アッシジ の フランチェスコ。 『アッシジ(Assisi)、 中世イタリアの町にタイムスリップ』アッシジ(イタリア)の旅行記・ブログ by endless446さん【フォートラベル】

アッシジ観光の体験談~フランチェスコ派の祈りの場でした~

アッシジ の フランチェスコ

これはカナ転記した場合には「アッスィーズィ」が近い。 一方、地元ウンブリア(ウンブリア方言 ())においては「アッスィスィ」が近い発音とされる。 日本語文献では一般に「アッシジ」 表記が多い。 このほか、「アッシージ」 、「アシジ」 など多様な表記ゆれがある。 地理 [ ] 位置・広がり [ ] ペルージャ県の中部に位置するコムーネで、 ()の西麓にあたる。 丘陵上に築かれたアッシジの市街は、県都から南南東へ約19km、から北へ約77km、から南西へ約95km、首都から北へ約131kmの距離にある。 自治体(コムーネ)としてのアッシジ市は、郊外部をその範囲に含み、市域面積は 186. 84 km 2 に及ぶ。 隣接コムーネ [ ] 隣接するコムーネは以下の通り。 - 北• - 北東• - 東• - 南東• - 南• - 南西• - 西• - 西 歴史 [ ] 先史・古代 [ ] ごろ、アッシジ周辺を含む、上流域からにかけての地域に最初の移住者が現れた。 ウンブリア人 ()と呼ばれるかれらは、高台の上に要塞化した小さな集落を築いた。 紀元前450年ごろには、がこれらの集落を徐々に奪っていった。 、はで中部イタリアを支配下に置いた。 ローマ人たちはスバシオ山麓の台地にアッシシウム( Asisium)の街を築いた。 当時のローマ人の遺跡は、現在も城壁や広場(、現在のコムーネ広場 Piazza del Comune)、劇場、円形闘技場、神殿などに見ることができる。 なお1997年には、当時のローマ人の村が、あたかもポンペイを思わせるような良好な状態で発掘されており、モザイクやフレスコ画で飾られた部屋が確認された。 、アッシジの街はルフィヌス(ルフィノ) ()司教の働きによりキリスト教に改宗した。 ルフィヌスはコンスターノ( ()、現在はの)で殉教するが、伝承によればアッシジ聖堂( (), サン・ルフィーノ聖堂)はその墓の上に建てられたという。 中世 [ ] 14世紀の画家のフレスコ画 545年、のは街の大部分を破壊した。 アッシジはその後の支配下に入り、その後はのの支配下に入った。 11世紀、この街は独立した都市国家となり(皇帝派)の立場を取ったが、このためゲルフ(教皇派)のとは激しく抗争する関係にあった。 若きジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(のちの)が捕虜となったポンテ・サン・ジョヴァンニの戦いも、こうした抗争の中の一幕である。 このことをきっかけとしてフランチェスコは物乞いの中に身を置き、「小さな兄弟会」()を設立することになる。 13世紀、それまでローマ時代の城壁内に収まっていた市街は、城壁の外へと拡大する。 この時代、都市はに含まれた。 皇帝の要塞であったロッカ・マッジョーレは1189年に市民によって略奪されていたが、1397年に教皇使節 ()枢機卿の命によって再建された。 アッシジはやがてペルージャの支配を受け、次いで何人かの専制君主の支配下に置かれた。 ビオルド・ミケロッティ ()、やその後継者である、ヤーコポ・ピッチニーノ ()、ウルビーノ公フェデリーコ2世 ()などである。 のの流行は年に大きな被害を与えた。 近世以後 [ ] (在位: 1458年 - 1464年)の時代、アッシジは再び教皇領となった。 1569年、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂 ()の建設が開始された。 ルネサンス期からその後の時代にかけて、アッシジは平穏に発展したことは、17世紀の邸宅()群が物語る。 今日のアッシジは、この町出身の聖フランシスコの伝説に導かれた多くの巡礼者が訪れる町である。 この聖人は、フランシスコ会の創設者として、またシエナの聖カタリナとともにイタリアの守護聖人として崇敬を集めている。 また、鳥に対して説教を行った伝説から、多くの人々に(非キリスト者にも)自然を愛した人物として記憶されている。 1997年9月、アッシジはウンブリア州を襲った2度の大地震に見舞われ、多くの史跡も被害を受けた。 しかし、復旧・復興はすみやかに行われた。 主要な観光地であるサンフランチェスコ教会は、2年足らずのうちに公開を再開した。 行政 [ ] 行政区画 [ ] アッシジには、以下の(フラツィオーネ)がある。 SS75• SS147 鉄道 [ ] 1866年に開業したアッシジ駅 ()がある。 アッシジ駅は、市街から南西へ約5km離れている。 空港 [ ] ペルージャとの中間、両市の市境にペルージャ空港 ()がある。 この空港の正式名称は「ペルージャ・サン・フランチェスコ・ダッシジ=ウンブリア国際空港」(Perugia San Francesco d'Assisi — Umbria International Airport)で、アッシジのフランシスコの名を副名称に採用している。 人物 [ ] 著名な出身者 [ ]• - 修道士、フランシスコ会創設者。 - 修道女、フランチェスコ会の女子修道会創設者。 () - 修道女、キアラの妹。 () - 修道士、聖人。 - サッカー選手 アッシジを舞台にした作品 [ ]• 脚本『真似』菊池寛() 姉妹都市 [ ]• () 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 2018年10月4日閲覧。 2013年9月19日閲覧。 2013年9月19日閲覧。 松浦弘明『快速マスター イタリア語』(語研、2013年)、p. ガッレリア・アッシジ. 2017年4月10日閲覧。 デジタル大辞泉(所収). 2015年4月18日閲覧。 百科事典マイペディア(所収). 2015年4月18日閲覧。 世界大百科事典 第2版(所収). 2015年4月18日閲覧。 堺憲一. 日本大百科全書ニッポニカ(所収). 2015年4月18日閲覧。 世界遺産詳解(所収). 2015年4月18日閲覧。 2015年4月18日閲覧。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 アッシジに関連する および があります。 この項目は、のに関連した です。

