 「人間は皆未知である」という台詞からも この推論が、絶対ではないしこの5人もそうは思ってない事を、あらわしていると思います。 「事実は主観でしかない」というのも大きなテーマだと思います。 導き出した答えが事実なら 結婚を約束している安男との電話で、マネージャーがヌード写真集を勝手に決めたのも嘘で(実はやる気満々)、ごめんねと泣いていたのも嘘泣きだったとしたら、純愛で結婚を約束している安男にとっては相当ショックな事実です。 でも、オダをなぐさめる事で頭がいっぱいで その事をあっさり認めた感じで説得してました。 ミキを愛することだけに凝り固まってる(それこそオタクのような)人達なら、ヌード写真集を、嫌がって泣いていたのが嘘だったのかどうかで 安男さんとマネージャーとで、最後までもめるくだらない話になってたでしょう。 優しさゆえに、自分の感情よりも 目の前にいる落ち込んでいう人をなぐさめる事にみなが必死になっている姿がおもしろかったです。 それに、5人のせいで事故につながったという推論も結構無理やりですし、この5人の心の中でも、自分のせいだと悔やむほど自信を持って確信できる推論ではなかったのだと思います。 (特に家元の手紙の件については例え本当に心の支えだったとしても家元の言うとおり火がまわりにある時に、取りに行こうとまでは思わないと思います。 ) 皆が気を使って、というより空気をよんで納得しているようなふりをしていたのかもしれません。 (事実ラストで、この無理やりな推論がすべて覆されるかもしれないシーンが出てきてるわけですから) ほんの何%あるかもしれない推論のために 自分を恨むのは正しいとは思いませんし それが正しくないということこそがこの5人がこの場で導き出したことだと思います。 「今まで言ったことだって本当かどうか」 「真実は常に主観でしかない」 「人間は皆未知である」という台詞からも この推論が、絶対ではないしこの5人もそうは思ってない事を、あらわしていると思います。 オタクの習性として、足りない設定は、妄想で補完するというものがあります。 故に彼らは、ファンレターを大事にするドジ娘が故に死んだと拡大解釈するのです。 だからこそエースのジョーのラストパンチが含みのあるものとして終わるのです。 でもエースのジョーの言う真実は、認めたくない真実でしょうなあ。 いいじゃないですか。 頭は弱いがファンを大切にするアイドルが居たってことで。 うちらはそれでいい…はずです。 だって臭いも味も無いヴァーチャルですから。 アンチテーゼを皮肉ることこそオタクの誉れですから。 とりあえず、キサラギミキみたいにサービス精神溢るるおなごは、例えヴァーチャルとはいえ大切にしたいものです。 なぜなら、あの火事は事故だからです。 もし私があの場にいても、「死んだのは君たちのせいじゃないよ」と言いいますよ。 そうではなくて、「大切な人が死んだときに、自分の責任だと思い込んでしまうのが、人間という生き物なんじゃないかなぁ」という話なのです。 最近観た映画で言うと、「テラビシアにかける橋」なんかがそうです。 ここで別の作品をネタバレさせるわけにはいかないので、ボカして書きますが、劇中である人が死んだとき、自分のせいで死んでしまった、と口走るシーンがあるのです。 それも私は、その登場人物に責任があるとは、まったく思わないです。 私がもし傍らにいたら、「あなたのせいじゃないよ」って慰めます。 でも、自分のせいではないから、という理由で落ち込まなかったら、違和感を感じませんか? 私もミキは、マイナーながらファンに対して思いやりを持ったアイドルで、幸福な日々を送っていたと思います。 ところが、そんな幸福の日々が「火事」という事故により破壊されてしまった。 それは、悲劇です。 幸福の絶頂にあるときに、とつぜん訪れる死は、悲劇以外の何物でもないと思います。 それをファンのみんなが悲劇だと受け止めないことが、この作品がもっとも不自然な点なのです。 プラネタリウムを見上げて、謎が解けたことに感動するだけで、ミキの死それ自体は蚊帳の外... 心の支えにしていた彼らに、そんな扱いを受けたミキを、私はとてもかわいそうだと思ったのです。 すごく納得できました!なるほど、むぎわら帽子のジミーさんや皆さんの意見がすんなり入ってきた気がします。 やはり人と議論することで映画ってもっと面白くなりますね! 如月ミキの事故死、それに対する死の責任、ミキの死の真相。 謎が一段落着いたときには、如月ミキ本人は蚊帳の外で集まったファンだけが安堵感を得る。 しかしながらこの流れから救われたのは何もファンである五人だけではないと思います。 ミキの気持ちをどう考察するか次第なのでなんともいえないですが、私には明るく頑張ることに前向きな「如月ミキ」が、一周忌記念で集まったファンが落ち込んで思いつめる姿を見たくないと思えます、どちらかといえば最初家元が企画していたような楽しい雰囲気で一周忌を乗り越えていつまでもミキのファンであって欲しいと、そう願うのではないでしょうか もう死んでしまってはいるのですが、如月ミキはこの集まりに少なからず救われている、と私は思っています と、したらやはり如月ミキは幸せな人生を送っている 私の勝手な解釈でもしかしたら気持ち悪いかも知れないですが、何よりこの作品を楽しんで観るには「ミキの気持ちをどう解釈するか」で大きく違ってくると思ってます。 としたら監督の思い通り、または1キャラクター「如月ミキ」に踊らされて、この作品の偶像如月ミキを好きになれればなぁ、と思うのです。 死んでしまって何も言えない如月ミキの気持ちを 都合よく美化解釈して「だから良し」とするのは、 結局ここでずっと議論されている内容から一歩も 踏み出せていないどころか、むしろ思考停止の 後退を見せているのではないでしょうか。 問題は「ミキがどう思っていたか」ではなく、 「ミキがどう思っていようと」のはずです。 ミキではなく五人の覚悟というか責任感の問題。 ジミーさんや私を始め、批判的なスタンスの突っ込みは、 「たとえミキが許してくれても、おまえたちは自分を 許せないはずなのに、なぜプラネタリウム?」 ということなのでは?• 「すべてはオダユージのため」というのは、素子様命さんをはじめとして、何人かの方が書かれていましたね。 しかし、今日初めて会話を交わした男性と、ずっと以前からファンだった女性、どちらに対する感情が優先するかといえば、明らかに後者でしょう。 にもかかわらず、なぜオダユージを慰めることに懸命になるのか? コメディ映画ならではのご都合主義ととれなくもないけど、それを観客に印象づけるには弱いと感じました。 オダが犯人を見つけることにあまりにも躍起になりすぎて、皆が命の危険を感じていたという理由もあるかもしれませんが、それならなおさら火事の原因を作った彼らに復讐心を燃やしかねない危険性もあります(もちろんdookさんへの返信で書いたように、あの火事は単なる事故に過ぎないので、私はそのように受け止めませんが、オダのあのときの精神状態を考えると、こじつけてくる可能性は大いにあります)。 彼らが無理矢理推論を導きだした、という印象は持ちませんでしたねぇ。 なぜなら、メチャメチャ盛り上がっていたし。 「5人が偶然そろわなかったら解けなかった謎だよな」「いや、偶然なんてない。 すべて必然なんだ」というようなセリフがあり、そのあとのプラネタリウムのシーンでも、自分たちが導きだした解答に満足している様子がうかがえたからです。 いちばんラストの、1年後にジョーが推論を覆しているシーンでも、彼らは「ええっ、オレたちの推理は違っていたの!? 」というような驚いた表情に見えましたよ。 もし、きくちよさんが書かれている通り、単なるこじつけだったら、そんな顔はしないのでは? 私も、自分を恨むのは正しいとは思いません。 ても、そう受け取ってしまうのが、人間という生き物だと思うのです。 キサラギミキ結構好きかもさん> 如月ミキをバーチャルな存在としてしか見ていない...そういう割り切り方が気持ち悪いと感じるのです。 彼らにとっては、そう見えたのかもしれないけど、実際には彼女は生きていた人間なのですから。 私も、「頭は弱いがファンを大切にするアイドル」がいてもいいと思いますよ。 私は、ミキの存在自体を問題にしていないので。 あと、バーチャルであってもなくても、彼らがミキを大切にしているようには見えないのですが...• と、こんな感じで前回の書き込みをしました• ただ、そのとき私の方からレスするかどうかはわかりません。 時間がなかったり、気が乗らなければノーコメントとすることもありますが、書き込んでいただくこと自体は、まったくかまわないです。 ミキが「悲しんでいるファンを見たくない」と思うだろうというのは、私もわかるのです。 ただ、「死に行く相手が『悲しんでほしくない』と思っても、自分自身は涙を止められない。 それが、人間なんじゃないかなぁ」と私は思うのです。 たとえば、私が自分のまわりにいる人たちに「オレが死んでも泣かないでくれ。 早くオレのことなんか忘れて、幸せに暮すんだ。 わかったな?」と言って死にますよね。 そのあと、あの世へ行ってから地上を見下ろしたときに、ほんとうに彼らが涙を流さず、楽しそうに葬式していたら、私はすごくショックなんですが(汗) もちろん、いつまでもメソメソされるのは困るけど、かといってすこしも悲しんでくれなかったら、自分は愛されていなかったのかと悩むと思うのです。 