徳川 二 代目。 歴代将軍の墓ってどこにある?徳川家の信仰と埋葬の謎を調べてたら夜が明けた。

徳川幕府歴代将軍

徳川 二 代目

江戸幕府の将軍について、初代・ とくがわ いえやす から14代家茂まで肖像画として残っていますが、 のみ写真で残っています。 徳川慶喜の写真と言えば、西洋風の服装で椅子に座っている姿を思い浮かべる人がいると思います。 江戸幕府の将軍の中で身長が高い人という印象を受けるかもしれませんが、 身長はどの位か資料で残っていません。 この記事では、徳川慶喜の身長について、 日本史の原始・古代から現代に至るまでの各時代の平均身長、 江戸幕府の14代までの将軍の身長から最後の将軍・徳川慶喜の身長を予想します。 徳川慶喜だけでなく、西郷隆盛・坂本龍馬・勝海舟などの幕末の偉人や 戦国時代の武将の身長も取り上げます。 最後に、日本史の中で平均身長が低い時代とその背景について取り上げます。 西郷どん: 関連記事: 関連記事: この記事の目次• 徳川慶喜はチビだったの?歴代将軍と比較 徳川慶喜以外の歴代将軍の身長について、 徳川氏の菩提寺である大樹寺の位牌がもとになっていると言われていますが、 徳川慶喜については大樹寺に位牌がないため本や資料集によっては不明という表記になっています。 最初に初代の徳川家康から14代家茂までの位牌の高さから身長を紹介します。 初代徳川家康は159cmです。 2代目秀忠は158cmで、3代目家光は157cm、4代目家綱は158cmです。 初代から4代目までは平均して157cmぐらいであることが分かります。 5代目綱吉の身長について、位牌の高さから124cmと推定されています。 綱吉については健康面での問題がほとんど話題にならなかったので意外かもしれません。 6代目の家宣の身長は160cmでしたが、7代目の家継は幼少であったため身長が135cmでした。 次に、8代将軍吉宗以降の身長について取り上げます。 8代将軍吉宗と言えば、大柄で身長が高いというイメージが先行しますが、 意外に位牌の高さから身長が155cmだったと言われています。 9代家重以降の将軍の身長について、 13代家定が149cmであることを除けば、平均して155cmであったと言われています。 最後に、江戸幕府の身長について、 5代目家綱・7代目家継・13代家定を除けば、150cm台であったことが分かります。 江戸時代の男性の平均身長が150cm台であったことから 15代将軍・徳川慶喜の身長は150cm台であると推定できます。 西郷隆盛や坂本龍馬 幕末の偉人の身長は? 江戸時代の平均身長は155cmであったと言われていますが、 幕末の偉人の身長が気になります。 ここでは、 勝海舟 かつかいしゅう ・ 西郷隆盛 さいごう たかもり ・ 坂本龍馬 さかもと りょうま の3人の身長を取り上げます。 江戸城の無血開城で有名な勝海舟の身長は156cmで当時の日本人男性の平均身長と同じです。 では、西郷隆盛と坂本龍馬の身長は平均身長より上だったのか気になります。 次に、西郷と坂本の身長について取り上げます。 西郷隆盛の身長は179cmでした。 体重が108kgで上野公園の銅像のように大柄な人でした。 坂本龍馬と言えばピストルを隠し持った立ち姿の写真が有名です。 その写真から身長173cmで、写真の通り高身長だったという記録が残っています。 意外に低い?戦国時代の豪傑の身長 戦国時代の平均身長は157cmと言われていますが、 戦国時代の豪傑の身長は高かったのかどうか。 豪傑と言われているから高身長であるに違いないと思うかもしれませんが、 中には意外に低い人もいます。 ここでは、何人かの戦国武将をランキング形式で取り上げます。 (1)1位;加藤清正(約190cm) 加藤清正と言えば虎を退治した戦国武将として知れていて、 体格は非常に大きく大男だったと言われています。 