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スローツーリズムの聖地 イタリア、アッシジの葡萄畑を歩く

アッシジ の フランチェスコ

中川晴久 東京キリスト教神学研究所幹事 主の羊クリスチャン教会牧師 日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 論説委員 <はじめに> 「自分が出会った神さまは、本当にそんな方か?」 これは、私が信仰において迷ったときに、何度も自分自身に問いかけてきたことです。 神さまと最初に出会ったあの瞬間、あの時。 本当に心から「イエスを主」と告白した自分の信仰の原点に返ることは、大切なことです。 自分の出会ったイエス・キリストと向き合い、神さまの召しに忠実に歩んだ人物として紹介したいのが、アッシジのフランチェスコです。 とても分かりやすく真っすぐにイエスさまに向かった人です。 プロテスタント教会では名前を聞いたことがあるくらいで、ほとんど馴染みのない人でしょう。 しかし、まだカトリックとプロテスタントが分かれてない時代です。 神はキリスト教界に面白い信仰者を輩出させたのです。 今回は、このアッシジのフランチェスコについて簡単に紹介できたらと思います。 フランチェスコを知るうえで、もっとも親しまれ読まれているのは『フランシスコの小さき花』です。 <フランシスコの生い立ち> フランチェスコは1182年にピエトロ=ベルナルドーネとピカ夫人(本名:ヨハンナ)との間に、イタリア中部にあるアッシジの町で生まれました。 フランチェスコには弟アンゼロと妹が一人いたといわれています。 父ピエトロは裕福な織物商人で、南フランスから商品を仕入れて、中部イタリアで商いをしていました。 父ピエトロは商売をうまく成功させ、かなりの財を築いたようで、アッシジ市の政治にも口を出すようになっていました。 ベルナルドーネ家は庶民階級ですが、父ピエトロは騎士階級に入ることを強く望んでいたのです。 そのため、息子にかける想いはベルナルドネー家の出世への期待であふれていたようです。 父ピエトロは南フランスの文化に強く憧れを抱いていたため、息子のヨハネの名前をフランチェスコ(「フランスの人」という意味)という当時は風変わりな名前に改名しました。 中世ヨーロッパは騎士道の時代です。 騎士階級は世襲でしたが、何かで武勲をあげることができれば、騎士に取り立てられることもありました。 贅沢を知り遊びふけっていたフランチェスコは、父親の願いもあって、商人から騎士になり、やがては貴族に列せられることを夢見ていたのです。 <アッシジとペルージアの戦い> 当時アッシジは神聖ローマ帝国の統治下にありました。 1197年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が事故死すると、それを機に各地で反乱が勃発しました。 アッシジもまた皇帝側の貴族階級とそうでない市民階級に分かれており、1198年にアッシジ総督がアッシジを出た隙に、市民は貴族を追放して自治政府をつくってしまったのです。 追放された貴族たちは、失った地位と財産を取り戻すために、隣町の宿敵ペルージアに助けを求めました。 そのようにしてアッシジとペルージアの戦いが起こります。 この戦いをチャンスとして武勲を挙げるために、フランチェスコも参戦します。 ところが、彼は宿敵ペルージアに捕らえられ牢獄で1年あまりの捕虜生活を送ることになってしまいました。 牢獄での劣悪な環境によって、フランチェスコは健康を悪化させてしまいました。 