浪花のロッキーさん> そうですね。 私も「ミキがどう思っていようと」の方だと思います。 プラネタリウムについては、「冗長」という意見がありましたが、それ以前の問題でしょうね。 そこで自分が楽なように思考停止しちゃうのが オタク的思考の一番ダメなところなんだよね。 「そう言っていただけるのはありがたいけど、 自分が納得できないので何かしら償います!」 ってのが人間の良心の基準だと思うんですよ。 気持ち悪いのは、この作品がこれだけ高評価って ことが象徴してるように、その辺の葛藤に関して、 楽なら楽で気持ちよけりゃいいじゃんって思想が、 この国の悪いけどこんな単館上映の映画を見るような デリケートな、他のどーでもいいエンタメ喜ぶような 層とは一線画してる良識持ってるはずの層に浸透 しちゃってるっていう、倫理レベルの低下なんだねー。 赤面しながら言うけど、思いやりとか温もりはどこに行ったの? 弱者に共感してなんぼのはずの真面目で心優しい映画ファンが 酷い目に遭った対象への同情や気遣いや葛藤ではなく それを眺める自分たちの心の平和の方を優先評価するって、 ものすごくえげつない凄惨な修羅の出来だと思うのよ。 あんたらのその心根こそが地獄をこの世に体現してる っていっても過言じゃないと思うんだけど、その辺どーよ?• その出来事が具体的にどんなものだったのか、後半で明かされますが、彼女はそのことを死ぬ間際まで引きずっている... その悔悟は、人間が持っている良心が生み出したものだと思います。 映画にはウソがあっていいわけだし、ましてやこの作品はコメディなのだから、ご都合主義が多いこと自体はちっとも問題ないではない。 ただ、それが人間の基本的な感情とか、物語の核心部分に及んでくると、受け入れられないですねぇ。 オタク思考に関しては、ちょっとよくわからなくて... 私は「年間200本の映画を観ているのなら、あなたもオタクですよ」と、このスレッドで指摘されたのですが、私がオタクで、家元たちの言動がオタク特有のものなら、私にも彼らがわかるはずだと思うのです。 ちなみに、オタクを主人公にした映画には「電車男」がありますね。 あの映画自体は、私はそんなにいいとは思わなかったけど、主人公の気持ちにはとても共感できるますよ。 あと、この映画を高く評価している人々が全員オタクかというと、たぶんそうではないと思うので、オタク云々はあまり関係ないのではないか? という気がします。 タイトルが『キサラギ』ということに。 この話、脚本はとてもよく出来てると思うんですよね・・・。 うまいなぁ、と。 ただ、私、韓国女優イ・ウンジュさんのファンだったために、『2月に』『自殺』『ヌード』『物入れ』というキーワードが次々出てくるたびに、もう本当に胸が苦しくて・・・。 似すぎてて。 偶然だと思うんですけどね・・・。 最初の『ぱ〜っと楽しみましょ』から、『・・・楽しめないんじゃないかなぁ』と思ったし、 私は1年目も悲しかった為)最後の歌い踊るシーンは、多分笑う所なのでしょうが、かわいい女の子の姿に涙が。 こういったことが無かったら、楽しめる映画だったと思います。 途中はかなり笑ったし、『おぉ』と思うところもたくさん。 かなり、個人的な感想ですね。 楽しみに行ったはずが、ちょっとズーンとして帰ってくることになってしまいました -o-。 もうちょっと人の命は大切に扱わないとね・・・。 如月ミキのようにアイドルとかではなく生まれたときから一緒に居た、大切な人です。 そのことを聞いたとき、一番に思ったのが 「くやしさ」でした、何故、もっと毎日会いにいかなかったのか、もっと一緒にいなかったのか。 こんなに身近で死を連想することが初めてだったので、本当に怖かったです。 それを踏まえて、如月ミキの死は、家元はまだしも他の四人はもっと、悲しんでもおかしくないですね。 自分たちなりのやり方でミキの死の真相に対してもっと何かしてあげてもよかったと思いました。 ただ、まだ引っかかるのがプラネタリウムのシーンなんですよ、なんでオダは急にプラネタリウムを切って、次の追悼式は無しにしよう、と提案したんでしょう?また五人で楽しみながら追悼しようとしたら、この提案はありえないとおもうのです。 私は、そのシーンに違和感を感じて勝手に推理して「ミキがかわいそう」に異を唱えたのですが、 やはりあのあとオダはなにかしらの責任をつけたんでしょうか? あの場でプラネタリウムを見て勝手に死の真相に決着をつけて罪を清算しようとせず、それぞれのやり方で責任をつけられるように、だとしたらこの作品の五人も思いやりややさしさがある良識ある人たちであったのではないか、と思います。 今回この作品には色々と勉強させられました。 他人と真っ向から意見を交じあわせながら、映画について、見識が変わりました。 もういちど今まで見てきた作品を勉強し直ながら再勉強していきたいと思います。 長文失礼しました。 指摘されてはじめて気がつきましたが、「如月」は旧暦の2月のことを指していたのですね。 まあ、コメディらしい設定ですね。 イ・ウンジュが自殺したニュースは、当時私もショッキングでした。 ただ、彼女のファンではなかったので、それほど引きずらなかったのですが。 映画と似ているのは、やはり偶然でしょうね。 もし、その事件を参考にしていたら、タチが悪すぎます... 私も見終わったとき、ズーンとなりました。 観ているとき、私は心の中で「もし、この映画がハッピーエンドで終わるなら、じつはミキが生きていた、という展開しかあり得ないだろう」と踏んでいたので、ハッピーエンドなのに死んだままで終わったのには、呆然としてしいましたね。 dookさん> そんなことがあったのですか... 大変な経験をされたのですね。 一命は取り留めたのでしょうか? どのような状態にあるのかわかりませんが、病気やケガなら、早く回復されるとよいですね。 身近な存在だった、というのは、この映画に例えるとミキと安男の関係に近いのではないかと思います。 「くやしい」というのは、よくわかりますよ。 私の場合、人ではないけど、愛犬が死んだときに同じことを思いました。 オダがプラネタリウムを切って提案したシーンですが、私はそれを覚えてないのですよ。 もし、再鑑賞する機会があったら、注意して観てみますね。 私もこの作品を通じて、いろんなお話ができてよかったです。 私は他の作品の掲示板でもいろいろ書き込みしていますので、機会があれば、またお目にかかりましょう! で、今日見させていただきましたが、おもしろかったです。 皆さんの言う「違和感」も理解できないことは無いのですが、オダがプラネタリウムのスイッチを切ったというのが結論じゃ無いでしょうか。 一人一人にスポットを当てたので楽しそうな回想シーンで終わっていますが、これ以上見たときに如月の死んだ前後に思いが届いてしまう。 オダは如月の自殺の責任も他殺の可能性も一番悩み考えていた人間です。 自分と同じ過去に囚われた人間になって欲しくない、後は各々個人で区切りをつけるために夕焼けがきれいだと話題を振って、涙を拭いたのではないでしょうか。 宍戸錠は結論を有耶無耶にするだけの存在ですし、あれはあれで良いのかなと。 ただ一視聴者として考えた時、そういう方向に思考が行かないようにする為、敢えて「ミキ」というパーソナリティを表に出さないように演出されているとは考えられませんか?事実、最後の最後になるまでミキの顔すら出さないようにしているし。 その辺の感じ方の違いがそのまま意見の違いになってるのかなぁと思いました。 あと若干話はずれますが上で浪花のロッキーさん達が仰っているような「オタク」に対する侮蔑的思考は如何なものでしょう。 「オタクはこういうもんだろ?」的なステレオタイプな思い込みが非常に不快です。 私も「キサラギ」を今晩テレビで観ましたが、なかなか良くできた良い作品だと思いました。 問題になっているプラネタリウムのシーンも、特に「酷い奴らだ」とは感じませんでした。 なぜかと言いますと。 (このスレで同じ内容が既出でしたら御免なさい。 長いスレなので全部を読んではいません) 彼らは元々、ミキの死を本当に悼む気持ちがあるから集まった人々です。 ミキのことを「かわいそう」と私たちに思わせるような奴らなら、始めからあの場に来ないでしょう。 では、彼らはなぜやってきたのか? それは(家元を除く)彼ら全員の中に「ミキの死は自分の責任ではないか?」という自責の念があったから、だと考えます。 特に元マネージャーのオダさんは、その自責の念から逃れたいがために「ミキ他殺説」なる説まで作り出し、犯人への復讐を誓うことで罪の意識から逃れようとしていたようにさえ見えました。 さて、このオダさんの「他殺説」によると、ミキは「殺された」ことになります。 「理由はともかく、ミキは何者かによって黒こげにされ殺された」と言う説なんです。 ある意味で、そう主張することこそ「ミキがかわいそう」ではあるのです。 それはともかく、話が進むうちにこのオダさんの説は「自身の罪悪感逃れのためではないのか?」と見破られ、実は「オダさんこそ、ミキにヘアヌードの仕事を受けることを迫り、彼女を心理的に追いつめ、挙げ句自殺に追い込んだのだ」という自殺説が浮上します。 