しかし、兜をかぶると190cm台で、実際は約160cmであったという記録が残っています。 加藤清正と言えばトイレにこもっている時間が長いという意外なエピソードが有名ですが、 実際の身長も意外かもしれません。 (2)2位;前田利家(182cm) 戦国武将で後の加賀100万石のもとを築いた前田利家ですが、 当時の平均身長よりも高かったという記録が残っています。 (3)3位;直江兼続(182cm) 戦国武将で、関ケ原の戦いのきっかけをつくった人であり、「愛」の兜でも有名な人です。 高身長で美男子だったことから記録に残っているのかもしれません。 (4)4位;浅井長政(約180cm) 北近江の戦国大名・浅井長政は信長の妹お市と婚姻関係にあった人で、 娘の3姉妹茶々(後の淀殿)・お江(徳川秀忠の正室)・お初(京極高次の正室)は有名です。 高身長であったことでも知られています。 (5)5位;織田信長(約170cm) 肖像画から170cmぐらいであると言われています。 室町幕府の将軍の追放や比叡山の焼き打ちなど大胆なことをしていたので 高身長で威圧感があるという印象を受けるかもしれませんが、意外に身長が低いと思うかもしれません。 (6)6位;上杉謙信(156cm) 上杉謙信と言えば、数多くの戦で負け知らずで、軍神と呼ばれていました。 軍神と呼ばれていたため大柄だったなど噂ばかり伝えられてきましたが、 当時の平均身長よりも低かったという資料が出たことから低身長であったことが確定しつつあります。 歴史ファンにとって意外かもしれません。 (7)7位;武田信玄(153cm) 武田信玄と言えば騎馬軍団で有名ですが、 信玄の身長は意外に低かったので驚いた人がいるかもしれません。 川中島の戦いは低身長の戦国武将による戦いだったと言えるでしょう。 日本史の中で平均身長が低いのは江戸時代? 縄文時代から現代まで日本人の平均身長について取り上げます。 縄文時代の平均身長は、貝塚などから発掘された骨から推測できます。 男性の平均身長は約158cm、女性は約148cmであったと言われています。 高校の日本史で、縄文時代には狩猟をしていたことや 高カロリーのクッキーを食べていて意外にグルメだったということを 耳にしたことがあるかもしれません。 グルメの割には身長が低いので読者の中には驚いた人がいるかもしれません。 弥生時代から古墳時代にかけて平均身長が高くなります。 男性は約163cmで、女性は152cmでした。 稲作で定住し始めたのと朝鮮半島から渡来人が 技術を伝えたことで生活環境が良くなったことが考えられます。 鎌倉時代から武士の時代が始まりますが、 鎌倉時代から江戸時代にかけて日本人の平均身長が低くなる傾向にありました。 室町時代の応仁の乱の頃から一日3食になり、 栄養状態が良くなったという印象があるかもしれませんが、意外に平均身長が低くなっています。 江戸時代は日本史の中で一番平均身長が低かったと言われています。 男性は約155cmで、女性は約143cmであったと言われています。 農民がひえや粟を食べていたことや大きな飢饉が発生したことが考えられるかもしれません。 明治時代になり、食生活が欧米化したことから 現代に至るまで男性と女性ともに平均身長が上昇する傾向にあります。 なぜ日本史の中でとりわけ江戸時代の平均身長が低いのか気になると思います。 身長が低い理由として、農民の生活を統制する法律があったことが挙げられます。 この法律では米を食べずにひえや粟を食べるように命令しています。 栄養価が低かったことが考えられます。 江戸時代に享保の大飢饉・天明の大飢饉・天保の大飢饉など大きな飢饉が起こったことが挙げられます。 多くの餓死者が出たことや農作物が不作であったことから栄養が十分でなかったことも考えられます。 西郷どん: 関連記事: 関連記事: 激動の幕末維新を分かりやすく解説「」.

