大隈 重信 政党。 大隈重信もガックリ?初の政党内閣が失敗した理由

政党のおこリ、自由党・改進党とは? 板垣退助・大隈重信とは?

大隈 重信 政党

その内容は明治維新の歴史的位置づけから始まって、徳川慶喜伝、帝国憲法の由来、外交、財政、陸海軍、政党、法制、逓信、鉄道、海運、教育、学術、医学、宗教、哲学、文学、音楽、新聞、農林水産、鉱工業、銀行、貿易、社会主義、国語論にまでおよぶ。 執筆陣もなかなか豪華な顔ぶれで、大隈本人をはじめとして、伊藤博文、山県有朋、松方正義、山本権兵衛、前島密、西園寺公望、新渡戸稲造、坪内逍遙、山路愛山、後藤新平、尾崎行雄、安部磯雄など60人以上にのぼる。 i板垣退助 出身地(現在) 高知県 生没年月日 天保8(1837)年4月17日〜大正8(1919)年7月16日 土佐藩主山内豊信の側用人などをつとめるが、藩の公武合体路線と相容れず、討幕派と連携。 戊辰戦争で活躍。 明治維新後、高知藩の大参事となり、藩政改革を行う。 明治4年 1871 廃藩置県を断行。 参議となり、岩倉遣外使節団派遣後の留守政府をあずかるが、征韓論が入れられず6年に下野。 翌年、ともに下野した後藤象二郎らと民撰議院設立建白書を政府に提出。 愛国公党や立志社を設立、自由民権運動の先頭に立つ。 14年自由党の総理に就任。 後に第2次伊藤内閣、第1次大隈内閣の内相をつとめた。 大隈重信 出身地(現在) 佐賀県 生没年月日 天保9(1838)年2月16日〜大正11(1922)年1月10日 父は佐賀藩士。 尊皇攘夷派志士として活躍。 維新後、外国事務局判事などを経て、明治3年 1870 参議となる。 明治6年大蔵省事務総裁、ついで大蔵卿に就任。 征韓論争後、財政の責任者として大久保利通を補佐した。 明治14年の政変で失脚。 15年立憲改進党を組織、東京専門学校 早稲田大学の前身 を創立。 第1次伊藤、黒田両内閣の外相として条約改正に関与。 第2次松方内閣の外相兼農商務相。 31年憲政党を組織、首相に就任した。 40年政界を引退したが、のち復帰。 大正3年 1914 再び首相となる。 (国会図書館、近代日本人の肖像より) 第一回総選挙 小党分立 第一議会の政党 第一議会と内閣 二大党の連合 第五章 議会開設後の政党(一) 政府と政党と大衝突の時期 明治二十二年二月発布の憲法に従い、衆議院議員の第一回選挙は二十三年七月一日を以て執行された。 憲法政治は東洋に未曾有(みぞう)の事なので、内外の識者は其が如何(どう)なるのかと気遣った。 当時の選挙法に従えば、投票権を得た者は人口四千二百万人中僅に四十六万人で、百分一強の割合であったけれども、国民一般は未だ進んで参政権を求める程度に達しないが故に、政党を組織し、政治運動を為し、与論を作成する者は、教育ある少数の人々に限られたので、此点に就いては一般に不平は無かった。 憲法の実施は草創であるけれども、選挙は概して慎重に行われ、其運動の如きも、後年に比すれば却って平静に、投票も亦頗る清潔に結了した。 但政府が果して憲法の精神を遵守して責任内閣の実を挙げるか否かは疑問にして、民間各政党の大いに政府と戦かおうと覚悟している所であった。 前章に述べた如く、自由党は解党し、改進党は独立し、大同固結は分裂して、本派の大同倶楽部は自由、保守を混同し、異分子は互に暗闘の状があった。 旧自由党員は分離独立しようとする傾向があった。 又別派の大同協和会は再興自由党の標貌を襲ぎ、板垣伯は大同倶楽部の調停を試み、二十二年十一月大阪大会に臨み、再興自由党と合同しようと謀ったが事成らず、已むを得ず翌年一月自ら起って愛国公党を組織し、一時大同倶楽部及び再興自由党と鼎足(かなめあし:両天びん)の姿を為した。 他に九州進歩主義者の団体九州同士会があり、さらに政党に属しない吏憲、又は保守主義の団体等があって、総選挙は小党分立の間に執行された。 このまま第一議会に入れば政府の対議会政策は甚だ容易だったが、政府と競争の必要上より、民党の合同の気運は自ら進んで来た。 特に九州同士会は民党中の進歩主義者を連合して、保守党及び政府党に当ろうと欲し、各派の間で周旋した。 しかし、政党連合は政府に禁止されて退行するばかりとなり、更に各党各派を解散して、一大政党を作る計画が成った。 八月に九州同志、大同、自由及び愛国の四派合同して立憲自由党を組織した。 改進党は此合同に加わらず、総選挙には僅かに四十余名の議員を出したけれども、彼等は一致して議会中の有力なる団体を成し、事実問題には立憲自由党と提携して、共に政府に当ろうと約したので、第一議会召集の十一月二十五日には、両党の議員は全議会の最大多数(二百七十余名)を制し、貴族院議長には伊藤博文伯任命され、衆議院議長には自由党の中島信行氏選挙された。 第一議会(明治二十三年十一月二十九日〜二十四年三月八日)には山県有朋内閣は痛く民党に虐められ、予算問題に就いて六百五十余万円の削減を譲歩し、明年度に大いに行政を整理し、経費を節減し、改革を実行するを約し、これで議会を通過するを得た。 二十四年五月山県総理大臣は辞職して松方正義内閣が成立し、而して此内閣で最も重きを為した内務大臣を子爵品川弥二郎氏とした。 是年三月立憲自由党は自由党と改め、板垣伯を総理に挙いだ。 自由、改進両党の第一議会に於ける態度は閉会後も継続し、政府の反対党である事に一致し、大隈、板垣両首領の会見となり、民党の大懇親会となり、両党は全く連合の実を挙げた。 而して政府が進歩調和の方針を棄て、却って政党と戦い、一挙に之を撃退しようとする決心は、第二議会を開く以前の行為と、議会提出議案の性質とによって表明された。 つまり第一議会が政府と交渉して局を結べたのは、山県内閣が次期の議会までに行政整理、政費節減の実行を約した事による。 然に此内閣は辞職したりと雖、之に継げる松方内閣も、民党より見れば藩閥系統の内閣にして、特に其中に重要の位地を占める品川内務大臣は明らかに山県系の人なので、必ず前内閣の約を践(ふ)む義務あるものと信じているのに、松方内閣は一歩も民党に譲らない方針を取り、前議会に民党が肉薄して節約した剰余金より、数百万円を岐阜、愛知の震災救助に支出した。 固より其幾分は緊急支出の理由はあるが、永久工事の費用は議会に謀る時日が充分あるにも拘わらず、故意に開会前に支出し、以て政府の特権とみなそうとの意志を示したのであった。 其議会提出の議案も亦前会の余剰金を悉(ことごと)く皆、新事業費に充てる方針を取り、民党が要求する民力休養の実施を拒絶したので、政府と議会との衝突は遂に免れえない形勢となった。 斯くて民党は憤激した。 