「ミキは誰かに心理的に追いつめられ、黒こげになって自殺した」という説です。 この説もやっぱり「ミキはかわいそう」なんです。 そして再び話が進み最終的に、 「ミキは誰にも憎まれておらず、誰にも追いつめられたりもせず、ファンからの手紙を持ち出そうとして、事故死したのだ」という事故死説に落ち着きます。 なるほど、これならば誰も罪悪感を感じる必要がなく、むしろミキの死を美化できます。 ミキは、殺されたり、自殺したと言うのに比べれば、それほどはかわいそうではなくなります。 確かに、 「誰も責任を感じずに済む結論に落ち着く事に違和感を感じる」 という理屈は、誠にごもっともでありまして、私にも理解はできます。 しかし、彼らがそのような結論に達したのは、無意識的に罪悪感から逃れたいという責任回避的心理も働いたかもしれませんが、意識的、あるいは第一義的には 「ミキが何者かの暴力で理不尽に殺された」 あるいは 「誰かに心理的に追いつめられて自殺した」 という「死の真相」の方が、「遥かにミキがかわいそうだから」という故人を悼む気持ちから出たものではないでしょうか? すくなくとも私にはそであると思います。 ほとんど嬉しいとさえ感じてしまうかもしれません。 そのような人の心理は想像できないでしょうか? プラネタリウムのシーンはそう思ってみると、たぶん違和感がなくなると思います。 彼らはミキの死を一時たりとも悼まなかったことのない人々です。 1年も経過しているのに、未だに彼女の死を巡って、怒鳴りあったり殴り合ったりするような人々なのです。 ですから、ミキの死が事故死であって欲しいと考え、殺されたり追いつめられての死ではなかったと信じられたことを「思わず喜んでしまった」と、私は見ています。 そしてそのことが、彼ら自身の無責任な「罪悪感逃れ」に見えてしまい、不快だと感じる人が出てしまったのだということも理解できます。 しかし更によくよく作品を見ますと、事故死と信じても、まだ彼らは「それでも自分が〜していれば…」という言葉を述べ、故人を悼む気持ちや自責の念を引きずっているのが分かります。 それに比べて。 そんなことよりも、もっともっと私が腹立たしいと感じるのは、現実の方です。 この映画など全然ましだと感じます。 例えば私が、中学時代の同級生の訃報に触れ、通夜にお宅に伺ったりしますと、ほとんどの場合、私の見る弔問客達の多くが、その場を同窓会か、あるいは仕事の取引の場の延長か何かと勘違いしているかのように振る舞っているのを目の当たりにすることが多いのです。 違和感どころか、強い憤りを感じることがしばしばです。 そんな私が見ても、この映画の登場人物達は、そんな人達とはほ全然違って、故人を悼む心を強く持ち、その責任を引き受けようという潔い人達であると、しっかりと見えます。 むぎわら帽子のジミーさんの違和感が少しでも少なくなると良いと思い、書かせて頂きました。 長々と失礼いたしました。 私もこの映画を、ミキがかわいそうと見た者です。 5人の登場人物たちの感情に違和感も感じましたし、ラストのプラネタリウムの回想やダンスも「うーん」という感じでした。 ただ、それが一気に変わったのは、最後の最後で宍戸錠が出てきたシーンです。 「自殺でも事故でもない、他殺だ」 はっきり言い放ったところで、 5人の中に真犯人がいるんだと思った瞬間 私なりの解釈では 「あーだから違和感を感じるのか。 この人たち、誰も真実を言ってないのかも。 」や 「悲しみの薄い、あの人が犯人なのかも」 など、色々な推理がわいたからです。 つまり、真犯人がいる推理をさせるために あえて5人の違和感を作っているのではないでしょうか。 そこから考えると、私がファンだったらそんなことはしない、 あの人の反応はおかしい。 怪しいなど感じ コメディっぽくしてるけど笑えないと疑い、そこから謎解き思考に入れば 私は興味深い作品として見れるんじゃないかなあと、勝手ながら感じました。 いずれにしても、ミキがかわいそうには変わりないので 真犯人や謎解きは関係ないよと考えれば、あまり意味のない見解になってしまうので残念ですが…• 各自の顔のアップで感じられます。 「なぜ、死んだんだ」「俺のせいで・・」まさに、そんな展開になりそうなところをオダユージが断ち切ってますね。 結局のところ、そっちの描写をしっかり描いてしまうと、この映画のスタイルが異なるものになるからじゃないのかな?なんて思いました。 「オタクはこういうもんだろ?」的なステレオタイプな思い込みが非常に不快です。 思い込みじゃないだろ、ちゃんとスレ読めっての。 おれがステレオタイプに嵌め込んでる訳じゃないべ。 ちゃんと具体的な応酬があって引き出された見解だわさ。 あんたらオタク連中が、誰に言われたわけでもないのに 判で押したように同じ反応しか示さないだけのことだろ。 これがおれの思い込みにしか思えないなら、あんたは 自分を相対化して哂う余裕もないオタクってことだよ。 文句いうならおれじゃなくてお仲間の方に自重促すのが 先だって。 根本から順番を間違ってるってーの。 まあ、ネット弁慶の話題はいいとして・・ 結局のところ、「登場人物がミキの死亡事故に関わったのに嘆き悲しまないのが気に入らない」と言うことが否定派の主張のようですが 各々の行動はそれぞれミキに対してまったく悪意の無い行為から生じ、それらが偶然積み重なって死亡しただけです。 それに加えて最終的にはサラダ油と洗剤を間違えて撒いたと言うミキの行動が原因で死亡しています、これで責任の重さに嘆けというのは無理があるでしょう。 >それがどうして、プラネタリウムの星空を見上げたくなるような清々しい気持ちになるのか、理解できないです。 この映画を見て、そのような見解が(嘆き悲しまないのはおかしい)ほとんど出ていず多くの評価をされているということが全てです。 嘆き悲しまないから不自然で作り物のようだというならば観客は台本どおりに反応しているのでしょうか。 あの反応はありえるということの説明はこれで付いているので主論は終わりましたが、一応心理的な部分を書いておくと、最初に書いたとおり実際には責任はないようなもので、ファンなら悲しむべきと言う意見もありますが、それは求めすぎです。 悲しんで欲しいという気持ちが先行しているから出る言葉です、責任が無いなら自分を責める理由もありません。 もしこれが、原因不明の焼死だったなら話は違いますが、もうひとつ忘れてはいけないのは、この結論に達することが出来なければ、「仕事に疲れて自殺した」と言う結論で終わっていたことです。 それを避けて真実に辿り着けたことを喜ぶのは不自然ではないでしょう。 (オチで否定されていますが) 更に言えば、そもそも5人はこの説をそこまで信用していないということです。 あくまでマネージャーがミキを追い詰めたことによって自殺したという結論に達することを避けるために打ち出した案で、本来ならそれで説明も付くのです。 まあ、どんな作品にも賛否両論あるのは当たり前なのでわざわざレスする必要はありませんが、意外に意見が偏っていたのでレスさせていただきました。 ネタとして優秀。 道端のウンコが公衆衛生説いてるみたいなもんだよw• みんなが悲しんだりしない理由として、私なりの考えがあるので書き込ませていただきます。 彼らはアイドルの死についてさまざまな推理を交わし全員が納得する結論をだします。 すると、途中どんなことがあってもスッキリするもしくは興奮すると思うんです。 そのため、罪悪感や悲しみを感じなかったのではないでしょうか? そして、プラネタリウムを見て頭が冷えてそういったことに気づく前にオダがお開きにしたのだと思います。 そもそもこの作品は叙情的なものを追求する作品じゃなかった気が。 わかりやすいキャラ立てとしてスーパーアイドルとそのファンを持ってきただけなので、同じ構図が作れるなら別にアイドルとアイドルオタじゃなくてもいいと思うんだけど…。 それなのになぜオタクだから云々という話になっているのだろうか?? あと一部見苦しい書き込みがあるのですが、どんどん説得力がなくなってます。 上の方に、この作品が評価されてるので映画を観る人の倫理が低下していると書かれてるのもなんだかなあ。 人は死ぬと星になるってよく言うしw なにより 映画の最初の方に 家元のお宝に星空シリーズとかの写真集?があって そこでミキがプラネタリウムを持っている写真もあって (だからファンの家元がプラネタリウムを持ってたのかな?) 壁に映る星を見ながら 故人との思い出に浸っているのではないでしょうか?清々しい気持ちじゃないと思いますよ• ある時ある場所で正しいとされていた価値観が別の時や場所で弾劾の対象となることは珍しくありません。 また「五人がミキの死に対してあっさりしすぎている」というようなことも仰っていますが 人間にはどんなに苦しいことに遭遇したとしても それを良い方に受け取らないと生きていけないというようなことが確実に存在します。 現にあの五人は一年間の間苦しみ続け 真実が明らかになる直前まで互いに「お前のせいだ」というようなやり取りを繰り返していました。 そこでミキの死が自殺でなく事故だったという衝撃的な事実に対して本能的に「もうそろそろいいか」と いう気持ちになるのは人間としてとても自然な反応だと私は思います。 