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徳川家重〜家治【德川9〜10代目将軍】と田沼意次の政治

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お母さん学校で「家康」を習ったよ! そんな風に言ってくれるお子さんも多いと思います。 学校で習う歴史の知識に間違いはないかもしれませんが、歴史には色々な解釈があります。 rekihaku. 享保の改革を行い、自らも質素倹約を務めた将軍であり 米に関する改革を多く行ったため、 「米将軍」と呼ばれています。 wikipedia. 現在の会計検査院に近い制度を確立させたり 幕府内の各部局に予算制度を導入させました。 老中 田沼意次 を採用したのも家重の時代ですね。 wikipedia. 幼いころより、8代目将軍吉宗より寵愛を受け 学問に優れていたといわれています。 また、趣味として、将棋に没頭していました。 wikipedia. 家斉の時代に3大改革のひとつである 寛政の改革を行いました また側室を多く抱え、53人の子どもにも恵まれました。 wikipedia. 老中首座に水野忠邦を重要し、 天保の改革を行いました。 在任中に、 ペリーが浦賀沖に黒船を来航してきました。 wikipedia. 生まれつき病床で、将軍になって5年後に亡くなってしまいます。 在任中に、幕府はアメリカと 日米和親条約を調印したり 江戸城にて、家定が米国総領事 ハリス と引見しています。 wikipedia. 公武合体策として当時の天皇、孝明天皇の妹和宮と結婚。 政略結婚にもかかわらず、二人の仲は睦まじいと伝えられています。 将軍として、229年ぶりとなる上洛を果たしますが 第二次長州征討の途上、大阪城で倒れ亡くなってしまいます。 wikipedia. 江戸幕府最後の将軍であり、日本の最後の将軍。 大政奉還や新政府軍への 江戸開城を行いました。 wikipedia. 今回は7代将軍から15代将軍をご紹介しました! 慶喜の写真が現代に近い、白黒写真になっているのが、特徴的でしたね。 江戸幕府以降、日本は近代化への道のりを進むわけですね。 それでは次回の記事をお楽しみに。

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「徳川秀忠」徳川家康の三男がなぜ江戸幕府二代目将軍になれたのか