第二議会の解散 選挙大干渉 選挙干渉の余毒 司法官の公明 第三議会と内閣 国民協会 同盟倶楽部 第四議会 第二議会(二十四年十一月二十一日〜十二月二十五日)に於て自由、改進両党の議員が連合して議会の多数を制し、岐阜、愛知の二県震災救助費の臨時支出も、政府提出の重要議案も、悉く皆否決すれば、政府は直に議会を解散した。 そして内務大臣品川氏及び次官白根専一氏を中心に地方官を内命し、政府に縁故ある一切の機関を通して大いに選挙に干渉し、民党を挫折して政府党の多数を議会に出すことを計画した。 其影響は直ちに選挙の間に顕露し、出所不明の金を以て投票を買収する者があり、暴漢を使って選挙者を脅迫する警察官があり、官吏は無論、苟(いやしく)も政府と縁のある銀行、商社其他の商工業家は自由に投票が行なえず、暴漢奔走して良民投票の自由を脅制し、全国騒然として民心恟々(きょうきょう)とした。 就中で民党の本拠地と認められた高知、佐賀二県を始め、其他北陸諸県は兇漢白昼に剣銃を執って横行し、数多くの死傷者を見るに至り、民党は非常な困難を被ったが、総選挙の結果は依然として民党多数を占め、前議会と異なる所はなかった。 政府が此干渉を行ってより、始めて選挙に金を散じ、饗応を為す俑(よう:ひな形)を作った。 試みに第一回の選挙と二十五年以後幾回の選挙とを比較して之を視よ。 初回は暴力の行われた地方も無くはなかったが、一般には平穏着実にして、選挙区民は選挙費の少額を誇るの風があったが、一たび出所不明の金が選挙場裏に散布されてより、其弊今に止まらないのは選挙干渉の余毒の充満するものであった。 此間に妨害すべき一事は、行政官悉く選挙に干渉し、警察は投票の安全を保護せず、却って暴人を使用した形跡がある故に被害者は裁判所に告げて、権利の擁護を求める外に救済の道がないので、国民は裁判の独立が果して確実なのかどうかを疑った。 然るに時の大審院長児島憚謙氏は 「司法の信用を保つか否かは、此危機に処する裁判官の行為に在り。 唯事の是非を見て公明の判定を下して、民吏両党の別を眼中に置くべきでない」 と内訓を発した。 是れ実に暗中に閃く光明にして、其効果は著しく、多くの判事中には或は公明を欠く裁判があったとはいえ、大体に於ては政府の機関の中で人民の信頼を得たのは、此際独り司法部あるのみであった。 而して帝国の裁判所をして遂に神聖公明の位置を保たせたのは、其部内に責任を重んずる真面目の人がいたからであった。 選挙干渉の騒動は湧くが如く、閣外の元老中にも亦之を喜ばない者がいた。 政府は内務大臣品川氏を免じ、枢密院副議長伯爵副島種臣氏を後任として、民心を緩和しようと試みた。 第三議会二十五年五月六日〜六月十四日)は直ちに選挙干渉の責任を質し、政府の処決を促す決議案を通過した。 副島伯は政府と議会とを調整しようとしたけれども内閣員等と意見が合はずに辞職し、議会閉合後農商務大臣河野敏鎮氏が其後任となったが、内閣の統一を保てず八月八日総辞職をした。 此に於て第二次の伊藤内閣に代り、山県、黒田、井上、大山氏等の元老が内閣に列し、陸奥宗光氏外務大臣に任ぜられた。 第三議会の後に於ける政党の新現象は、国民協会の出現であった。 西郷伯、品川子が其党首で前内閣の庇護によって当選した議員の網羅し、国家主義を声言し、国権の伸張、軍備の拡張を綱領としていた。 自由、改進両党の連合は依然としてあるが、其外に独立して政府反対の態度を執る議員等は同盟倶楽部を組織し、少数ながらも其主張は頗る強硬にして、民党の別働隊と称せられた。 第四議会(二十五年十一月二十九日〜二十六部三月三日)も政府との確執は前議会と同じく、衆議院は政府の積弊を一掃しようと欲した。 そして軍艦製造費の必要を認めながら、政府国防方針の不確定を理由として其全部を削除し、政府の予算案歳出総計八千三百七十五万九千六百六十六余円より八百七十一万八千二百七十二余円を削減しよと要求したが、政府は之を認めずに衆議院は休会して其反省の促し、次に上奏案を提出し、政府より十五日間の停会を命じられたが、再び開会するや上奏案を可決して、また休会した。 最早政府は議会を解散しても、多数を占める見込なければ、自ら処決して総辞職を為し、議会の多数に責任を譲る外なかった。 大詔煥発 第五議会 第六議会 日清戦争中の第七議会 第八議会 然るに政府は議会を解散せず、又自らも退かず、二月十日大詔煥発し、局面一変して第四議会を無事に閉会した。 聖旨(せいし:天皇の命令)に宣(のたま)う、内廷の費を省き、六年間毎年三十万円を下付し、又文武の官僚に六年間其俸給十分一を納めさせ、以て戦艦費の補足に充て、内閣と議会とは各自立憲の機関として、互に権威を慎み、和衷を以て国家の大事を補翼することを望むと。 そして衆議院は政府を要し、次期議会までに行政整理、経費節減を行うことを公約して、政府の同意し得る程度に於て、遂に予算を審査決定した。 第五議会(二十六年十一月二十八日〜十二月三十日)は党派の形勢の一変する徴候が現はれた。 当時の衆議院議長は自由党の領袖星享氏にて、取引所問題に関して醜聞があったので衆議院は先づ彼に議長辞任を勧告し、遂に議席より除名し、是より自由党は星派と非星派とに分裂した。 前議会に同一歩調を取った自由、改進、同盟倶楽部の内、自由党は改進党と同行を好まず、漸次政府と接近するの徴候があった。 而して国民協会は前議会閉会以来、却って公然と伊藤内閣に反対の旗幟(きし)を翻がえした。 伊藤内閣は条約改正を遂げる事を欲して現条約の励行を怠り、改進党、同盟倶楽部、国民協会等は対外強硬主義を主張し、互に合同して政府に反対し、再度停会の後に第五議会は解散された。 二十七年三月一日の臨時総選挙は、政府が選挙取締に干渉や不公平のないよう各地方長官に訓示してあるにも拘わらず、競争劇烈にして、政治界の熱度は最高点に達した。 第六議会(二十七年五月十五日〜六月二日)開会の数日前に同盟倶楽部は同志倶楽部と連合して立憲革新党を組織し、改進党及び国民協会と歩調を一にし、対外強硬主義並に責任内閣の完成を大綱として、以て政府に反対した。 自由党(議員百二十人)は頗る態度を異にしたけれども、第六議会も政府反対党多数にして開会十八日で解散された。 而して第六、第七の議会は憲政史上最も事件多端にして、変化劇甚なる期節であった。 第六議会解散後、其七月二十五日朝鮮事変から日・清両国の開戦となった。 八月二十七日、日英改正条約が公布され、維新以来の宿題である西洋諸国と対等条約を結ぶ基を開き、続いて九月一日の総 選挙では、全国が戦争に熱中して他を顕るの遑(いとま)なく、甚だ平穏に結了した。 第一議会以来民党は政弊刷新、経費節減、責任内閣、対外強硬の綱領を掲げて政府と争い、議会は三回解散され、和衷協同の道がなかったが、臨時に広島に召集された第七議会(十月十八日〜二十一日)は日清戦争の勃発で態度が全く一変し、政府の提出した臨時軍事費一億五千万円は、両院に一人の異議者なく、一切の議事を僅か四日間で協賛して結了した。 