またハッピーエンドにするにはミキが生きてたことにするしかないというような言い方もされていますが 現実に愛する人を無くした人はそれでも生きていかなければならず、その為になんとしてでも良い方に考えるということが許されないのならば もうその人は死ぬしかないのです。 自分の罪を真っ直ぐ受け止めるという生き方は誰にでも出来るものではなく、ましてはこの五人は直接ミキを殺めたわけでもなければこの会合で明らかになった自分の責任についてはなんとか事実を受け入れています。 ここからさらに「もっと罪悪感を感じるべき」と言って責めるのはあまりに酷ではないでしょうか? おそらくむぎわら帽子のジミーさんはとてもまじめで責任感のある素晴らしい人間なのでしょうが 全ての人があなたのように生きられるとは思わないで下さい。 とここまで書いたところで誰も見ていないでしょうね ついさっきテレビでこの映画が放送されてるのを見てつい興奮してしまいました 我ながら馬鹿をやってると思います それでは• 新年早々キサラギやってたんで観賞しました。 私は悲しむ気持ちは沸いてきませんでした。 一年前の出来事でずっと引きずっている方も少ないのではと思います。 そもそも悲しむことをミキちゃんが望んでいないことを5人が一番理解しているのではないでしょうか? 上記の言い訳かもしれませんが…• まとめてレスさせていただきます。 オダユージが彼らのことを考える以前に、彼ら自身が気づかないのはヘンなのではないかと。 うまく演出でごまかそうとしているけど、私は根本の人間関係が描けているかどうかをしつこく観るので、そこに気づいてしまったんですよ。 あと、今まで書きませんでしたが、「オタクだから」という理由付けは、私も不快だし、そもそも関係ないのですよね。 オタクもひとりの人間であることに変わりはないので。 とてもうれしいです。 たしかに「他者に殺される」とか「自殺した」というのは、言葉では言い尽くせないくらい、痛ましい死に方だと思います。 しかし、事故死とはいえ、前向きに芸能活動していた女性が、つまらないことで死んでしまい、しかもファンの言動がそれに関わっていたというのは、もう気持ち悪くて仕方ないです。 少なくとも、うれしいとまで感じないです。 -------- 注・以下「ボーン・スプレマシー」の終盤の展開に触れています -------- たとえば、「ボーン・スプレマシー」に「ロシアの政治家とその妻を殺した主人公が、その娘に詫びる」というシーンがあるのです。 この事件は一般的には、「妻が夫を殺し、そのあと自分も自殺した」と扱われていて、娘も(おそらく)そのように受け取って生きてきました。 それを、主人公が「じつは殺したのは自分だ。 スパイとしての仕事だったんだ」と告げる訳です。 この場合、どちらも酷く悲しい出来事に変わりはないですが、相対的にどちらが悲しみの度合いが小さいかというと、後者の方でしょう。 前者だと、「母親は父を殺した殺人犯で、ふたりの間に自分の知らなかった不和があった」ということになるわけですから。 最後には、悲しそうに涙を流していました。 それは、彼女が主人公の気持ちを察したからではあるのですが、どちらにせよ両親が死んでしまった事実は変わらないからだとも思うのです。 -------------------------------------------------------------------------- あと、私には家元たちが当初からミキの死を悼んでいるようには見えなかったです。 序盤でオダも怒ってましたけど、彼らはふつうにオフ会気分でしたよね。 まちがっていたら申し訳ないです) それから、現実のお葬式を例に挙げられている件ですが、それをここで持ち出されても仕方がないと思います。 娯楽性の高い作品(あくまでも娯楽映画です)では、人間愛は現実よりオーバーに表現されるので、映画の演出として表現されたときに現実通りだと逆に違和感を抱いてしまうからです。 そういうわけで申し訳ないのですが納得できませんでした。 でも、私のことを思って書き込んでいただけたことには感謝いたします。 ありがとうございました!! なるほど、そのような解釈もあるのですね。 もし、つぎ鑑賞する機会があったら、そのことを考えながら観てみます。 だから推理メインの展開にしたいのであれば、彼らの設定をファンではなく、推理オタクということにして、ミキに対して感情を持たない人たちにした方がよかったんじゃないかと思うわけです。 そうではなくて、「責任がないのは理屈ではわかっているのだけれども、感情的にそう受け取ってしまうのが、相手に対する愛であり、人間という生き物なんじゃないかなぁ」という話なのです。 たとえば1作目の「スパイダーマン」で、「主人公が泥棒を見逃すという意趣返しをしたために、そのあとで主人公のおじさんがその泥棒に殺されてしまう」という展開があるのです。 主人公はその自分の行動を悔いて、やがて街を守るヒーローとして立ち上がることになるのですが、もし主人公が「たしかに泥棒の道を譲ったのは事実だけど、おじさんを殺した責任は僕にはないよ」とけろっとしていたら、観客は皆、違和感を抱くでしょう。 そういう話なのです。 この展開なら「仕事に疲れて自殺した」の方が、私にはまだましですよ(自殺を肯定しているわけではありません。 あくまでも相対的な話です)。 ちなみに、意見が偏っているのは肯定派の方々だと思うのですよね。 これだけ多くの人から高い評価を得ているわけですから。 私が見に行った映画館でも大爆笑の嵐だったんです。 でも、「どうしてこの展開で笑えるの?」というのが私の意見で、それに同意してくれているのは、このスレッドに投稿いただいたうちの、さらにその一部の方々だけなんですよ。 全体から見れば、すごく少ないのです。 死因によっては、そうでない展開もあり得ると思うのですが。 にもわかかわらず、この設定ではそうならざるを得ないところを、そうでないように描いている。 そこに不自然さを感じました。 なので、「同じ構図を作れるなら、アイドルとそのファンでなくてもいい」という意見には賛成です。 事実を悟ったときの家元たちの反応と、その後の気分なのです。 また、罪悪感を持つことを強制しているわけでもありません。 人間誰しもが持っている当たり前の感覚として、不自然すぎると言っているのですよ。 ひとつ例を挙げますが、最近「赤い糸」という映画を観ました。 そして、主人公は同じクラスのみんなから、「その責任はお前にある」と責めらてしまいます。 しかし、私はそうは思わないです。 誤解をして、勝手に飛び降りたのは、その友達なのですから。 その件で主人公が責められるいわれはないし、主人公を責めるのはまさに酷というものでしょう。 でも、主人公はなぜだか責任を感じてしまう。 それが、人間誰しもが持っている、当たり前の感情だと思うのです。 また、ポジティブ思考を否定しているわけでもありません。 たとえば、前に例に出した「いつか眠りにつく前に」や「テラビシアにかける橋」がそうです。 これでいいのではないでしょうか。 その悔恨が理由で死ぬ必要なんて、まったくないですよ。 ちなみに私はまじめでもないし、責任感もない、つまらない人間です。 そんな私でも、自分のアドバイスで誰かが死ぬことがあれば、必要のない心の痛みを感じてしまう。 そんな人間の性はまちがいなく誰にでも(もちろんEDさんにも)絶対あるはずですよ。 また、5人の出した結論は「アイドルとして追い詰められてセミヌード写真集を出さなければいけなくなったことに絶望して自殺した」よりはマシな結論です。 更に、この結論はあくまで推論であり、確定したわけでもなんでもない(加担したかもしれないし、してないかもしれない) この3点を踏まえると、悲しまなかったことに人間性がどうのと言い出すのは筋違いで誤った判断だということが分かります。 たとえばもし自殺説が正しいとしたら、結局それは、ファンレターを送り続けてプレッシャーを与えてしまった家元さんや人気を出そうと無理矢理色んな策を打ったマネージャー、写真集を出すことを止めなかったやっくんは、事故死説が正しいよりも嘆き苦しむことになります。 何故なら、自殺説の場合の方が、直接的に、あるいは大きく関わっているからです。 そもそも、何らかの形で関わったと言っても、最終的には「キャンドルを倒してしまって火事が起きた」のであり、明らかに5人は事故死説が正しかったとしても、ごく薄く間接的に関わっただけの話で、それを理由に嘆くほど関わったとは言えない。 >スパイダーマンの例え つまり、その例ほど深く関わっていないと言っているんです。 しかも、そのケースより悪い想定をしていたが、結論としては違った、というところが抜けています。 言わば「自分がビルを突き破った時に巻き込んで殺してしまった」と思っていたら「逃がしてしまった泥棒が殺してしまっていただけだった」となり、最悪の結論よりはマシになって、少し安堵したような状況です。 しかしそれは更に、そこでその泥棒を捕まえていれば死ななかったのだから、かなり直接的に関わっているが、今回の件は、例えばファンレターを送っていただけで、それを抱きかかえて死んでしまっただけであったり、ゴキブリは洗剤をかければ死ぬよ、とアドバイスしただけであったりと、明らかに話が違います。 そして更に決定的なのが、別にこの結論は5人が話し合って出した推論であり、確定すらしていないのです。 >自分のアドバイスで誰かが死ぬことがあれば、必要のない心の痛みを感じてしまう この言葉そのものは正論ですが、あなたはその範囲が広すぎると言っているのです。 あなたが今日散歩をしていれば、トラックに轢かれた子猫を助けることが出来たかもしれません。 推測が完成した時点で、彼らはそれが真実だと受け止め、プラネタリウムの星空を仰いで満足感に浸っているし、1年後にジョーが別の推論を披露したときに、驚いた表情をしていることからも、彼らは自分たちの推測を事実だろうと思い込んでいた(彼らの中では真実として存在していた)ことが明らかです。 もし、彼らが自分たちが導きだした結論を、数ある中のひとつの推論としてしか捉えていなかったら、満足感に浸ったりすることはないだろうし、ジョーの意見を驚きを持って受け止めることはしないはずです。 さらに、書かれているように、事故死より自殺の方が彼らの責任度合いが高かったとしても、序盤の(オダユージも指摘した)横断幕を垂らしたり、喪服を着ていないなど、本気でミキ死を痛み、誠実に弔おうとする様子がなく、楽しそうにオフ会を催そうとしているあたり、とても彼女の自殺を自分の責任として重く受け止めている様子がありません。 自殺したのは自分たちのせいだと感じ、それが事故死だとわかったときに重荷が軽減されたという展開にするのであれば、序盤はもっと重く描かれるべきだと思うのです。 素子様命さんなど、何人かの方が指摘された通り、たしかにこの作品は、ミキそのものがどうかということよりも、オダユージが向ける嫌疑の目を、いかに家元たちがそらし、殺人事件ではなかったと説得させるかがメインの展開になっています。 ですから、彼女の死については二次的な描写にならざる得なかったというのは、わからないではないのです。 しかし、それなら何も、最初の方に書いたように、家元たちをミキのファンという設定にする必要はなく、推理オタクという設定にして、必要以上に感情移入させない方法もとれたわけですよ。 しかし、彼らをミキのファンという設定にした以上、それがこの作品の大前提になっているわけですから、ファンとして彼女のことを特別な人間として慮ったり、気に留めたりする描写はほしいわけです。 どうして、死んでしまったことに変わりはないのに、プラネタリウムを見上げる気分になれるのか? 事件の謎が解けたという理由だけでは説明できないです。 結局のところ、冤罪にならずに済んで胸をなで下ろせる状況になったから、プラネタリウムを見上げる気分になれたとでもいうのでしょうか。 でも、それだったら、結局ミキのことはどうでもよくて、自分の保身しか考えていないことになり、私としてはやはり気持ち悪いのです。 つぎに、私が例に挙げた「スパイダーマン」の、ピーターの意趣返しが、結果として殺害事件につながった件についてなのですが、これは、通りすがりさんが書かれている「何らかの形で関わっただけなら、人は多くの殺人に加担している」に対しての一例であって、比較の問題は含んでいません。 あなたは、「人間、何らかの形で殺人に関わっているから、いちいち悲しんだり心を痛める必要はない」という立場をとられているわけですよね? ピーターのケースでも、まさか逃がした泥棒がおじさんを殺すとは予想できなかったわけです。 たしかに度合いは「キサラギ」のケースとは違うかもしれませんが、直接的だとはまったく思いませんし、「法律的には罪に問われないことを、自分としてはなぜだか罪に感じてしまう」という意味では同じですよ。 それに、推論であるということに、とてもこだわっておられますね。 何度も書きますが、それはまた別の問題であって、罪の意識を持つ持たないの話とは関係ないです。 たとえ推論でも、そういう可能性あるなら、私は気になって仕方ないですけどね。 「えっ! もしかして、自分のあのときの行動が死につながったの?」みたいに思いますよ。 それに、「スパイダーマン」の件でも、推論に近いものがあります。 ピーターはおじさんが殺されるところを見ておらず、観客も殺害シーンは見ていないのです。 警察が追っているから、あの男が犯人だろうと思って追跡し、捉えますが、同時に近い場所でも別の殺人事件が起こっていて、犯人を取り違えていたなんてことは十分起こり得ます。 たとえ推論であっても、その可能性が導きだされた時点で、罪の意識を持ってしまうものなのです。 これで納得されなければ、別の例を挙げます。 最後に。 ちょっと気になる部分があるので、お尋ねしたいのですが、最初の書き込みであなたは、「どんな作品にも賛否両論あるのは当たり前ですが、意外に意見が偏っていたのでレスさせていただきました」と書かれていましたよね。 ということは、否定的な意見に対しても、寛容な態度をとられている方だとお見受けしたのですが、そのつぎの書き込みでは「悲しまなかったことに、人間性がどうのと言い出すのは、筋違いで、誤った判断だということが分かります」と、私の意見を完全否定されています。 賛否両論あってもいいと書かれているのに、否定論を否定してくるというのは、意味が分かりません。 正直、すこし不快に感じてしまいました。 できれば、ご説明願いたいです。 「キサラギ」は大好きな映画で、DVDも買い何度も観ています。 初めは私も、ジミーさんが言われるように「ミキがかわいそう」と思ったこともありました。 まだ若いのに、なんともお粗末な事故で(推測ですが)黒こげになってしまうなんて…。 自分の好きなアイドルなんかに当てはめて考えたらとても悲しい気分になります。 ただ、正直ジミーさんのように「彼らは人間として、もっと責任を感じてしかるべきだ」とまでは思いませんでした。 なんでだろう…。 何度も観たはずなのに、その部分に一度も引っかからなかったのは。 皆さんが言われるように、直接関与している要素が少ないから、1年という年月が立っているから…などいくつか考えられるものはあります。 単に、作品に対する自分の見方が浅かったと言われればそれまでなのですが、たぶん作品自体の作りとしてもそこに深く感情移入させる作りにはなっていないからなのでしょうか。 で、おそらくそのへんのことが一番わかるのが皆さんが言われているプラネタリウムのくだりだと思うのですが、私はジミーさんが言われるような「清々しい気分で納得したように星空を眺めていた」様には見えず、きっとあの場面で、皆のあの見上げた表情の裏には色々な思いがあったんじゃないのかなと思うのです。 「顔で笑って心で泣いて」ではないですが、心の中ではきっと自責の念を抱いている人物もいたんじゃないでしょうか。 あの場面は音楽のせいもあってか、確かに清々しく過去を回想しているだけにも見えてしまいますよね。 でも、プラネタリウムを見始めたときの外の天気と終わった後の夕日を考えると、相当長い時間皆はプラネタリウムを見ていたような気がして。 きっと色々考えていたんじゃないかと…。 このへんはホントに受け手の勝手な解釈ですが。 だからこそ、この映画は最後のオチは無いほうが良かったと思います。 あの後、彼らは一体どうなったのか…前向きに生きていけたのか?それともやっぱり自分の責任を感じ、そんなに幸せになれなかったんじゃないのか?とか、あれこれ想像できたほうが面白かったんじゃないかと。 最後に。 ここの掲示板を見て、色んな人の色んな考えが知れてとても良かったです。 きっとここを見てなかったら一方通行的な見方でしかこの映画を見れてなかったと思います。 つたない文章でのカキコミ、失礼いたしました。 いま、時間がないので、手短かに書きますが、私は「彼らは人間として、もっと責任を感じてしかるべきだ」とは、ぜんぜん思っていません。 そうではなく、「責任を感じる必要がまったくないにも関わらず、なぜかそのように受け取ってしまう。 それが人間という生き物じゃないのかなぁ」という話なのです。 この点を誤解されてしまうと、ここでの議論は成り立ちません。 どうぞ、ご理解ください。 読み込みが浅くてすみませんでした。 ただ、よく見ると彼らは実際、劇中で何度もミキの死を嘆いていますし、まったく責任を感じる必要のないことを悔いていたりもするんですよね。 その部分を感じ取るか取らないかどうかはやっぱり個人差になってしまうのでここでこれ以上議論することはできないんだなあと思います。 それぞれ感受性や思考も違いますしね。 自分はもう何十回とこの映画を観てますが、観るたびに新しい発見や、新しい感情が湧いたりします。 映画って1回みただけじゃわからないものも多いし、結構細かい部分は忘れてしまったりするものですよね。 そのときの体調や気分でも捉え方が変わるし、同じ映画でも、5年後10年後と歳を重ねてから観るとまったく受け取り方が変わったりもします。 ジミーさんも、もしこの映画を1度しか観ていなかったり、しばらく観ていなかったら、もう一度じっくり観てみるのもいいんじゃないでしょうか。 嫌いな映画をまた観るというのは難しいかもしれませんが…。 もしかしたら新しい発見があるかもしれません^^• 回答がずいぶん遅くなってすみません。 以前、別の方にも書いたのですが、私には彼らがミキの死をそれほど嘆いているようには思えませんでした。 シナリオや演出以前に、この設定であの結末に持って行こうとしているところに無理があると感じました。 たしかに、書かれているように、人によって感じ方には個人差があると思います。 