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タップでお好きな項目へ:目次• 美人浅井三姉妹とは かの有名な 浅井三姉妹は、北近江の戦国大名浅井長政と、織田信長の妹、市との間にうまれました。 長女は 茶々姫、次女は 初姫、三女は 江姫です。 三人とも戦国の世に生まれ、激動の人生を歩みます。 三姉妹の父、浅井長政と母の市は兄の織田信長・豊臣秀吉軍に攻められ自害します。 浅井長政は織田信長の家臣でしたが、親交のある朝倉家を攻める織田信長に反旗を翻したためです。 三姉妹は父と母亡き後、豊臣秀吉の政略結婚として様々な人生を歩んでいます。 長女の茶々姫(のちの淀殿)は父母の仇、 豊臣秀吉の側室となり、秀頼を出産します。 次女の初姫は豊臣秀吉の計らいで 近江大津藩主、京極高次の正室となります。 そして三女の江姫は2度の結婚を経て、 徳川幕府2代目将軍徳川秀忠の正室となります。 江姫の3度の結婚 江姫は3度の結婚を経験しています。 まず最初は豊臣秀吉の政略結婚にて、従兄弟にあたる織田信長の次男である尾張大野城(常滑市)の城主、佐治一成と結婚します。 しかし、佐治一成が豊臣秀吉の敵方に味方したため、豊臣秀吉に離縁させられます。 2度目は秀吉の養子(秀吉の甥にあたる)、丹波国亀山城主(現:京都府亀岡市)、豊臣秀勝と結婚します。 しかし、この豊臣秀勝は朝鮮出兵の際、朝鮮国の巨済島(コジェド)で病死してしまいます。 その後、3度目の結婚として、徳川幕府2代目将軍徳川秀忠の正室として7人の子供をもうけました。 なお、江姫は2度目の結婚の際、豊臣秀勝との間に娘、完子(さだこ)をもうけます。 この豊臣定子は後に関白となる九条幸家の元に嫁ぎます。 豊臣完子と九条幸家の子孫が大正天皇皇后である貞明皇后であり、昭和天皇の母となります。 つまり、江姫の浅井家、織田家の血筋は現在の天皇、皇室にもつながっているのです。 徳川秀忠と江姫の子供たち 7人の子を授かった江姫ですが、 7人とも全てが江姫の実子であるかは不明な部分もあり、いまだ 研究が進められています。 以下、徳川秀忠と江姫の子供と言われている7人の人生の歩みです。 徳川秀忠と江姫の子供たち 長女 千姫 長女である千姫は、わずか7歳で従兄弟である 豊臣秀頼に嫁ぎます。 大坂の陣にて豊臣秀頼が自刃後、徳川四天王のひとり本多忠勝の孫、播磨姫路新田藩主、 本多忠刻と再婚をします。 本多忠刻との間に、一女一男を産みますが、長男の幸千代はわずか3歳で病死します。 長女の勝姫は岡山藩池田光政の正室となり、以降、岡山藩池田家の系譜は千姫の子孫となります。 二女 珠姫 二女珠姫は、徳川家と加賀藩前田家の政略結婚により、わずか3歳で前田利家の4男で3代藩主である 前田利常に嫁ぎます。 24歳で病没するまで3男5女を育てました。 長男の光高は、加賀前田藩3代藩主となり、以後、加賀前田家では江姫の血が代々次がれていくことになります。 三女 勝姫 三女勝姫は、徳川家康の次男で結城秀康の子である、 松平忠直の正室となります。 夫、松平忠直は大坂夏の陣で、かの真田幸村を討ち取り戦功をあげます。 しかし、褒美がなかったことに不満を覚え家臣、領民を殺すなど乱行が目立つようになります。 心の病を発症し、妻である勝姫を斬りつける事件を起こし豊後へ配流となります。 勝姫は江戸で子どもたちを養育し、長男仙千代(松平光長)には越後高田26万石が与えられ、越後高田藩・初代藩主となります。 四女 初姫 四女初姫は、生まれてすぐに江姫の姉初の養女として 京極家にはいります。 京極高次と側室との間に生まれた京極忠高と初姫は結婚しますが、初姫は 29歳の若さで亡くなってしまいます。 しかし、初姫が亡くなる時、夫である京極忠高は 相撲見物をしていて気付かなかったそうです。 その振る舞いに激怒した父徳川秀忠は、葬儀一切を徳川家で行い、京極家の参列を許しませんでした。 五女 和子 五女和子は、12歳の時に 後水尾天皇に入内して興子内親(おきこないしんのう)を生みます。 この興子内親が即位し、第109代天皇、明正天皇(めいしょうてんのう)となり、和子は天皇の母となります。 明正天皇は、859年ぶりの女帝となりました。 長男 家光 長男家光は、父秀忠の跡を継ぎ、 徳川幕府3代将軍となります。 (なお、家光が生まれる前に長男・世継ぎとして長丸が生まれますがすぐに亡くなり、三代目将軍は家光となります) 次男 忠長 次男忠長は、成人して駿河を領有したことから 駿河大納言と呼ばれるようになります。 しかし、兄であり徳川3代目将軍である徳川家光との確執から罪を着せられ、自害します。 【番外編】徳川秀忠の側室、子孫について 徳川秀忠には側室がいませんでした。 江姫は夫徳川秀忠より6歳年上でもあり、秀忠が気を使ったとも言われています。 しかし、徳川秀忠には大奥の下級女中である静(秀忠の乳母であった大姥の侍女)という女性との間に男子をもうけていました。 この静との間の子供が信濃 高遠城主であった保科正光の養子となり、以降、会津藩主となった保科正之でした。 保科正之は会津の産業振興で実績を挙げ、三代将軍家光や四代将軍の家綱に優秀な補佐として名を挙げました。 きょうのまとめ 徳川秀忠と江姫の子供たちについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか 徳川秀忠と江姫の子供たちは、.

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