しかしこの捕虜生活の中で、フランチェスコは一冊の福音書を手にしていました。 彼を支えたのは聖書のみ言葉だったのです。 父ピエトロが多額の身代金を支払ってフランチェスコをペルージャの牢獄から解放し、フランチェスコはアッシジに帰されるのですが、やはり牢獄での悪環境による病で長く病床につきました。 そして、ようやく体力も回復して元気になったかに思えた頃、 彼の心に変化が起っていたのでした。 フランチェスコはかつての贅沢や遊興に心を躍らせることができなくなっていたのです。 <第一回目の回心> 1年以上の捕虜生活、闘病生活、それらを経てなおもフランチェスコは騎士への夢を完全に捨てきれず、再び戦うために旅立ちました。 ところがその途中で神に語られます(『三人の同志の伝記』)。 「主人(神)と僕(王)とに仕えるのでは、どちらが優れているか。 」 「もちろん主人です。 」 「ではなぜ主人に仕えずに、僕に仕えようとするのか。 」 「では、わたしはどうすればよろしいのでしょうか。 」 「故郷へ帰りなさい。 何をすればよいか、そこで示されるであろう。 」 この語りかけが超自然的なものであったか否かは分りません。 しかし、疑いなく神的な語りかけでした。 フランチェスコはその声に素直に故郷へ戻ります。 そのすぐ後に、フランチェスコの第一回目の回心が起こりました。 ある日、馬に乗って城門を出ると、ハンセン病(聖書に出てくるツァラト) 患者に出会いました。 フランチェスコにとって、ハンセン病患者に会うことは最も苦痛なことでした。 フランチェスコはそれまでハンセン病を何よりも酷く嫌っていたのです。 病人を見てフランチェスコは嫌悪を感じて走り去ろうとしたとき、フランチェスコは見えない力に押し出されるかのように、馬から下りて、病人にお金を握らせて、その手に接吻をしたのです。 「私がまだ罪の中にいた頃、重い皮膚病を患っている人を見ることは、余りにも耐え難く思われました。 それで、主は自らわたしを彼らのうちに導いてくださいました。 そこで、わたしは彼らを憐れみました。 そして、かれらのもとを去った時、以前のわたしには耐え難く思われていたことが、魂と体にとって甘味なものに変えられました。 」(『聖フランシスコの会則と遺言』教友社「フランシスコの遺言」) フランチェスコはハンセン病患者を素通りすることがでなかったのです。 そして、聖霊に押し出され、馬から下りてその手に接吻までしたということです。 こ こから神のストーリーが目に見える形で展開していくのです。 この後、フランチェスコはハンセン病患者の中に入って行き、そこで看病やお世話をすることを通して、彼らの声を聴き、痛みを知ったのです。 フランチェスコの霊性は、当時世間がもっとも嫌い、見捨てられていたハンセン病患者たちの悲痛な叫びに教えられ、養われたのだということを忘れてはなりません。 もう一つ、フランチェスコの生活に大きな変化が現れました。 フランチェスコは一人で好んで野山に入って行き、自然を楽しんだということです。 神さまを知った人にとって、その目に映るものはこれまでのものとは全く違ってきます。 それは聖霊の語りかけを聞き、信仰の目を持つからです。 信仰者は、目に見える現実の中にも見えない神さまの御業を見ます。 一羽のスズメにも路傍に咲く小さな花にも、どんなものにも神の思いがあることを見ます。 そして、被造物全体に、創造の始めに神が「良し」とされた姿を見ることができるようになります。 フランチェスコはよく鳥や野の花、川の魚にも声をかけ、話をしたそうです。 神の造られた被造物を、自分の兄弟姉妹と呼んだのは有名な話です。