具体的に例を挙げると、たとえば「リメンバー・ミー」という韓国映画があるのですが、こ主人公が後半で、ある事実がわかってから取る行動があるのです。 その件について「なぜ彼女は未来を変えようとしないのだろうか?」という批判をしている人がいたのですが、私はその主人公の気持ちがすごくわかるのです。 彼女はいじけているのですよね。 しかし、私自身がそういう性格だから感情移入できたわけで、「なぜ未来を変えようとしないのか?」と疑問を投げかける人がいるのもわかるのです。 これは、受け取り方に個人差がある、ということだと思います。 しかし、「キサラギ」の場合、正直なところ、私から見ると、これが個人差なのかな? と疑問を持ちました。 人は誰でも、不必要な責任を感じてしまうものであるし、それが愛だと思うのです。 個人差があるから意見が分かれるというなら、そうなるはずです。 しかし、そういった批判がないということは、「愛を持っているが故に、不必要な責任を感じてしまう」ことが普遍的な感情である、と一般的に認知されているからではないでしょうか? もちろん私は、この作品において「愛がもたらす不必要な責任」をテーマにするべきだと意見しているわけではありません。 むしろまったく逆で、そういった感情を抱かせない方向に話を持って行かなければならないのに、結果的に感じなければ納得できないシチュエーションを描いてしまっているところに問題があるのではないか? と指摘しているのです。 だから(最初に話がもとるのですが)、「愛がもたらす不必要な責任」の必要性を感じさせない展開にするのであれば、オチをブラックユーモアにするとか、あるいは家元たちを推理オタクという設定にして、ミキとは何の関わりもない人たちということにした方が、この映画はもっともっと楽しめる作品になったんじゃないかなぁ、というのが、私の意見なのです。 ここで議論していて、どうしてもその提案が無視されてしまうのが、私には歯がゆかったです。 「もう一度観てください」というラッキーチャッピーさんのご意見なのですが、たしかに何度か観ているうちに理解できる作品はありますよね。 私もできればそうしたいのです。 しかし今、状況的に映画を観る気分になれないのと、仮に観たとしても、ここでの議論の歯がゆさが思い出されて正常に観ることができないと思いますので、しばらくはやめておきます。 これは、映画生活に参加されているみなさんへのお願いなのですが、私も映画ファンですから「自分の好きな作品を悪く言われたくない」という気持ちはとてもよくわかるのです。 でも、私はこの作品を貶めようとしているのでなく、改善案を提出するという前提で欠点を指摘しているわけですから、もうすこしポジティブに受け止めていただきたかったです。 ざっと拝見して思ったことを。 むぎわら帽子さんや、この映画に批判的な方々のおっしゃることは良くわかりましたし、お気持ちも良く判りました。 ただ、「人間は本来こうじゃなくちゃいけない」という偏った信念のようなものが、窮屈にも思えました。 愛する者の死に責任を感じてしまう者もいれば、感じない者もいます。 それは人それぞれであり、オタクがどうのとか人間的に欠陥があるとかっていうものではありません。 この映画に嫌悪感を抱くものもいれば、どうとも思わないものもいる。 それ良いんだと思いますよ。 (ちなみに、僕はどっちかというと違和感を持ったほうです。 ) むしろ、人それぞれという考えを拒否することの方が危険な感じがします。 世の中にはいろんな人がいるんです。 この掲示板の意見の二分っぷりがそれを如実にあらわしていると思いますよ。 >愛を持っているが故に、不必要な責任を感じてしまう」ことが普遍的な感情である ということは真実だとは思います。 ただ、それは一つの理想論でしかないとも思うんです。 自分がん?と感じたところは以下です。 『そこが上手く行っていないのが、この作品が失敗しているところだと思うのです。 』 失敗というのはどうなんだろう? 『私は「人間とはこうでなければならない」とは決めつけているつもりはないです。 また、罪悪感を持つことを強制しているわけでもありません。 人間誰しもが持っている当たり前の感覚として、不自然すぎると言っているのですよ。 』 誰しもが持っている当たり前の感覚と言っていることが、こう感じなければ普通じゃないよと言っているのと同意では? 『私はこの作品を貶めようとしているのでなく、改善案を提出するという前提で欠点を指摘しているわけですから・・・』 欠点という書き方が、、、 いろんな考え方、受け取り方があると思うと書かれている割に、自分以外の考え方を拒絶するような書き方をしてるなぁと感じます。 そこに反応している方も多いんじゃないかと。 サイトの存在を忘れていましたがふとした拍子に思い出したので書き込みを。 ずいぶん前のことのように思いましたがあれから4ヶ月しか経ってないんですね。 >むぎわらさん >彼らは自分たちの推測を事実だろうと思い込んでいた(彼らの中では真実として存在していた)ことが明らかです。 明らかではありません。 登場人物はこの推論を導いたあとに「推論かもしれない」「まだ何か隠してる奴はいないのか?今日言ったことだって本当かな」とそれを疑うような発言をしています。 全員かどうかは確認不可能ですが、少なくとも5人全員が推論を事実だと思い込んでいたということは前述の発言からして「明らか」などとは言えないでしょう。 >もし、彼らが自分たちが導きだした結論を、数ある中のひとつの推論としてしか捉えていなかったら、満足感に浸ったりすることはないだろうし、ジョーの意見を驚きを持って受け止めることはしないはずです。 推論の一つではあるが有力な説だと思っていただけでしょう。 しかしそれが真実だと決まっているわけではありません。 そもそも、驚いたことと推論は無関係でしょう。 本来であればミキは自殺したことになっているわけで、そこに鍵を持ってきて真相は他にあるなどと言われれば驚くに決まっています。 つまり、ジョーの意見を驚きを持って受け止めたからといって推論を正しいと信じ込んでいることにはなりません。 >楽しそうにオフ会を催そうとしているあたり、とても彼女の自殺を自分の責任として重く受け止めている様子がありません。 楽しそうにオフ会を催そうとしていたのは、自殺が自分の責任だと思っていない段階での話です。 ただアイドル業に疲れて自殺したと思っている状態の家元さんが楽しそうに追悼しようと思ったことと、自殺を自分の責任として重く考えていないかどうかは関係のない話ではないでしょうか。 >自殺したのは自分たちのせいだと感じ、それが事故死だとわかったときに重荷が軽減されたという展開にするのであれば、序盤はもっと重く描かれるべきだと思うのです。 そういう展開にすべきだと言ったわけではありません。 強い罪の意識から開放されてほっとしたことや悲惨な自殺ではないと発覚したことが、最後にプラネタリウムを見たり少しでも関わっていることへの罪悪感から意識が遠ざかる要因の一つになったと言っているだけです。 >家元たちをミキのファンという設定にする必要はなく、推理オタクという設定にして 私があなたや批判派の意見を見ている限りでは「人の死を推理の道具にしている映画なんて最低だ、そんな推理オタクを絶賛する者も人間性が疑わしい」などと言いそうでなりませんが・・。 >ファンとして彼女のことを特別な人間として慮ったり、気に留めたりする描写はほしいわけです。 追悼会を開いている時点で彼らにとってミキは特別な人間であると思いますが。 >どうして、死んでしまったことに変わりはないのに、プラネタリウムを見上げる気分になれるのか? 悲惨な自殺ではなく、類まれなる偶然の積み重ねと天性のおっちょこちょいによる事故死だったからです。 >冤罪にならずに済んで胸をなで下ろせる状況になったから、プラネタリウムを見上げる気分になれたとでもいうのでしょうか。 その見方はどうかと思います。 「冤罪にならなかったから」ではなく「追い詰められて自殺したのではなかったから」です。 >たとえ推論でも、そういう可能性あるなら、私は気になって仕方ないですけどね。 「えっ! もしかして、自分のあのときの行動が死につながったの?」みたいに思いますよ。 >それに、「スパイダーマン」の件でも、推論に近いものがあります。 ピーターはおじさんが殺されるところを見ておらず、観客も殺害シーンは見ていないのです。 スパイダーマンは見ていないので知りません。 あなたの文章がそう取れたのでそのまま転用しただけです。 >たとえ推論であっても、その可能性が導きだされた時点で、罪の意識を持ってしまうものなのです。 前にも書いたとおり、その言葉そのものは正論でしょう。 しかしあなたはその範囲が広すぎると言っているのです。 >これで納得されなければ、別の例を挙げます。 そういう意味で、その発言に対し「考えすぎだ」などと言うことは多分ないでしょう。 まあ、見ていないのでわかりませんが。 >賛否両論あってもいいと書かれているのに、否定論を否定してくるというのは、意味が分かりません。 賛否両論あってもいいですが、見た人間や作った人間の人間性について言及し批判するのハ映画への否定意見ではなく単なる人格攻撃です。 >正直、すこし不快に感じてしまいました。 できれば、ご説明願いたいです。 