第八議会(同年十二月二十四日〜二十八年三月二十七日)も亦戦時にて、各政党は政府と衝突するのを自制し、無事に終了した。 政府と自由党 第九議会 進歩党 政府と進歩党 第十議会 第十一議会 伊藤内閣の外務大臣子爵陸奥宗光氏は、先に明治十年土佐人士と西南戦争の挙に乗じて、政府を変革しようと謀り、禁獄五年の刑に処せられたが、其特赦を得るや、東京に在って陰に自由党を助け、板垣氏等と頗(すこぶ)る親交があった。 後に欧洲を漫遊し、米国駐在公使に任ぜられ、二十三年内閣に入って農商務大臣となり、終に第二次伊藤内閣の外務大臣として奇才を揮(ふる)い、日清戦争の難局に当り、又条約改正の功績を挙げ、彼が伊藤伯と共に清国首相李鴻章と締結した馬関条約にて戦争を結了し、三国干渉の為に譲歩するに至ったが、其助勢により伯爵に叙された。 彼は実権を持つがその能力のない政党の実情を知ると同時に、亦議会が開設され政府が政党を無視できないことも知っていた。 彼は自由党が民党の連合を脱して政府に反対するも賛成するもフリーハンドであるのを看破し、平素其党員と親交あるのを利用し、政府と提携させる策を講じ、遂に二十八年十一月自由党は公然伊藤内閣との提携を宣告した。 国民協会も亦政府党とであるが故に、第九議会(十二月二十八日〜二十九年三月二十八日)は改進党、革新党其他の団体を合わしても、反対党は政府党にかなわなかった。 政府が議会に多教を占めたのは、実に之が始めてであった。 是に於て政府反対党も従来の連合では、政府党に当れないことを察し、諸党及び独立議員の一部悉く各派を解散して大合同を為し、三月一日進歩党と称し、其政綱を発表した。 伊藤内閣は自由党と提携して、第九議会は意の如くであったので、其結果、閉会後に自由党総理板垣伯を内務大臣に挙げた。 然るに前年八月大蔵大臣松方伯が伊藤総理と意見が合わなくて掛冠し、今年五月陸奥伯が病の為に辞職し、伊藤内閣頗る薄弱となった上に、財政の困難があった。 殊に三国干渉の為に外交が失敗したので民心漸く伊藤内閣を厭い、松方伯を大蔵大臣に大隈伯を外務大臣に挙げて財政、外交を刷新すべしとの論が朝野の間に行われ、二十九年九月第二次の伊藤内閣が辞職し、松方・大隈連合内閣が成立し松方伯は内閣総理大臣兼大蔵大臣に、大隈伯は外務大臣に任じられた。 而して松方総理は地方官を召集しての訓示で、言論・出版・集会等憲法上で人民が享有すべき権利自由を尊重して其保障を強固にし、繁文を省いて簡捷を主とし、広く能者を挙げて行政事務を改良することを期する政策を発表した。 実際に進歩党の首領の大隈伯が内閣に入り、加えて松方総理の宣告が上記の如き故に、進歩党は其主義は現内閣の方針に大差ないと宣告し、自由党と主客の位置を転じて政府党となった。 第十議会(二十九年十二月二十五日〜三十年三月二十四日)は松方・大隈内閣の議会にして、自由党の員数は進歩党に勝ったが、国民協会は特に現内閣の賛成党であるが為に、政府は議会に多数を制する事を得た。 議会に於ける大隈伯の外交演説は、大いに世人の注意を惹起した。 其大要は今日の外交は第一其規模を大にしないといけない、其方針は国是として一定し、内閣の更迭に拘(かか)わらず、之を継続しないといけない、又国際法の主義に密着して、正理公道を基礎として、必ず世界の人気を得るべきというにあった。 是れ大隈伯が議会に於ける劈頭の舞台にして、又演壇に一世の雄弁を揮いし最初の機会であった。 民間党は第一議会以来の長い懸案の新聞紙条例改正案を、法律として始めて発行停止の全廃できたのは、言論擁護の一新紀元であるのみならず、此内閣の遺恵として永く記憶すべき事実であった。 且つ銀貨制度を金貨本位に改めたのは、本議会が松方総理其他財政党の主張を容れて政府案を可決した結果であった。 閉会後に政府は官制の一部を改正して、進歩党並に現内閣に属する人材を登用したけれども、内閣には一人の大隈伯あるのみにて、政党関係の人物は一人も班列に加えられず、薩摩藩人のみ多数にして、立憲的処理に熱心ではなかった。 進歩党は怏々(おうおう)として、前議会に公約する行政、財政の刷新も意の如く実行されないのを憤慨した。 而して政府部内は隠然藩閥と政党との権力闘争であったので、三十年十一月六日大隈伯は終に辞職し、進歩党に属する者は皆辞職して政府と絶縁した。 是に於て政府は自由党と提携して、其地位を保とうとしたけれども、自由党は之に応じず、却て政府反対の旗幟を明かにし、国民協会も亦政府反対の宣言を為し、三派連合して第十一議会(三十年十二月二十四日〜二十五日)劈頭に内閣不信任の決議案を提出し、即日解散を命じられ、同日松方内閣も総辞職した。 此れはつまり総選挙を待つまでもなく、議会の多数を制して増税計画を遂行し難い事を認めたのであった。 第十二議会 憲政党内閣 内閣の内肛 政府と政党 是に於て第三次の伊藤内閣となり、井上薫伯が大蔵大臣として難局に当ろうとした。 翌年三月十五日の臨時総選挙は国民協会の代議士其数を減じた外、自由、進歩の両党に大差なかった。 伊藤総理は大隈、板垣二伯に合見して、其一党と提携しようとしたけれども、交渉遂に纒まらなかった。 第十二議会(三十一年五月十四日〜六月十日)は外交問題及び増税案が眼目であるので、進歩党の外交問題上奏案は、自由党及ぴ国民協会の不同意で通過しなかったが、政府の増税案は自由、進歩両党の反対により、停会三日の後に大多数を以て否決し、即日解散された。 但第一議会以来の宿題である、議会ごとに提出を見た衆議院議員選挙法の改正案を、政府より議会に提出して通過したのは、我国憲政の一大進歩として慶賀しなければならない。 而して其改正の要点は第一被選挙人財産資格の制限を廃し、第二選挙人の納税資格を低減し、第三小選挙区を更めて市区の外は一府県を通した大選挙区としていた。 大選挙区制の利害は疑問に属するけれども、選挙権、被選挙権の制限を緩め、是によって人口十万に一名の代議士を出し、又人口五十に一名の選挙人を見ることとなった。 選挙を権利として要求せず、寧ろ義務とする者の多い我国に於ては、一大進歩と言うべきである。 又保安条例の廃止も本議会の功績として、感謝すべき事柄であった。 第十二議会の解散は痛く民間党を剌激し、進歩、自由両党一致合同の気運がここに開け、解散旬日ならないのに、両党は早くも解党の決議をして、相合して新たに一新党を組織し、憲政党と改称し、六月二十二日結党式を挙げ、大隈、板垣の両首領も公然加入して、其勢は破竹の如くであった。 そこで伊藤侯は此機に際し政府党を組織して憲政党に対時する事を提議をしたが、諸元老の反対によって行れず、遂に方策がなくなり二十五日辞表を捧げ、復職者の奏薦は慣例によらず、直に憲政党の首領大隈、板垣両伯を以てした。 