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聖フランチェスコの生涯、1枚の絵が8畳の大きさ、28枚におよぶ壁画は圧巻です!|海外旅行情報 エイビーロード

アッシジ の フランチェスコ

アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群 アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群は、イタリア中部にある人口2万人程度の街、アッシジにある世界遺産です。 アッシジの街や、サン・フランチェスコ大聖堂、サンタ・キァーラ修道院などが世界遺産の登録対象となっています。 アッシジ アッシジは、イタリア中部にある人口およそ2万7千人程度の都市です。 アッシジの街は、標高約1,300mのスバジオ山の斜面に広がっています。 この街は、カトリック教会の修道会であるフランシスコ会の創立者フランチェスコが生まれたことでも有名です。 また、カトリック教の巡礼地としても人気が高く、世界中から多くの巡礼者が訪れます。 ローマから:トレニタリア社で最短約2時間。 バスの場合は、テルミニ駅ではなく、ティブルティーナ駅より発着するので注意が必要です。 大聖堂は彼女の死後、13世紀中に建築され、1257年に完成しました。 アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群の場所 アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群は、イタリア中部、ウンブリア州ペルージャ県に位置する都市、アッシジにあります。 イタリア旅行の際は、ぜひアッシジやフランチェスコ聖堂、サンタ・キァーラ修道院にも立ち寄ってみてください! アッシジ - 世界遺産 アッシジはイタリア・中部にある都市です。 聖フランチェスコの生地であり、キリスト教徒も多く訪れる場所。 のどかな田舎の風景と中世の美しい街並みを見ることができ、2000年に「アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群」として世界遺産に登録されています。 街には聖フランチェスコ教会やミネルヴァ神殿など見どころもたくさん。 マッジョーレ要塞からはアッシジの街並みを見渡すことができます。 コムーネ広場の周りには、ショップやレストラン、カフェなどがあり、ウィンドウショッピングを楽しんだり、観光の合間の休憩場所としてもおすすめです。 この記事ではアッシジでオススメの観光スポットを紹介しています。 ぜひ参考にしてみてください。 アマルフィ - 観光名所 アマルフィは、イタリアのナポリから南へ約50km行ったところにある地中海沿いの町です。 世界一美しいといわれているアマルフィ海岸があることで有名で、1997年に「アマルフィ海岸」として世界文化遺産に登録されました。 ソレントからサレルノまでの約40kmにわたる海岸線には、切り立つ岸壁や吊り橋、そそり立つ塔、漁村群など、見事な眺望が続いています。 映画『アマルフィ 女神の報酬』の舞台にもなり、再びその美しさが注目を浴びました。 アマルフィへの行き方は、ナポリからバスをはじめとする車でのアクセスが一般的ですが、船を使って移動すれば、美しいアマルフィ海岸の景色を海上から楽しみながら、アプローチすることができます。 そんなアマルフィでおすすめのスポットをまとめているので、旅の参考にしてみてください。 ナポリ - 観光名所 イタリアの南部に位置する、ローマ、ミラノに続くイタリア第三の都市ナポリ。 その歴史は、古代ギリシャ人によって造られた植民都市から始まり、13世紀からはナポリ王国の首都として南イタリアの中心の街として栄えてきました。 現在は、イタリア王国に併合され、南イタリア最大の都市となっています。 古くから「ナポリを見てから死ね」といわれるほどの観光都市として知られており、美しい街並みやナポリ湾を挟み遠く見えるヴェスヴィオ火山を望む景色は、特におすすめです。 また1995年には、旧市街地が『ナポリ歴史地区』として世界遺産(文化遺産)に登録されるほど、遺跡や王宮などの歴史的建造物もあり、訪れる所はたくさん。 その中からおすすめの観光スポットを紹介します。

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