ミキが事故死したことについて罪の意識に嘆き苦しまなければ人間性が駄目だと言われるほうが不愉快です。 ミキの気持ちを考えるのもいいですが、この映画を評価している沢山の人間にも配慮しましょう。 個人差があるから意見が分かれるというなら、そうなるはずです。 私にしたレスではありませんが気になったので指摘します。 あなたはこのレスの部分で「そんなに簡単に割り切れるのであれば(愛を持っているが故に不必要な責任を感じてしまうという感情が普遍的でないならば)」前述した二つの映画は批判されているというレスですね。 この発言は次のあなたの発言を元にやはりあなたがキサラギに対して持っている感想がおかしいのではと言うことが出来ると思います。 >しかし、そういった批判がないということは、「愛を持っているが故に、不必要な責任を感じてしまう」ことが普遍的な感情である、と一般的に認知されているからではないでしょうか? 「愛を持っているが故に、不必要な責任を感じてしまうことが普遍的な感情である」というのが正しいならば、キサラギが絶賛されているのはおかしいはずです。 そういった感情が普遍的な感情ではないか、その感情はキサラギとは無関係かのいずれかであるはずです。 あるいは、あなたは必要以上に責任を感じてしまう加害妄想を持っているのかもしれません。 >ゲルググ氏 >愛する者の死に責任を感じてしまう者もいれば、感じない者もいます。 それは人それぞれであり、オタクがどうのとか人間的に欠陥があるとかっていうものではありません。 愛する者の死に自分が関与していたら責任を感じない人間などいないでしょう。 この作品の状況下で嘆き苦しむ必要はないと思うかあると思うかというだけです。 それは、あの状況を嘆くほどに関与していたと取るか否かということに集約されます。 >人それぞれという考えを拒否することの方が危険な感じがします。 世の中にはいろんな人がいるんです。 この掲示板の意見の二分っぷりがそれを如実にあらわしていると思いますよ。 なら最初から議論などする必要はありません。 価値観は人それぞれなんだから言い合いはやめましょうなどとでも言い出すつもりでしょうか。 議論にキリが無いのはまさにそこに問題があるからだと思うんですが…。 まさにそのとおりです。 だって映画評論じゃないもん、この議論。 だって映画評論じゃないもん、この議論。 そういう話ですか、それを理由にもうやめましょうというのなら言い分はわかりますがw これ以上続けたところで、ミキを可哀想と思わないなんて非情!酷い!おいしいスイーツがまずい!というようなことを延々言われたところで肩をすくめるしかないのは事実です。 申し訳ありませんが、今日募金をしなかったことでアフリカの子供たちが何人か水が飲めずに苦しんでいることを嘆き苦しむほど自意識過剰ではありませんので。 そして、自分はこれが愛だと思う、そう思わない人間は愛がない。 と決め付ける人間は自己愛にまみれているだけで他者への愛がないことに気付いているのでしょうか。 所詮、価値観の押し付けでしかないのです。 それこそ、所持金の全てを募金しているから私の方があなたより人間に対して愛がある。 と言っているのと何も変わりません。 条件が厳しければ、あるいは実行が難しいことをしているほど偉いなどというルールはありません。 何を持って愛とするかなんて人それぞれに決まっています。 ただ一つ言えるのは、自分の愛の定義を他人に押し付ける人間は愛がないということでしょうね。 あるいは、他者と比べて自分は愛情が深いという陶酔に陥っている、素晴らしき自己愛を持った人間なのかもしれません。 引っかかる箇所って人それぞれですね。 自分は基本的にひねくれてるんで みんなが絶賛する映画とかケチつけるし、ストーリー納得いかないっていうタイプですのでよくわかります。 このブログは基本的に否定意見なので、あえて肯定する人もいますよ、と書いてみたり。 嫌がらせとかじゃなくて、意見なんて人それぞれだってことを少し書いてみました。 通りすがりでいろいろすいません。。 そうじゃないと、見て不快になったりします。 世の中には基本的にはいい人ばかりと信じたいけれど、 いろんな人がいる。 ということでしょう。 えっと この議論は肯定派と否定派に分かれてて 否定派は アイドル如月ミキの死に関して追悼会に集まった 5人のファン(というか近親者)の行動原則に、 リアリティを感じられないから 良い作品とは感じられなかったということを言っているんですよね それで、その中の一部はそういった行動に嫌悪感すら感じるというわけですよね まず当たり前の話ですが、他人が感じた良い悪いは個人の感じた結果なのでとやかく言うつもりはないです。 ただこのスレを読ましてもらって思ったことを書かせてもらいます。 まず、死についての反応は観る人間の体験に大きく由来しているのではないでしょうか?僕自身、物心がついてから近親者が死んだという経験が無い為、ここで指摘されている事に思慮が回らずこの映画を肯定的にとらえていました。 なので家元以外のキャラクターの行動がリアリティに欠いたものなのかは判断できません。 ただ創作物としてキャラクターのとった行動はこれでよかったと思っています。 ここで議論されている事は、「子供向けの勧善懲悪のアニメで悪の組織に対しての大義を求めていること」と一緒だと思うからです。 そのシークエンスがあることで作品に深みは出るかもしれないが、ないことで駄作と認定するには至らないと思います。 次にこの作品のメインキャストの役柄がアイドルのファンである必然性についておもったことを書かせてもらいます。 僕が作品の鑑賞をした時に重要なファクターだと思ったのは死の意味です。 「当人は自身のアイドル活動に関して否定をして自殺したか?」というのがファンの目線として重要だったと思います。 なので、実質「如月ミキを懐かしむ会」から死の真相を迫る話し合いに発展したのだと思います。 そう考えれば話の結末として、事の真相に決着をつけた後に回顧することはおかしいとは思えませんでした。 なので、キャラクターがとった行動に対して別に嫌悪感も感じませんでした。 ちなみにファン心理として言わせてもらえば家元の反応は十分にリアリティがあるように思います。 僕自身ZARDというミュージシャンのファンでしたが(唯一発売したらCDを買うミュージシャン)彼女の死に対してのとらえ方に否定派の方々のような意見を求められても困ります。 最後に この映画を肯定的におもう観客の多さから日本の映画を憂うのは間違っていると思います。 単純にターゲットとしている層が違うから、死に対してのスタンスの軽さを問題にする作りになってないからです。 小栗旬、小出恵介がメインキャストなのは明らかに重厚な単館映画向け作品として作ってないのでは無いでしょうか。 僕はこの作品を「ポップな12人の怒れる男」だと思っているので黒澤映画「生きる」のような読後?観にならないかったことがとてもよかったと思っています。 映画評論から、人間の死への価値観まで様々な方向に話が進んでいて読んでいてとても興味深かったです。 なので、読んでいて自分が思ったことを言いたいと思います。 まず、僕はこの映画を3回見ていますが、プラネタリウムの場面への違和感は特に感じなかったタイプです。 ジミーさんの仰るとおり、人間は負うことのない責任を負ってしまうものだと思います、それは普遍的とまではいかなくても、多くの人間がその感情を持っている、と考えています。 しかし、僕が映画を見ていて主人公たちに否定的にならなかったのは、多分、主人公が悲しんでいる、というか彼らそれぞれが複雑な感情を含んでいる、と見えたからです。 少なくとも推理に満足している、清清しい・・・のようには感じませんでした。 これは憶測でしかありませんが、もし、ジミーさんと同じように彼ら4人の行動、言動がミキの死に対して不謹慎(悲しみの感情がみえない)という風に映っていたのならこの映画はこれほど高評価にならないと思います。 確かに父である香川さんの行動は今思えば軽いような気がします、しかし映画全体の雰囲気、バランスによってそれが気にならなかったのだと思います、点で見ればおかしな点は多々ありますし、僕自身なぜ彼らの行動に違和感感じなかったか、について、この場面が00だから、という風に説明する事は難しいです。 しかし、あくまで映画として2時間通しで見た上でどう感じたか?が僕は重要だと思うんです。 この作品は含みや観客側が想像する割合が大きいと感じました、なので個々の捉え方の違いによって皆様のように様々な感想がでると思います、でも映画の評価として登場人物の行動への倫理的な評価も必要だとは思いますが、それ以前に登場人物たちの行動がどのように観客に伝っているか、伝えられているか、が大きく評価に関連していると思います。 なので、僕はこの映画を評価します。 1年間、彼女を愛しながら失ってしまった悲しみを背負いながら生きてきた人達です。 彼らが『オタク』であるとともに、如月は作中何度も言われているように『アイドル』です。 作中でアイドルは『虚像』とも語られています。 特に家元に強く言えることですが、彼にとって今一番悲しいことはなんでしょうか。 この映画の彼らにとっての危機は、『アイドル如月ユキ自身がいなくなってしまうこと』です。 