元老中には一人も進んで後任を引受け、若くは後継内閣の成立を助力しようとする者がなっかたので、伊藤侯は大隈、板垣の両首領に会見し、事此に到っては責任を両君に譲る外ない、因って内閣全部を引受けられたいとの意を致し、二十七日新内閣組織の大命は直ちに大隈、板垣両伯に下りた。 大隈伯は内閣総理兼外務大臣に、板垣伯は内務大臣に任ぜられ、海軍大臣西郷侯(薩摩)、陸軍大臣桂太郎子(長州)を除くの外は悉く政党出身を以てし、大石正巳氏は農商務、尾崎行雄氏は文部、大東義徹氏は司法(以上旧進歩党)、松田正久氏は大蔵、林有造氏は逓信(以上旧自由党)の各大臣に任じられ、ここに始めて二十余年民間政客の理想とした政党内閣が成立し、政権の授受を平穏に逡げ得たのは、大隈、板垣、伊藤三老の功勳と称賛され、当時伊藤侯の立場は、幕末の勝安房氏に比して、世人の人気のある所であった。 新内閣は多年民間にて称道している行政整理を第一著手として、板垣内務大臣を委員長として、先づ官制改革を為し、官吏四千五百二十二人、棒給額七十四万二千五百七十余円を節減した。 八月十日の臨時総選挙には緊急勅令を発して選挙取締規則を励行し、加えるに憲政党内閣の下で勉めた前代議士の再選を期したので、選挙は最も静穏に施行され、衆議院は殆ど政府党にて充たされ、反対党は僅に国民協会二十名、無所属二十名に過ぎなかった。 憲政党の成立は日なお浅く内部の一致強固がないのに早くも大任を負って、自ら警戒する必要のある強大な政敵がいなかったは、其失敗を招く大原因となった。 総選挙終って未だ言責の実を挙げないのに、既に進歩、自由の両派に内肛を生じ、外は各派の政客にポストを得ない不満がある、内は大臣役割の軽重に不平がある、殊に米国より帰国した星亨氏を外務大臣に就けて、両派の議論喧しき際に、文部大臣尾崎行雄氏の帝国教育会に於ける演説が物議の種子となった。 保守派及び旧自由派は之を攻撃し、十月二十七日尾崎氏が辞職し、進歩派の犬養毅氏が後任となったので、旧自由派は憤懣して破壊の方針に出て、二十九日旧進歩派の同意を待たずに憲政党を解散し、進歩派を除いて更に憲政党を組織し、旧自由派の諸大臣辞表を呈し、三十一日首相大隈伯以下旧進歩派の諸大臣も辞表を呈し、憲政党内閣は瓦解した。 十一月三日旧進歩派は更に憲政本党を組織して憲政党と相対時した。 憲法実施以来の政府は政党を無視し、議会に臨んで苦しめられ、選挙干渉等の非立憲的行為を敢てしたが其効なく、遂に譲歩して民間の政党と提携しようとするや、二大政党は合同して内閣を組織したけれども、政党の一致、訓練、信用、共に強固でなくて亦自ら瓦解した。 是に於て藩閥の元老も民間の政党も、相提携して国政をうまく調理する外、他には案がないのを感じるに至った。 政府と憲政党 第十三議会 第十四議会 立憲政友会 政友会内閣 第六章 議会開設後の政党(二) 政府と政党と譲歩提携の時期 憲政党内閣の瓦解は伊藤侯の清国漫遊中で、後継内閣組織の大命は山県侯に下り、又政党に関係がない薩長出身者を主体として第二次の山県内閣が成立し、憲政党は直ちに提携を約し、憲政本党は憲政の主義に反するとして、反対の決議をした。 第十三議会(三十一年十二月三日〜三二十二年三月九日)は政府が大隈内閣の立案を踏襲し、憲政党と提携したが故に、無事に経過した。 山県内閣は心では政党を疎外するけれども、議会の多数を制する為に、憲政党を取り込む必要があった。 又、憲政党は内閣の仲間うちではないと自覚しているけれども、之と結んで自党の勢力を拡張しようと欲した。 故に内閣は政党員を内部に入れて、政権を与えるを悦ばず、文官任用分限令を発し、親任官及び特別任用規定官の外、勅任官は総て勅任文官又は高等官三等以上に在官しているものより任用することとして、政党員就官の要望を拒絶した。 しかし外に政府党の要望を満たさないと、其用を為さないが故に、此時より山林払下の特許、金銭の付与等一層の度を加へ、政党風紀の壊敗を馴致(じゅんち)した。 此会期の主な問題は政府提出の地租増徴案で、憲政本党は之に反対し、憲政党は原案を修正し、是より生ずる不足額を鉄道運賃、郵便税を増やして補足し、以て政府を幇助(ほうじょ)した。 第十四議会(三十二年十一月二十二日〜三十三年二月二十三日)に於ける各派政党の現状は、前議会と大差はない。 但両党の間に介在して勢力の均衡の保持している国民協会は、前議会の後解党して帝国党を組織したけれども、党勢甚だ振わず、政府党として恃(たの)むに足らなかった。 憲政党は山県内閣と提携したけれども、政府の態度は其意に満たない事が多く、現状打破の弊が盛んに起り、終に提携を絶ち、一方伊藤候の入党を勧誘した。 伊藤侯も既に政党の憲政に必要な事を知り、政党を組織する意はあるが、過去の事実に鑑み、政党の通弊を正そうと欲し、既成政党に入る事は拒絶し、九月十五日自ら立憲政友会を組織した。 因って憲政党は解党して全員之に加入し、板垣伯は退いて政友会の成立を幇助した。 是に於て久しく朝野に分れて競争していた伊藤、大隈両氏は、民間両大政党の首領として併立するに至った。 立憲政友会の綱領は伊藤侯の持論を基にして、政党内閣を主義とせず、憲法上閣臣の任免は元首の大権に属し、其選抜は政党員或は政党外よりする事、既成政党の言動は国務を党派に殉ずる弊があるので日本憲法の原則に適合しないとして、模範政党を樹立しようとする事にあった。 国家の元老として御信任の篤い伊藤候の此挙は、政治界の新現象として朝野の耳目を驚かさせた。 政友会には旧自由党の全部と伊藤候直参の党員とがいて、勢力は憲政本党より大きく、山県内閣は其前に立ち得ず、直ちに総辞職をして、新内閣組織の大命は伊藤候に下りた。 政友会の成立未だ旬日を出ないので、伊藤侯は頗る逡巡躊躇(しゅんじゅんちゅうちょ)したけれども、他に議会の多数を制し得るものなく、巳むを得ず十月十九日第四次の伊藤内閣を組織し、陸軍大臣桂太郎、海軍大臣山本権兵衛、外務大臣加藤高明三氏の外は、悉く立憲政友会員にして、文部大臣松田正久、農商務大臣林有造、逓信大臣星亨の三氏は旧自由党員、大蔵大臣渡辺国武、内務大臣末松謙澄、司法大臣金子堅太郎三氏は伊藤侯の下に政府の官僚として経験がある、此度政友会に加わった人々であった。 此の如くにして政友会の主義に基づく内閣が成立した。 我国に政党内閣の現出したのは三十一年の憲政党内閣を第一回とし、此政友会内閣を第二回とするが、共に外敵に破れずして、内部の不一致に失敗した。 つまり君主の信任に頼り専制政府の宰相になるのは易しく、政党の首領として立憲内閣の総理になるのは難しい。 君主は一人であるけれども、政党は多数である。 一人の信任を得るは易しく、多数の信頼を受けるのは難しい。 政党を率いる者は党内の与論に従わなければならず、故にどうもすれば首領却って党員に制せられる面倒がある。 