彼女が死んだという事実は1年間、彼らなりに受け止めてきた事実であり、ただ彼女が『アイドル』で有り続けていることが彼らにとっての支えなのです。 それが失われてしまうことが彼らにとってこの映画の中で直面する危機だと考えます。 謎が解けていくに従って、その『アイドル』像が崩れる危機に何度も直面します。 最終的には、彼女は彼らにとって『アイドル』でい続けたこと、つまり彼らの危機を拭い去ってくれたのです。 この先、レビューで触れられた原因を少しでも作ってしまったことに苛まれることがあっても、『アイドル』としてい続けてくれる安堵感にあの場は包まれるのも違和感がないと思います。 それにスタッフは彼女の顔を隠し続けることによって『虚像』であることも主張し続けてますし。 逆に否定派の方はオタクの気持ちを理解しきれてないのかなぁと思いました。 リアリティがないとか、悲しみ・悔悟が浅すぎるとか、全く考えてもみませんでした。 私がこの作品を肯定できるのは、5人の気持ちに共感できるからです。 ファンの立場からすれば、応援していたアイドルが自殺するのと事故死するのとどっちが精神的に楽でしょうか?私の感覚としては、事故死の方が楽です。 幼馴染や男友達 雑貨屋 、生き別れの父親からしても、同じだと思います。 「焼身自殺よりかは事故死の方が楽」という考え方です。 マネージャーとしては、自分のせいで自殺したのではないと考えることによって救われるでしょう。 集まった5人は、「自分の抱いていたイメージの中でのアイドル もしくは、人間 らしからぬ」焼身自殺という衝撃的な死に方に納得ができず、受け入れられずにいたのだと思います。 その思いを1年間も抱えながら生きてきて、焼身自殺ではなく事故死、「いかにもアイドル如月ミキらしい不運な」事故死という結論が出て、みんなが救われたのではないでしょうか? 結局、プラネタリウムを見るシーンで清々しさが感じられたとすれば、それは如月ミキが焼身自殺するような自分の「イメージと違う」人間ではなく、最後まで「イメージ通りの」アイドルだったということが分かったからではないでしょうか。 もちろん、その清々しさは一時のものかもしれません。 その後で「自分のせいだ」という後悔が襲ってくるかもしれません。 でも、5人の中での人間としての如月ミキのイメージは守られたのです。 5人にとって、それほど嬉しいことはないのではないでしょうか。 そのような見解、自分は思いつきもしなかったので。 ですが読んでいるうちに超個人的意見ではあるのですがこう私は感じたのです。 ファンや家族、友達、恋人にとって、愛している人が亡くなった時に何を1番求めるか。 それは「その愛する人が幸せに最期を迎えられたかどうか」ではないでしょうか。 彼ら5人が推理を始めた時「この話はやめよう」と言いあっていました。 これ以上に心に秘めていた失った悲しみや絶望に効く薬があるでしょうか? けれど先ほどのご意見にありました疑問の回答を名乗るには本題に入っていませんね。 本題に入りましょう。 ですがこちら、ご意見によってはとてもいやな後味になるかもしれない考えですのでご了承ください。 確かに彼ら1人1人に「自分が行ったことによりミキちゃんが亡くなったと」いう後悔もあるでしょう。 しかし考えてみてください。 もし自分がそのような状況におちいります。 愛する人は自分が行ったことが一端となり亡くなった。 だがしかし「他の人」が行った「愛ある行動」も一端となって亡くなったようだ。 それならばきっと、自分がしてしまった後悔にあたる行為はさほど大きいものではないのではないか。 なぜならば「4人もの人達」から「愛ある行動を受けていたのだから」。 」 そう。 精神的な方面の話になりますが、とりわけ日本人は「たとえ愛あるものだとしても自分が行った過ちにはひどい後悔の念に襲われ」やすいと思います。 ですが同じような状況の過ちでも「他人が行った愛のある過ちには寛容を覚えやすい」と思うのです。 しかも自分以外の「他人」がこの場合「4人」にもなりますからね。 これは要は「他人がした「寛容のできる」過ちと自分がしてしまった「過ち」は同じではないか」と自分の後悔ある過ちを寛容できる過ちと同等化して、寛容したのではないか、ということです。 まぁつまり自分1人が間違えたらすごく恥ずかしくても大勢と一緒に間違えたらそうでもない。 そういう様なことではないかと。 長々言いましたが結局の私の個人的意見はこのようなものです。 多人数の愛と思いやりの積み重なった不幸な事故によって一人の人間が悲惨な最期を遂げた、というこの劇中で書かれた出来事を単体で取ってみた場合、 それは非常にブラックではありませんか? また如月ミキというアイドルが若くしての焼死という、肉体的に非常に存在感のある残酷な死を遂げており、 更に最後の最後で顔を出してしまうという演出の結果、せっかくここまで顔の描写を避けることで 虚像のアイドルという概念、幻想としてのみ存在していた彼女が、この演出で 明らかな身体性を帯びてしまったことは明らかな演出ミスであると断言できます。 顔のない存在であった、言ってしまえば物語を動かすための道具でしかなかった彼女に ここで明確な人格が与えられてしまうのです。 彼女如月ミキは、なんだかよくわからない「いたらしい」アイドルではなく、 存在する一人の人間になります。 これはキャラクターにとっての視点ではなく、観客にとっての視点です。 いまのいままで、誰かの語りのうえでしか存在できなかった彼女が、ライブといういわば「私たち観客がよく知っているふつうのアイドル」の構図を固定カメラで撮られることで、 一瞬ではありますが、彼女が「現実に存在しているかもしれないアイドルであり、一人の人間」として機能してしまうのです。 キャラクターの考えについて述べると更に長文になってしまいますので、ここでは述べませんが、 上記の機能が果たされたあとも、そのうえで彼女の死を「軽いもの」と扱い続ける映画それ自体に、他の方の言葉の繰り返しになりますが、 私はどうしようもない気持ち悪さを感じてしまいました。 つまらない事故かぁ。 そーかなぁ。 どんな事故ならつまらなくないんだろ。。。 事故や、病気、あるいはその外。 人の死なんてつまらないもんですよ。 感動的な死なんてむしろリアルじゃないんじゃないかな。 投稿者様はそういう人間のリアルな心理描写が気になるっておっしゃるけど、自分も経験から一周忌ならこんなもんじゃないかなって思いますよ。 (市川中車はさすがに実家帰るか、墓参り行けよ、とは思いますが。。 ) 今生きてる5人がそれぞれの大切な人(アイドル)の死に向き合い、また決別し新しい一歩を踏み出した、かも。 っていうエンディングは悪くなかったかなぁ。 最後は蛇足だけど。 笑える部分も多分にあったしね。 この映画低評価な人って人の死について理想持ちすぎなんじゃないかな。 もしくは大事な人の死に遭遇したことないのかな。 どんなに大事でも一年過ぎて自分責めれるくらい人間高潔に出来てないよ 笑• きっと、誰も見てないのかもしれないですね。 でも、まとめてみなさんの意見を拝読させていただき、迷走しつつも、本題をという気持ちがひしひしと伝わってきて楽しかったです。 個人的にはアイドルと言うモノは身近な様でいて。 実は遠くて。 故にコアなファンは胸に虚像を抱いたまま。 個人としての死もアイドルとしての死も、受け入れていない部分があって。 だから浮かれた追悼パーティとか、企画してみたり。 結果は違っていきましたが。 プラネタリウムはその虚像の象徴で彼女の人となりを表したもので。 5人の持っている彼女のイメージが間違いではなかった、と言う表現でしかなかったように思いました。 彼等の受容段階の一歩を表す表現でもあると感じました。 苦しむのはきっとこれから、です。 ミステリーで被害者をかわいそうと思うのは、自由だし。 構成を疑問に思っても、いいんじゃないかなぁ。 各個人が感じる違和感は、あくまで、個人のものなので。 この映画が見せたかったものはなんなのか? 監督、脚本の意図は? と考えると、完全ではない完成品かと。 今時でも良くある形。 この映画がハッピーエンドとして見えたのでしたら、それは驚きです。 一貫して悲劇しか描かれてないので、ね・・・ 悲劇をどの様にミステリーとして伝えるか、と言う手法としては良作 ハッピーエンドにほんとに見えるんですか?• これだけ多くの人から高い評価を得ているわけですから。 私が見に行った映画館でも大爆笑の嵐だったんです。 全体から見れば、すごく少ないのです。 もし、再鑑賞する機会があったら、注意して観てみますね。 返信を投稿• ゴキブリを退治する方法を教えてもらい台所用洗剤を撒いたのが、じつは食用油で、疲れた果てたミキはマネージャーに「もうダメ」と間違い電話をして、そのまま寝てしまう。 「事故死」という結論でした。 もし、私が安男だったら、「あんなアドバイスをしなかったら、ミキは死ななかったかも?」とか、あるいは家元だったら「ファンレターを出さなければ、彼女は逃げられていたかも?」と悔悟の念にとらわれると思う。 でも、私としては「あんなつまらない死に方をして、ミキがかわいそう」という印象の方が強いです。 私がミキのファンだったら、絶対そう思います。

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