伊藤侯は党員を訓練して、此面倒のないように努めたけれども、政友会の組織は日が浅く、党内に旧自由派と伊藤侯の直参派とがいるので、相互に軋轢(あつれき)した。 第十五議会 内閣の更迭 第十六議会 第十五議会(三十三年十二月二十五日〜三十四年三月二十四日)に於て政友会は衆議院の多数を制し、政府の増税案を通過したけれども、貴族院の強硬なる反対に遭った。 伊藤侯は第一議会に貴族院議長として声望を博し、又総理を以て宮相を兼ね、政府部内に於ける位置、経歴は貴族院に重かったが、時代の推移で政友会の首領として民間に接近し、衆議院の多数を制するのは容易になった。 しかし貴族院は山県侯の下に立つ官僚が多く勢力を占め、特に前内閣員の諸氏が劇しく反対を唱へて内閣を苦しめ、増税案が衆議院を通過し、貴族院に移るに及んで、侯の予期に反して一旦其が否決に遭い、二度停会の後陛下の勅諭によって、漸く其協賛を得ることとなった。 然るに三十四年度に増収できる税額は僅か七百万円で、議会を通過した予算を実行できず、大蔵大臣渡辺国武氏は当時の経済界の状況を察して断じて公債募集を不可とし、唯事業繰延の外なしとした。 渡辺氏は大蔵省にあって経歴に富み、第二次伊藤内閣の蔵相として日清戦役に功があり、且つ政友会の創立にも力がありと雖、当初より他の諸大臣と折合宜しからず、皆斉しく事業繰延に反対した。 伊藤侯は此反目を調整できず、五月五日自ら辞表を捧げ、大隈伯と同様の運命に陥り、其内閣は僅に半年余にして瓦解した。 是に於て西園寺公望侯が臨時内閣総理大臣を命ぜられ、例によって元老会議が開かれ、議論の末に井上薫伯に内閣を組織しようとして成らず、遂に六月二日陸軍大将子爵桂太郎氏を総理大臣として、新内閣を組織した。 諸大臣は元老を省き、山県侯系統に属するものが多く、侯は実に内閣の後見人と見倣され、其助力によって貴族院の調和を謀り、伊藤侯の応援を求めて政友会の反抗を制し、第十六議会(三十四年十二月十日〜三十五年三月九日)は予算案に政友会と相譲歩して折合うことを得た。 此内閣は幸運にして、多年日英両国民の希望しである日英同盟が成立し、政府は議会開会中二月十二日に其同盟条約を発表し、外交上前例がない大成功を得て、之が為に内閣が強固となった。 第十七議会 第十八議会 第十七議会(三十五年十二月九日〜同月二十八日)は議会創設後始めて衆議院議員が満期で総改選の上召集され、又改正選挙法を実施し、始めて大選挙区単記無記名投票法にて選出された新議会であった。 総選挙には各党派も選挙法規定の制裁励行されることを望み、政府も亦地方官に選挙の自由と公正とを保つことを努めたので、全国平穏なる状態にて選挙を終了した。 しかし賄賂授受の嫌疑を以て拘引された者が少くなかったのは、単記無記名投票のみでは、未だ選挙の弊害を除けないことを証明した。 桂内閣は開会以前に海軍第三期拡張と、其財源に地租増微継続との成案を以て、議会に臨む決意を示した。 政友会は堅く地租増微に反対し、桂内閣総理と伊藤政友会総理との調停が成らず、却って十二月二日伊藤、大隈両党首領の会見で連合の形が現われた。 大隈伯は自己の経歴に対照し、伊藤侯が政党に殉ずるの志を嘉(よ)しとし、深く其境遇に賛意を公表し、事実両党連合して政府に反対した。 政府は此外に財源を求めるに由なしと明言し、在野党は地租以外に之を求めるべきと主張し、第十七議会は再度停会の後解散された。 総選挙の結果は政・憲両党の連合に属する三百の議員を出した。 桂内閣は地租増微案を固守すれば、再び新議会解散の不幸に遭遇するしかなかった。 然るに目的は海軍拡張にある。 其方法を地租に拘泥するは極めて得策ではないと声言し、内閣は第十八議会(三十六年五月十二日〜六月五日)に於て地租増微案を固執せず、伊藤侯と妥協を遂げ政友会に交渉し、以て無事に問題を解決するを得た。 因つて政府は地租増微案を撤回し、一方に於て行政を整理し、経費を節減し、又他方に於て鉄道拡張改良の財源を海軍拡張に転用し、鉄道費は公債を以て支弁することとした。 伊藤侯は二十年末政府に要職を占めて勢望は最も盛んであった。 其政友会の首領であるのは政府に便利であることもあったが、亦迷惑となることも少くなかった。 単に藩閥出身の元勲であるか、若くは単に民間政党の首領ならば、政府の之に対する方法は簡易で面倒がないけれども、一方では藩閥系統の元勲、他方では民間政党の首領であるので、其待遇法に窮し、竟(つい)に板垣、大隈二伯と同様に、政党首領として接遇するに至ったのを憂えたようだ。 議会閉会の後伊藤侯に優詔が賜り、枢密院議長となることを望まれた。 侯も亦政党員を操縦するのは、官僚を使うが如く容易ならず、其理想の半分も挙げられず、心中は飽きていたので、此優詔を受けると方針を一変し、政友会総裁を枢密院議長西園寺公望侯に譲り、七月十三日遂に其任に代った。 対露問題 第十九議会 日露舞戦中の第二十議会 開戦中の第二十一議会 第二十二議会 政党の向背 此時に当りロシアは露清条約に規定する満州撤兵を実行せず、永久占領の態度を示し、時局は延いて日露間の問題となり、朝鮮半島に関係を及ぼし、政府は直接露国に談判を試み、数ヵ月に亘れども事は容易に決しなかった。 民間漸く政府外交の怠慢を憤慨し、開戦主義者は対露同志会を組織して強硬な持論を主張し、憲政本党も政府が確乎とした決意がないと非難し、第十九議会(三十六年十二月十日)に於て政友会も亦連合し、外交問題を以て大に政府と争う気勢を示した。 本議会の衆議院議長河野広中氏(憲政本党)は自ら開院式の勅語奉答文を起草し、慣例を捨てて内閣の施政を非難し、弾劾の文句を挿入したので、開会二日で直ちに解散された。 斯くて翌三十七年二月九日を以て日露戦争は開始され、国民は挙げて政府を後援することを期した。 総選挙は三月十日に行われ、人心全く外戦に傾注したので、選挙は平穏に結了し、其結果は党派の形勢に大差なく、政友会百十六名、憲政本党八十名、帝国党十六名、再興の自由党十五名にて、中立派は七十六名と概算された。 第二十議会(三十七年三月十八日〜三十日)では各政党は政府との行掛りの解決を他日に譲って、専ら軍国の急需に応じることに勉め、日清戦争の時と同じに、政府に総ての応援を与へ、戦勝を得るに遺算がないように、其要求しである臨時軍事費三億八千万円を挙国一致で可決した。 第二十一議会(三十七年十一月二十八日〜三十八年二月二十八日)は交戦の最中にて、各政党の行動は和衷(わちゅう)協同し、三十八年度予算二億一千一百余万円、軍事費七億八千万円を、通常予算よりも容易に議決した。 是れは我が議会及び政党の特色にして、其愛国の美徳は以て中外に誇るに足るものだ。 但挙国一致の美名の下に、自由討究の精神を放棄し、行政部の不法を看過して、立法部の職責を欠くの弊があるのは、亦蔽(おお)えない事実である。 三十八年九月五日ポーツマス平和条約成立し、第二十二議会(三十八年十二月二十五日〜三十九年三月二十八日)は平和克復後の第一議会として召集された。 桂内閣は外交の為に痛く民心を失い、自ら退職するの得策なるを認識し、後継内閣の総理に西園寺侯を推したのは、政友会が伊藤、山県両侯の間に介立して、戦時及び戦後の外交政策に内閣を授けていた酬(つぐな)いであった。 西園寺内閣は三十九年一月七日に組織され、政友会の出身は首相の外に内相原敬、法相松田正久の二氏のみで、他は皆官僚政府の代表者であった。 政友会と憲政本党とは桂内閣の時には相提携していたが、此に至って其方向を異にし、政友会は山県、伊藤両系を混和して、其中に投じている政府党である。 憲政本党は独立して政府反対党となった。 そして西園寺内閣の成立するのは、内に諸元老及ぴ官僚派の援助あるのみならず、外に亦強大なる反対党の存立するが為で、大隈伯は今は反対党の首領である。 政党発達の大勢 政党の本体 第七章 政党の将来 前の数章に述ベてある我国政党の沿革は、之を四期に分けられる。 第一期は明治七年板垣、副島、後藤、江藤諸氏民選議院設立の建白に端を発し、十四年大隈氏政府より分離して野に下るを一段落とする。 これが政党の起原にして、未だ組織的団体とては成立しなかったと雖、無組織的に政党の存在して、板垣氏が其党首であることは言うまでもない。 第二期は二十三年を期して国会を開くべき詔勅が降りてから、政府は伊藤氏と其他の官僚に命じて憲法制定に着手し、民間には自由、改進両党を始め、合法的に結社して組織的政党の成立を見た。 然るに政府の政党に対する迫害甚だしく、自由党は一時解党したけれども、議会開設前に再興して民党連合の基礎を成した。 第三期は二十三年議会開設され、自由・改進連合の民党が政府と対立し、衝突し、政府は全力を挙げて、或は選挙に干渉し、或は議会を解散して、民党を威嚇したけれども、反対党が常に議会の多数を占め、政府は殆ど其策に窮した。 日清戦争が起って形勢一変し、政府は政党の圧倒できないことを覚り、政党亦常に政府を敵視する事の不利を知り、先づ自由党が政府と提携し、次に進歩党政府と提携したけれども、どちらも失敗に帰し、両党合同して政党内閣を組織したが、亦内部が一致しない為に瓦解し、以て我国に超然内閣の成立しか無く、而して政党内閣の時期なお早きを経験した。 第四期は三十一年政党内閣瓦解して、第二次山県内閣成立してより今日まで、政府、政党の相交譲、混合して国政を為すの時期にして、未だ其終局を知らない。 初めて政友会内閣成立して、一時政党内閣の成立を告げたけれども、他の攻撃を待たずに自ら転倒し、再度政党内閣がなお早いことを証明した。 しかし、政党内閣の前後二度の失敗は、成功に近づきつつある階段と見倣すことができる。 進歩、自由両党の融合が全くないのに、憲政内閣の成立している様は、恰も異首異身の二動物合体したが如く、一人の劣将は二人の良将に勝るとは、ナポレオンの格言にして、政党に於ても亦然りと云える。 立憲政友会の当初も、旧自由党と伊藤侯直参派との二者互に軋轢し、頭首は一にしても、肢体は感情と利害を異にして、完全な一体を成さなかった。 それ故内閣の瓦解は固より当然の事であった。 以上の実験は政党内閣の望みがないのを示すものではない。 唯政党連合の持続することは困難にして、之を基礎とする内閣は保持し難きを証明し、即ち連立内閣の弱点を暴露したものと見るのが寧ろ適当である。 理論より言えば政党は二個に限るべきではなく、問題に従って数多の異派を生じ、連合内閣をなすこそ寧ろ能く与論を代表するものと言うべきだ。 しかし政党の経験最も長い英、米両国の実際を観れば、数の多い小政党は常に生存競争に堪えられず、二大政党を為す傾向がある。 而して此の如き傾向なくして、小党の分立する欧洲大陸に於ては、政党の勢力と信用はどちらも薄弱である。 だから英、米両国に於て二大政党なのは、理論の当然の結果ではなくして、趨勢の自ら至らす所である。 故に政治上若くは社会上の大問題が起って、形勢一変するときには、大政党自ら分裂し、其断片は或は独立し、或は反対党と連合し、連立内閣を生ずることはあるが、融和している大政党を基礎とした内閣ほど、強固な統一を保って永続できない通弊がある。 我国政党の実験に徴するも、亦漸く二大政党を為そうとするの傾向があるのは、つまり此等の理由に起因するものと言うべきだ。 我国政党の特色 政党の経過 我国政党の特色は概して穏和なのに在り、漸進主義なのに在る。 保守党はあるが、極端なる守旧派若くは頑固党なく、進歩党はあるが、極端なる急進派又は過激党若くは革命党はない。 最初自由党は少々過激党とする徴候があったが、議会の開設と共に、其徴候は消滅した。 今は進歩党は或点に於て急進主義に見えるけれども、それは外交問題か、それとも責任内閣の問題に在るだけで、其他の事は寧ろ持重の傾向がある。 政友会は内政、外交最も穏和主義であり、最も漸進主義である。 一時二大政党の中間に介立して、議会の権衡を左右しである国民協会(後に帝国党、今は大同倶楽部)の保守党があったが、外交方針に於て外に国威を張るのを声言し、常に軍備を整えるを主張するの外は、内政の方針は政友会よりも少々守旧的であるというに過ぎない。 而して其勢力は微々として云うに足らない。 我国の如く国民統一の完全にして、分立割拠を希う者がいない所に、国民協会或は帝国党というのは、殆ど無意義、無主義の名称にて、其振わないのが此に至るのも亦当然である。 料(はか)るに社会の形勢一変して、将来において労働党又は社会党の現れるまでは、政党の形勢も亦現状と大差がないものと仮定できよう。 我国の政党は古来東洋の人民が夢想しなかった政体を造りし、以て多数の国民がかって自覚しなかった権利自由を獲得しようと欲し、高く国民の旗幟を掲げて活動し、孤軍健闘、以て専制の旧塁に肉薄してきた。 此活動は短い年間で現われた為に、人民に必要な訓練を与える暇なく、堂々の大軍を編成し、正々の陣を張って敵軍の本営に迫れなかった。 奇策を用いて突貫し、敵を其塁砦より駆逐して、一時政権を政党の手に収めたのは、至大の成功であった。 唯永く之を守持できず、多くの犠牲を出したけれども、其後援であるべき国民の深い人気を得ず、党勢は従って振はず、再三保守党の反動に遭ったのは、根底が未だ固まらない時代に於ては、亦巳むを得ない現象と云えた。 しかし政権掌握者の反対党として之に対峙し、専制の悪弊を匡正し、政治の進歩を促進し、多数人民の知らない間に、利益を国家に与えた事実を列挙すれば、政党の効果は其過失と乗除して、更に多大なるを発見できよう。 もし明治六、七年時代に政党の萌芽を発せず、十四年以後に政党の活動がなかったら、二十三年に立憲政治の成立を見なかっただろう。 立憲政治成立せず、依然として専制の旧体を存在するなら、其放縦を抑止する道がなく、内政の進歩は遅渋し、官民の隔絶甚だしく、階級の思想著しく、不十分ながら今日の国勢を見るのは難しかった。 殊に外難に遭遇し、挙国一致、日清日露の両役に於ける成功を収められなかったのは明かであった。 故に今日政党の不振、議会の欠陥、政界の廃頽、保守派の反動等、数へてみれば慨すべく、構ずべきもの一にして足らずと雖、是の完備と進歩とを熱望する所に発するに外ならない。 しかし此憤慨に雷同して、憲政の効用と政党の特長とを蔑視し、専制を回想するが如きは、頑冥者流の陋態として、之を排斥しなければならない。 国民、政党、政府 政党の旗幟 結論 つまり政党無ければ、国会の活動を逐げられず、憲政の政則を尽せない。 国民は此見地に立って、政党の発達進歩を望まなければならない。 政党の為すべき急務は、第一に国民を政治的に教育するにある。 選挙権を広張して与論の範囲を大にし、政党の基礎を深厚させるにある。 常に選挙区民を訓練して、不時の問題を容易に理解し、敏速に党議の是非を断じ、一は以て政党を監督し、一は以て政党をして議会及び政府を監督するの任務を全うすることにある。 而して第二に政党の為すべき事は内政上の改良刷新を促して、社会の大進歩を期するにある。 従来政府反対党は屡々外交問題に就いて対戦したけれども、外交の事は多く秘密に属して、民間政党の知る所は甚だ少く、寧ろ政府の長所に就いて争うものにして、政党の為に計るに、決して得策ではない。 外交政略には一定の国是があるべきと雖、実行方法には順序がある、緩急がある、剛柔其宜しきを得るべきである。 然るに党局者が民間の一時的な与論に動かされると、国家万年の長計を誤るかも亦測り難い。 我国民が外交上に於て、政党よりも政府に信頼する傾向にあるのは、自ら真理の其中に存するものがあると言うべきだ。 故に政党にして将来、大いに政府と争おうと欲するなら、外交問題よりも寧ろ内政問題に重きを置き、人民を政治的に教育して、政党の主義綱領に人気を得て、賛成する機会を与えるべきだ。 多数人民は固より識者でないが故に、其人気を得て、其賛助を得るまでには、多くの努力、忍耐を為し、遂に少数識者の卓見を社会多数の与論となすに至らせることを期すべきだ。 夫れ日本の内政は社会的、経済的方面に於て、今後活動の範囲を拡張する余地は甚だ大である。 しかし中央行政権が余りに強大にして、何事にも干渉し、人民自治の精神を抑へ、憲法政治の発達を阻害する甚だしい。 此に向って政党の攻撃を加へ、改善を迫る可き事項は多々あるではないか。 又教育制度は宗教と教育とを分離して、西洋諸国に見ない学務行政上の便宜を有するに、是にも亦中央集権の弊害を承(う)けて、教育に精神少く、学制は徒らに形式に流れ、各部門には何等の独立的活動力なく、全体に有為の才能を発育し、偉大の国民を養成する目的に副(そぐ)はないこと甚だしいではないか。 是れ皆政党の主張を発表し、天下の与論を喚起すべき好題目である。 又社会の発達は貧富を拡大し、工業の進歩は資本を兼併するものなので、常に其調和を計る必要がある。 其他地方問題も識者の解答を待つもの少からず、政党にして苟も意を此等の問題に注げば、国民が政党によって其解決を待とうとする新気運と新運動とは、昂然として自ら勃起するものがあるだろう。 要するに日本の政党史は日本の憲法史である。 初めは議会開設の与論を朝野の間に起して憲法発布を促し、後には一般人民がまだ参政の欲求が少ないのに、能く議会に多数を制して、行政の専横を挫きたのは政党である。 或意味に於て我政党の価値は英国の政党に比し、更に大なるものがある。 英国に政党が起ったのは、議会成立の数百年後である。 英国議会は政党以前より国家枢要の機関として、偉大なる効力が有った。 我国に於ては則ち然らず、政党があって後に議会が出来、政党は議会を産み出した原動力である。 夫れ英国の議会は政党を産み出した一原因であるけれども、我国の政党は議会を産み出した大原因である。 だから政党がない時期に有効有力の機関であった英国の議会よりも、我国の議会は政党を首脳とするが故に、若し政友、進歩の二大政党を議会より取除けば、活動のない、生命のないものとなり果てるだけだ。 先に政党内閣の二度自ら失敗したのは終局の失敗ではない。 反って国民の同情と信用とを集めて、其成功を後年に期する途を進めたものと云うべきである。 従来政党の行動は徃々目的の為に手段を選ばない弊があった。 而して政党員の各自に就いて観察すれば、多く失望の嘆あるを免れずと雖、政党としての成績及び其将来を通考すれば、我国憲政の要素として政党を認識するのは、誰も異議がない所で、特に憲政の友である者は、其発達進歩を希望してやまない。 ****************************************.

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第1次大隈内閣

大隈 重信 政党

さて、伊藤博文と政権の主導権を争っていた大隈重信は免官させられたね。 国会を早期に開こうとしたことと、開拓使官有物払下げ事件にも関係してるだろう!!ということで辞めさせられてしまったんだね。 伊藤博文の主張とはまったく異なる急進的な考えだったからね。 そんな大隈重信は政党を作ることになるんだよ。 今日はそんな話。 1881年に国会開設の勅諭が出されたことによって、10年後に国会が開かれるわけだから政党作りが急務になるんだよね。 国会期成同盟を中核として結成されて、板垣退助が総理になるよ。 明治十四年の政変で下野した官僚や新聞記者を中心に結成されて、大隈重信が総理になるよ。 主張:君民同治(くんみんどうち)、二院制、イギリス流の穏健な立憲君主制 基盤:商工業者、知識人 君民同治ってのは、君主(天皇)と国民の代表である議会が国を統治することだね。 自由党と立憲改進党はどうなるか? 結論から言うと、自由党は解散するよ。 で、立憲改進党は実質、活動が不可能になっていく。 立憲改進党について最後まで説明しちゃうと大分、年代が飛んじゃうから、大隈重信脱退までにしておくよ。 せっかく10年後に国会が開かれる!という公約が出たのに、自由党も立憲改進党もそこまでもたなかったんだね。 解散した理由と原因についても理解しておこう。 解散する案が出るも、内部で揉めに揉めて、1884年に大隈重信が脱党。

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【大隈重信】生涯年表と経歴をカンタン解説!どんな功績を残したの?

大隈 重信 政党

《大隈重信》 『引用元より』 1838年2月16日、大隈重信・誕生。 幼名「八太郎」。 父「大隈信保」、母「三井子」。 1844年、藩校「弘道館」へ入学。 1854年、「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な書籍「葉隠」を使った「儒教」の教育に反発し、教育改革を訴える 1855年、弘道館を退学。 そのころから「尊王思想」に目覚め、副島種臣や江藤新平とともに「義祭同盟」へ参加。 1856年、佐賀藩が設置した「蘭学寮」へ入学。 1861年、肥前佐賀藩主「鍋島直正」に対して、オランダ憲法を講義する。 その後、退学した「弘道館」と「蘭学寮」が合併。 合併した「弘道館」で「蘭学の教授」として教育を行うようになる 1865年、長崎にあった佐賀藩の英学塾「致遠館」で、校長「」のもと、副島種臣とともに「教頭」として生徒の指導を行う。 その時「フルベッキ」から英語を学ぶ。 1867年、最期の将軍「」に対して「」をすすめるために佐賀藩を脱藩。 しかし途中でつかまり、佐賀藩へ無理やり帰国させられる。 1か月の謹慎処分 1868年(明治元年)、「」「」「」により「」が成立する 1869年、微士参与職と「外国事務局」の判事に就任。 同年、「三枝綾子」と再婚する。 1870年、「参議」に就任。 参議とは「」や「」「」らが務めていた、明治政府の最高意思決定機関。 1872年、伊藤博文と協力して「富岡製糸場」を設立 1873年5月、大蔵省「事務総裁」に就任。 同年6月、「」の政府内対立が原因で、「西郷隆盛」「江藤新平」「副島種臣」らが政府を下野(辞職)した() 同年10月、「参議」と「大蔵卿」を兼務。 1874年2月、「」が勃発。 盟友である「江藤新平」や「島義勇」らが亡くなる。 この時、大隈は妻の「綾子」とともに、江藤新平の息子「江藤新作」を引き取って、育てることとなる。 1877年2月、「」勃発。 同年9月、「西郷隆盛」戦死。 西南戦争が終結。 1878年5月、「」により「大久保利通」が暗殺される 1881年、正確な統計が必要であると考え、「統計院」を設置。 大隈は初代院長に就任。 同年10月21日、失策が原因で「参議」をクビになる。 (明治十四年の政変) 1882年3月、「立憲改進党」を結成 同年10月、「東京専門学校(早稲田大学)」を創設。 1884年、「立憲改進党」を離党 1888年2月、「」内閣で「外務大臣」に就任。 同年、「」内閣で、外務大臣に留任。 1889年10月18日、「来島恒喜」による爆弾テロで、右足を切断(大隈重信遭難事件) 1896年、第二次「松方正義」内閣で、「外務大臣」に就任。 (松隈内閣・しょうわいないかく) 1897年、外務大臣を辞職 1898年6月、「板垣退助」たちと協力して「憲政党」を結成。 同年6月30日、薩長藩閥以外で、初めての「内閣総理大臣」を拝命する。 そして日本初の「政党内閣」を組閣。 協力者である「板垣退助」の名前をとって「隈板内閣(わいはん内閣)」と呼ばれる 同年11月8日、「第一次大隈重信内閣」総辞職。 党内の亀裂や、外交の失敗が「総辞職」の原因。 大隈は「憲政本党」を率いることになる。 1907年、政界を引退し、「早稲田大学」の初代総長に就任。 「第一次護憲運動」が起こるとともに、政界へ復帰。 1914年、汚職事件「シーメンス事件」により「内閣」が辞職。 大隈重信がこの後をうけて「第2次大隈内閣」を組閣。 1916年7月、「第一次世界大戦」勃発、 同年8月23日、「日英同盟」を理由に、日本がドイツに対して宣戦布告。 「第一次世界大戦」に参戦。 1917年1月、チャイナに対して「対華21ヶ条要求」を提出。 1916年7月14日、貴族院議員に就任。 1916年10月、第二次大隈重信内閣が総辞職。 これにより「大隈重信」は、政界から完全に引退することとなる。 1922年(大正11年)1月10日、早稲田の自宅で死去。 享年85歳。 死因は「胆石症」 同年1月17日、「日比谷公園」で「国民葬」がおこなわれました。 約30万人の一般市民が参列し、3週間後に行われた「国軍の父」こと長州藩の「」の参列者がまばらな葬儀と比べても、大隈重信には相当な人気があったことがうかがえる結果となりました。 墓所は二か所。 故郷である佐賀の「龍泰寺」。 もう一つが東京都文京区の「護国寺」。 日本で最初に「政党内閣」を組閣したのは大隈重信です。 「政党内閣」、つまり選挙で選ばれた政党の議員が、内閣の閣僚となるのは、今では当たり前のことですが、当時としては画期的でした。 今では「選挙で選ばれた第一党の議員から、政府が誕生する」というのが当然ですが、当時は、「選挙で選ばれた第一党」とは別に「政府」が存在していたため、民意が十分に反映されていなかったのです。 そこから「政党内閣」を誕生させたのが「大隈重信」というわけです。 そして大隈重信といえば「早稲田大学」の創設者。 実は大隈重信、犬猿の仲だった「慶応義塾大学」の創設者「福沢諭吉」から「学校の創設」をすすめられて、早稲田大学をつくったのだそうです。 政治家「大隈重信」と、教育者であり批評家でもあった「福沢諭吉」は、とても仲が悪かったのですが、酒の席で顔を合わせて意気投合。 それ以後はとても仲の良い間柄となったそうです。 大隈重信最大の功績は、この名門「早稲田大学」を創設したことではないでしょうか。 創設から100年以上。 今も優秀な人材を輩出し続けています。 『大隈重信』について「ひとこと」言いたい! 大隈重信・・・清廉潔白な「西郷隆盛」と仲が悪かったことで有名なお方です。 国民から圧倒的な人気を得て、「西南戦争」という反乱を起こしたにもかかわらず、わずか12年で汚名を返上して英雄扱いをされている「西郷隆盛」・・・。 大隈重信は、そんな西郷隆盛とは、真逆なところにいた人物でした。 なんといえばよいのか・・・・大隈重信は、「清廉潔白」というわけではなく、「清濁併せ? む」というか、短所も人並みにある「とても人間味のある好人物」だったのではないでしょうか。 西郷と同じく清廉潔白で、温和な教育者「福沢諭吉」は、もともとは大隈重信を批判していた人物でした。 しかし、大隈重信と顔を合わせてみると、その魅力に引き寄せられたのか、あっという間に意気投合して仲良くなってしまいました。 当時、大隈重信と付き合いがあった「」は、大隈重信について、こんなことを言っています。 「大隈さんと会った時に、こんなことを言われた 『君も私も書生として勉強中なのだから、仕事も書生のように仲良く愉快にやろうじゃないか』 それを聞いたときに、ふと肩の力が抜けて、愉快な気持ちになったものだよ」 大隈重信・・・確かに失敗も多い人でした。 爆弾で吹っ飛ばされた「足」を「ホルマリン漬け」にして、お客様に見せていたなんてエピソードもある、すごい人です。 しかし、それでも死後30万人もの人に見送られたのは、その人間味あふれる魅力があったからこそでしょう。 西郷隆盛や福沢諭吉とは異なった種類の魅力を持つ、とても人情味にあふれた人物だったのではないでしょうか。 まとめ 本日の記事をまとめますと• 大隈重信とは、「佐賀の七賢人」の一人に数えられる元「内閣総理大臣」• 大隈重信は、「内閣総理大臣」を2度、「外務大臣」を5度も務めた大政治家• 「自由民権運動」「政党内閣」「早稲田大学を創設」など、明治中期頃から、日本に大きく貢献している 以上となります。 本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。 よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。 ありがとうございました 「大隈重信」関連記事 よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。 これらの記事でも「大隈重信」や関連人物の「逸話」や「功績」を簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。

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